色絵誕生(5)…カテゴリー縦覧「印刷技術」編 ― 2015年08月02日 09時24分15秒
ずっと単眼鏡を覗いているので、目の調子がおかしいです。
網膜剥離になると嫌なので、この話題もそろそろ収束させます。
網膜剥離になると嫌なので、この話題もそろそろ収束させます。
読書百遍じゃありませんが、最初はさっぱり分からなかった印刷のことも、何度か本を読んでいるうちに、薄紙をはぐように、徐々に分かってきました。
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この続き物の最初に戻って、「インゼル文庫」の図版にもう一度立ち向かいます。
最初に、私なりの結論を述べておくと、あそこで取り上げた4冊の本は、戦後に版行されたものも含め、「3色分解のプロセス平版+オフセット印刷」によって刷られたものは1冊もなく、いずれも石版によって刷られたものだと思います。
そのこと自体は、図版を拡大すれば簡単に分かります。
たとえば、上の本は1967年に出た本ですが、その複雑な色合いも、75倍のポケット顕微鏡で覗けば、たちどころに赤・青・黄―より正確にはマゼンタ・シアン・黄色―の3色のドットの集合でできていることが分かります(※)。
(※ただし、実際には墨版を加えて4色、さらに淡緋色や淡藍色を加えて、6~7版の重ね刷りとすることも多い由。)
(手元の安いスキャナでは最高1200dpiでしかスキャンできません。75倍に拡大すると、上の画像よりもさらにドットが大きく、くっきり見えます。なお、上の画像には部分的に円環模様の連なりが見えますが、これはドットが一定の条件で並んだ時、仮現的に現れるもので、実体的な模様ではありません。いわばモアレ干渉縞のようなものです)。
逆に言うと、ポケット顕微鏡で覗いても、そこに3色ドットが見えなければ、それは3色分解印刷ではないと自信を持って言うことができ(手元の本を片っ端から眺めて確認しました)、インゼル文庫の挿絵は、いずれも<非・3色分解製版>によっていることが分かります。
しかし、インゼル文庫の挿絵も、拡大するといろいろドットが見えます。
「じゃあ、あれは何なのか?」ということが問題になりますが、石版の製版方法を確認しながら、その謎を順々に見てみます。
「じゃあ、あれは何なのか?」ということが問題になりますが、石版の製版方法を確認しながら、その謎を順々に見てみます。
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まず、第1回の最初に登場した蝶の画像。
(画像再掲)
その凄さを見るために、別の画像も見てみます。
(上の部分拡大)
当たり前の話ですが、印刷物とその刷版は同寸同大です。
つまり、この図とぴったり同じものを、その細かい毛の1本1本に至るまで、製版師(石版画家)は、手作業で版面に描き込んだわけです。おそらく拡大鏡を使い、持てる技術のすべてを傾けて制作にあたったのでしょう。
つまり、この図とぴったり同じものを、その細かい毛の1本1本に至るまで、製版師(石版画家)は、手作業で版面に描き込んだわけです。おそらく拡大鏡を使い、持てる技術のすべてを傾けて制作にあたったのでしょう。
そして色版ですが、朱色の部分を見ると分かるように、その色合いの濃淡は、細かい点の粗密によって表現されています。さらに目を凝らすと、青い模様も、黄色い羽も、その他の色も同様の表現をとっていることが分かります。これは恐らく細密な砂目石版と、手で描き込んだ点描(黙描)の併用によるものと推測します。
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石版画の土台となる石版石は、製版に先立って、粗さの異なる金剛砂を使って表面を研磨し、さらに砥石でツルツルになるまで磨き上げてから用いるのが基本です。上の蝶の図も、シャープな画線が必要な、毛や輪郭線の部分(墨版)は、そうした石を用いていると思われます。
一方、濃淡表現が必要な色版には、目の細かい金剛砂を撒いた上から他の石版石でこすって一様な凹凸を付けた(「砂目を立てる」といいます)石版石を使います。その上から製版用のクレヨンで描画すると、筆圧に応じて濃淡のある版ができる仕組みです。
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参考として、「印刷製版技術講座」から上記のことに関連する記述を抜き書きします。
■写真応用のH・Bプロセスが実用されるまでは、平版はすべて描き版(かきはん)によって、多色原稿を多年の修練をへた平版画家が、頭のなかで色を分解し、その原稿中に含まれている黄色なり赤色なりを石版石の面に描出して、1色ごとに描き別けて行ったものである。したがってうす黄色、中黄、濃い黄色というように段階をつけて行くから一つの原稿をまとめるためには十数色も色をかけることになる。(4巻、p.56)
■写真応用のH・Bプロセスが実用されるまでは、平版はすべて描き版(かきはん)によって、多色原稿を多年の修練をへた平版画家が、頭のなかで色を分解し、その原稿中に含まれている黄色なり赤色なりを石版石の面に描出して、1色ごとに描き別けて行ったものである。したがってうす黄色、中黄、濃い黄色というように段階をつけて行くから一つの原稿をまとめるためには十数色も色をかけることになる。(4巻、p.56)
■クレオン、鉛筆画のような濃淡のあるものを石版に製版するときには、前述のように砂目石版を使用する。このような砂目石版を製版するにはクレオンと称する脂肪性材料を使用する。クレオンの組成は、解き墨とほぼ同様である。クレオンは多量の脂肪を含有し、図画の精粗に応じて硬さの違ったものを用いる。〔…〕使用のときはその一端をけずり、クレオンの挟みにはめて石面に描画する。(4巻、p.12)
■そのほか磨き石版面に細いペンで細点を打ちながら点の大小によって濃淡を描き出したりする点ボツ、すなわち黙描製版などが高級色刷石版(これをクロモ石版という)に応用された。このように石版石の表面に細点を一つずつ打って行くことは、非常に技術を要し黙ポツの技術者となるには相当の年月を要した。(4巻、p.3)
■そのほか磨き石版面に細いペンで細点を打ちながら点の大小によって濃淡を描き出したりする点ボツ、すなわち黙描製版などが高級色刷石版(これをクロモ石版という)に応用された。このように石版石の表面に細点を一つずつ打って行くことは、非常に技術を要し黙ポツの技術者となるには相当の年月を要した。(4巻、p.3)
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原図を与えられた製版師が、経験に基づき必要な色数を判断し、その色ごとに繊細な版をすべて手作業で作り、それらを寸分の狂いもなく重ねて刷り上げる…まったく気の遠くなるような作業です。
ともあれ最初の印象どおり、この蝶の図には、当時最高の石版技術が投入されていることは間違いなく、今ではとてもこれと同じものを作ることはできないでしょう。
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つづいて、鉱物画を見てみます。
(画像再掲)
こちらについても、別の画像を見てみます。
(部分拡大①)
(部分拡大②)
どの図も共通して、絵にシャドーを付けて立体感を出すために、平面的な色版の上に黒い網目をかけています。さらに一番下の図(トルコ石)では、黒以外にブルーも網目で濃淡を表現しているのが分かります。
この網目は、いわゆるオフセットの網版ではないのか?
…というのが、私の中で大きな疑問でした。
…というのが、私の中で大きな疑問でした。
しかし、これも石版の技法の一種で、この網目は今でいう「スクリーントーン」のようなフィルムを手貼りしたものです。(それに対して網版は、ガラス板にダイヤモンド針で細い線を一面に刻んだ「網目スクリーン」を通して画像を撮影し、それを版面に転写することで作られます。)
これも上掲書に関連記述があったので、転記しておきます。
■石版に淡調をつくるには石版用フィルムが用いられる。
石版フィルムは、木框に張ったゼラチン透明膜(ときにはセルロイド膜)より成り、膜の表面に凸状の細い平行線、網点網目またはその他の地紋を有し、これらの表面に転写インキを着け石版石面に伏せて、フィルム網の裏面から圧力を加えて、石版に転写すると、そこに網線や網点の描出ができる。米英ではこれをベンデー製版法、ドイツではタンギール製版法と呼んでいる。(4巻、p.15)
石版フィルムは、木框に張ったゼラチン透明膜(ときにはセルロイド膜)より成り、膜の表面に凸状の細い平行線、網点網目またはその他の地紋を有し、これらの表面に転写インキを着け石版石面に伏せて、フィルム網の裏面から圧力を加えて、石版に転写すると、そこに網線や網点の描出ができる。米英ではこれをベンデー製版法、ドイツではタンギール製版法と呼んでいる。(4巻、p.15)
こうした技法がなぜ生まれたかといえば、蝶の図のような工芸的製版は、やはり時間的にも、経済的にも大変だったからです。
■このように石版石の表面に細点を一つずつ打って行くことは、非常に技術を要し黙ポツの技術者となるには相当の年月を要した。そこで一般の商業印刷用として黙描製版をもっと能率的にやるために、フィルム製版(別名ベンディフィルム製版)が行われるようになった。(4巻、p.3)
しかし、能率とともに失われるものもあることは、蝶と鉱物の図を比べれば、自ずと明らかで、繊細さという点で両者の懸隔は大きいです。
以下、具体的な作業についても抜書きしておきます。
■フィルムを用いて必要な部分に網線や網点をつくり出すとき不用の部分はあらかじめアラビアゴム液をぬっておおっておく。
フィルム製版をするには、フィルムの取付け枠装置や、フィルムの裏面から圧力を加えて転写するためのメノウ製スタンプ、小型ゴムローラーなどがあり、また網点のフィルムの場合には裏から加える圧力の大小によって網点の大小を作り出すことができる。(4巻、pp.15-16)
フィルム製版をするには、フィルムの取付け枠装置や、フィルムの裏面から圧力を加えて転写するためのメノウ製スタンプ、小型ゴムローラーなどがあり、また網点のフィルムの場合には裏から加える圧力の大小によって網点の大小を作り出すことができる。(4巻、pp.15-16)
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ここまで見てくれば、鳥の巣の図の正体も明瞭です。
(画像再掲)
この卵と巣の部分も、要は描き版とフィルム製版の併用であり、オリーブ色と浅葱色の部分を見ると、フィルムの網点を手描きの点描によって補っていることも分かります。
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問題はキノコの図です。
(画像再掲)
ここに見える円環状の模様は、明らかに鉱物や鳥の図とは異質に感じられ、そこに写真製版が応用されているのではないか…と最初は思いました。
しかし、75倍に拡大して観察すると、この円環模様も細かいドットの配列が生み出した仮現的なものに過ぎないことが分かります。要は使われている網点が小さく、密なために、鉱物や鳥の図とは、一見違った印象を生んでいるのでした。
ちなみに鳥の図でも、鳥の赤茶の羽の部分には、円環状のパターンが浮かんでいるのが分かります。
(画像再掲)
(部分拡大)
参考に別のキノコの図も見てみます。
(部分拡大)
褐色のキノコの傘も、緑の草も、ドットの隙間にも色が差されているのが見てとれます。この図が、平面的な色版と網目版の重ね刷りである証拠です。
また輪郭線の部分はドットではなく、連続線で描かれています。
そして、この図はあらゆる色が単色で表現されており(使う色の数だけ版を用意したわけです)、全体が三原色のドットに還元されるプロセス平版とは、根本的に違うものであることが明らかです。
以上のような特徴は、(網点の細かさを除き)すべて鉱物や鳥の図と共通するものですから、やはりこれも石版に分類できるのでしょう。(ひょっとしたら、版面は石版ではなく、金属版かもしれませんが、いずれにしても旧来の平版技法に拠っていることは確かです)。
(次回、網版と三原色分解の歴史的なことをメモ書きして、この項完結の予定)
色絵誕生(6)…カテゴリー縦覧「印刷技術」編 ― 2015年08月03日 21時12分27秒
石版のことで補足しておくと、石版にも写真版があります。
20世紀初頭の絵葉書はそれがスタンダードで、たとえば下の絵葉書もそうです。
20世紀初頭の絵葉書はそれがスタンダードで、たとえば下の絵葉書もそうです。
被写体はマサチューセッツの名門女子大、スミス・カレッジ附属天文台。
石版の写真に手彩色したもので、1901~07年頃のものです。
石版の写真に手彩色したもので、1901~07年頃のものです。
拡大すると、ちょっとザラッとした感じはありますが、網点がまったくないのが気持ち良い。でも、これはいったいどうやって版を作ったのか?
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これも今回初めて知ったことですが、石版の製版には「直描法」(解き墨やクレヨンなどを用いて、石版面に直接描画製版を行なうもので、一番広く用いられた方法)の他に、「転写法」というのがあり、これまた広く用いられた技法だそうです。そして、この絵葉書は、その転写法によって製版されたものなのでした。
これも前掲の『印刷製版技術講座』から引用します。
■転写法〔…〕は直接、石版石の面に脂肪墨液やクレオンを用いて描画する代りに一度転写紙面に描画して、それから石版石面に転写して所要の版面をつくる方法である。〔…〕転写を行なうには、転写紙と転写インキ、転写器械などが入用である。〔…〕
転写紙は紙面に適当な糊を塗布したものである。この糊層の表面に脂肪墨液で描画して、それを石面に伏せ、圧力を加えて石版石面に転写し、紙の裏面から水分を与えると、その水分のために紙と糊とがはがれ、糊面に描画した脂肪性の図画はみな石版石の方に移ってしまう。〔…〕石版の製版にはその目的によってそれぞれ異なった転写紙を用いるべきであるが、わが国ではコロムペーパーという転写紙を広く用いている。〔…〕このほか写真石版用の転写紙は原図を複写したネガから焼付けるために感光性転写紙などが用いられて来た。(4巻、pp.12-13)
感光性転写紙の組成はよく分かりませんが、それによって写真のネガから、石版に転写できるポジ画像を得ていたわけです。
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さて、個人的にはあまり好ましからざる網点ですが、印刷術における大きな技術革新には違いなく、それによって大きな恩恵を被っていることも確かなので、その歴史を、長文の引用になりますが、資料として掲出しておきます。出典は、同じく『印刷製版技術講座』第1巻、pp.44-45です。(読みやすいように、適宜改行して引用。行頭1字下げは原文でも改段落している箇所)
■網版の創始者としては次の2人が一般に認められている。すなわちアメリカ人のフレデリック=ユージェン=アイヴス(Frederic Eugene Ives, 1856~1937)とドイツ人のゲオルグ=マイゼンバッハ(Georg Meisenbach, 1841~1922)である。
アイヴスは1876年ゼラチン凸凹型(gelatine relief)と石コウ型を使用する“フォト-ステレオタイプ法”(photo-stereotype process)によって、線画のネガチブから写真凸版をつくり、さらに1878年には同じく“フォト-ステレオタイプ法”を利用して、連続諧調の網版を製版する方法を発明した。“ハーフトーン”(Halftone)という名称をはじめて用い、1881年にはハーフトーン法の米国特許2種を得た。
(アイヴスとハーフトーンの記念切手、米1996)
そして1885年にはフランクリン学会(Franklin Institute)の主催でフィラデルフィアで開かれた新案品展覧会(Novelties Exhibition)に、網版の印刷物を出品すると同時に、数色刷りのクロモ石版の印刷物を3色版に複製して(単線スクリン使用)出品した。次いでその翌年(1886)かれは2枚抱き合わせの網目スクリンを紹介し、角シボリの使用を推奨した。その後レヴィー兄弟(Lovis Edward and Max Levy)の網目スクリンの完成に協力し、1888年スクリンの製作に最も大切な刻線機をレヴィー兄弟が発明したので、はじめて交差線の網目スクリンが得られるようになり、アイヴスはアメリカで最初の精巧な網版の製版印刷に成功した。
このアイヴスと呼応してドイツのミュンヘンで写真製版の仕事をはじめていたゲオルグ=マイゼンバッハは、1879年に単線スクリンを修整済みの透明ポジチブに重ねて透かし撮りを行ない。半ばでスクリン角度を変えてふたたび露光し、網ネガチブを得る方法を工夫した。しかし1881年には暗箱の撮りわくの中わくの内部に、単線スクリンを差込み露光の半ばでその角度を変えて、2度露光して網ネガチブを撮影する方法に改め、1882年に英独両国の特許を得た。
ところがかねてからマイゼンバッハの網版の研究に協力していた建築技師のシュメーデル(Ritter von Schmädel)が1884年にダイアモンド針の彫刻機を工夫し、約15cm平方のガラス板に単線スクリンを彫り、1888年になってはじめて2枚合わせの交差線スクリンが完成した。その結果、露光半ばでスクリン角度を変える必要もなくなり、露光も1回で済むことになってマイゼンバッハの網版製版法“オートティピー”(Autotypie)は全く面目を一新した。
このアイヴスと呼応してドイツのミュンヘンで写真製版の仕事をはじめていたゲオルグ=マイゼンバッハは、1879年に単線スクリンを修整済みの透明ポジチブに重ねて透かし撮りを行ない。半ばでスクリン角度を変えてふたたび露光し、網ネガチブを得る方法を工夫した。しかし1881年には暗箱の撮りわくの中わくの内部に、単線スクリンを差込み露光の半ばでその角度を変えて、2度露光して網ネガチブを撮影する方法に改め、1882年に英独両国の特許を得た。
ところがかねてからマイゼンバッハの網版の研究に協力していた建築技師のシュメーデル(Ritter von Schmädel)が1884年にダイアモンド針の彫刻機を工夫し、約15cm平方のガラス板に単線スクリンを彫り、1888年になってはじめて2枚合わせの交差線スクリンが完成した。その結果、露光半ばでスクリン角度を変える必要もなくなり、露光も1回で済むことになってマイゼンバッハの網版製版法“オートティピー”(Autotypie)は全く面目を一新した。
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長々とした引用のわりに、今ひとつモノの方がはっきりしませんが、ともあれ1880年代は近代印刷術における大きな画期で、この時期に網版が生まれたおかげで、1890年代以降(20世紀に入ればなおさら)写真図版が書籍や雑誌に多用されるようになりました。
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網版に次いで、もう1つおまけに3色分解カラー印刷の話。
こちらは、網版よりも一足早く、1860年代から研究が続けられてきましたが、その実用化の道筋がついたのは、やはり1880年代に入ってからのことです。(というか、3色分解法の実用化のカギは、3色の版をいかに効果的に重ね刷りするかにあり、その解答こそ網版だったので、両者の実用化には必然的な結びつきがあります。)
■現在行われている凸版式の三色版の三色版の印刷法を実際に完成したのは、ドイツのミュンヘンのドクトル=イー=アルバート(Dr. E. Albert)であると称せられ、かれは1883年にエオシン増感臭素銀コロディオンエマルジョンのタネ板を用いて、色分解撮影を行ない、さらにその後になって、3色の網掛けに際して各色版のスクリン角度を15度ないし30度変える方法の特許は、自分がその首位を与えられるべきだと請求した。〔…〕
アメリカに三色版法を輸入したのは、ニューヨークの写真師で後に写真製版を兼業していたウイリアム=クルツ(William Kultz)であった。かれはドイツからエルンスト=フォーゲル(Ernst Vogel, Dr H. W. Vogel の息子)をニューヨークに招聘し、二色版の製版法の実地指導を受け、“フォーゲル=クルツ式分解撮影”(Verfahren Vogel-Kultz)という肩書付で三色印刷を始め、1893年3月ボストン出版の“製版印刷雑誌”(The Engraver and Printer)の口絵として実物分解の“青果物の図”を動力仕掛けの印刷機で印刷して発表した。(1巻、pp.48-49)
アメリカに三色版法を輸入したのは、ニューヨークの写真師で後に写真製版を兼業していたウイリアム=クルツ(William Kultz)であった。かれはドイツからエルンスト=フォーゲル(Ernst Vogel, Dr H. W. Vogel の息子)をニューヨークに招聘し、二色版の製版法の実地指導を受け、“フォーゲル=クルツ式分解撮影”(Verfahren Vogel-Kultz)という肩書付で三色印刷を始め、1893年3月ボストン出版の“製版印刷雑誌”(The Engraver and Printer)の口絵として実物分解の“青果物の図”を動力仕掛けの印刷機で印刷して発表した。(1巻、pp.48-49)
ネットは便利なもので、検索すればたちどころにその「青果物の図」を見ることができます(キャプションがドイツ語なのは、この図は米国に先立ち、1893年1月、まずドイツの雑誌に発表されたからです)。
典型的な静物画の構図とモチーフ。その仰山さがむしろおかしみを生みますが、ここで押さえておきたいのは、当時はまだカラー写真がなかったので、こうした“総天然色”の画像は、印刷物の独壇場だったことです。当時の印刷人の得意を思いやるべし。
『印刷製版技術講座』には、その3色分解の製版の実際も書かれていますが、ここに載せるにはあまりにも枝葉に入った話題ですので、割愛します。
(この項、ひとまず終わり)
【付記】 あまりにも暑いので、ブログの方もちょっと夏休みをとります。
さて、鉱物Bar !! ― 2015年08月08日 19時18分29秒
ブログの夏休みもそろそろ終わり。ゆるゆると再開することにします。
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「鉱石(イシ)をみながら酒をのむ」
今年もこのフレーズが脳内にこだまする季節になりました。
今年もこのフレーズが脳内にこだまする季節になりました。
フジイキョウコさんプロデュースによる、恒例の真夏の夜の夢。
鉱物とそれにまつわるアートやアンティークを愛でながら、鉱物にちなんだ酒肴やお菓子を堪能する素敵なイベントが、今年も来週金曜日から開催されます。
今回は記念すべき末広がりの第8回。
そしてサブテーマは、ついに登場した「星」。
そしてサブテーマは、ついに登場した「星」。
■鉱物Bar vol.8 「天体嗜好症 石と星と」
地底深く眠る鉱物と、遥か宙に輝く星と。
何万光年も離れて共鳴しあう世界が
今宵、生まれます (DM紹介文より)
地底深く眠る鉱物と、遥か宙に輝く星と。
何万光年も離れて共鳴しあう世界が
今宵、生まれます (DM紹介文より)
○会期 2015年8月14日(金)~8月23日(日) <会期中は月・火休>
15:00~21:00(最終日20:00)
○会場 GALLERY みずのそら
東京都杉並区西荻北5-25-2(最寄り駅 JR西荻窪)
MAP http://www.mizunosora.com/map.html
○参加メンバー(敬称略)
鉱物アソビ(鉱物標本)、メルキュール骨董店(天体系古物)
ROUSSEAU(テラリウム)、彗星菓子手製所(和菓子)、なの(和菓子)
竹内よしこ(酒肴)
○WEB(GALLERY みずのそらさんのイベント紹介ページ)
http://www.mizunosora.com/event177.html
15:00~21:00(最終日20:00)
○会場 GALLERY みずのそら
東京都杉並区西荻北5-25-2(最寄り駅 JR西荻窪)
MAP http://www.mizunosora.com/map.html
○参加メンバー(敬称略)
鉱物アソビ(鉱物標本)、メルキュール骨董店(天体系古物)
ROUSSEAU(テラリウム)、彗星菓子手製所(和菓子)、なの(和菓子)
竹内よしこ(酒肴)
○WEB(GALLERY みずのそらさんのイベント紹介ページ)
http://www.mizunosora.com/event177.html
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今回も強烈に心惹かれる企画ですね。
天文アンティークで鳴らしたメルキュール骨董店さん、理知的な多面体テラリウムで独特の世界を創作されているRousseau(ルソー)さん、そして鉱物アソビのフジイキョウコさんのコラボレーションが、いったいどんな空間を生み出すのか、これは気になります。
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星と石、天文学と鉱物学は、同じ「地学」の仲間ですが、その歴史的背景はずいぶん異なり、趣味の世界でも交わることが少なかったように思います。それでも、そこに漂う硬質で、透明で、涼やかな空気感には、確かに響き合うものがあり、最近では星と石に等しく惹かれる人も増えているようです。それを思うと、今回の企画は「満を持して」というか、「生まれるべくして生まれた」ものでしょう。
鉱物趣味の人も、天文趣味の人も、どうぞすてきなひと時を。
ハレー彗星の記憶…カテゴリー縦覧「肉筆もの」編 ― 2015年08月10日 10時54分20秒
昨日8月9日は、長崎に原爆が炸裂した日。
被爆者の平均年齢が、昨年よりも(たしか)0.6歳上がった…というニュースを目にして、一瞬「?」と思いました。当然1歳上がるものと思ったからです。でも、ちょっと間を置いて「ああ…」と思いました。被爆者の方も次々と亡くなられているのですね。
歴史の中で、あの日の記憶が風化することは、ある意味やむを得ないことかもしれません。でも、個人の中では最期の日まで決して風化することはない…というのも確かで、そのことにこそ想像力を働かせたいと、追悼番組を見ながら思いました。
★
さて、今回のカテゴリー縦覧は「肉筆もの」です。
これも個人の肉声や体温を伝えるものであり、そこには単なるデータに還元できない要素があります。私が肉筆ものに惹かれるのも、まさにその点です。
下は以前見つけた謎の星図。
(星図部分は 16.5×27.5cm 、シート全体は 25.5×34.7cm)
上端右寄りに北極星を描き、そこから天の赤道を越えた辺りまで、天球の一部が星座とともに表現されています。
よく見ると、「Route de Cométe 彗星の経路」とあって、ふたご座、おおぐま座、うしかい座などの間を縫って、天球上で彗星が月単位で位置を変えていく様子が描かれています。
上部余白には、非常に達筆な文字で「惑星のスケッチ Esquisse planétaire」とあって、その後に、これがハレー彗星の経路図であるような説明があります。
彗星は、現代の用法では惑星と異なるカテゴリーですが、歴史的には「恒星とは対照的にその位置を絶えず変える星」という意味で、同じく「プラネット」と呼ばれたので、ここではそうした意味でしょう。達筆すぎて、読めない箇所が多いのですが、文章は全体として彗星の位置変化の説明になっているようです。
ちょっと解せないのは「1834年11月14日」という日付です。これは「1835年」の間違いではないでしょうか(このときハレー彗星が太陽に最接近したのは1835年11月16日でした)。さらに下の欄外には「1912年」とあって、これはその次の回帰年の説明だと思うのですが、実際には1910年でしたから、これまた事実と異なる記述です。
右下に書かれた「1845年5月25日」は、この図が描かれた日付だと思いますが、結局この図がどういう目的で、誰によって描かれたのかは、まったく謎というほかありません。何となく天文学書の挿絵の下絵のようにも見えますが、だとしたら、上のような基礎的なミスは生じない気もします。
ひとつはっきり言えることは、この図の作者は、非常な努力(とおそらくは愛情)を注いでこれを作成したことです。彼がプロであれ、アマチュアであれ、19世紀中葉を生きたフランスの一人の天文家の息吹が、ここに通っていることは確かでしょう。
胸元をかざる宇宙のヒーロー…カテゴリー縦覧「こまごまグッズ」編 ― 2015年08月12日 06時04分14秒
以前も登場したスプートニク3号のシガレット。
(http://mononoke.asablo.jp/blog/2015/04/04/7603862)
(http://mononoke.asablo.jp/blog/2015/04/04/7603862)
今日は「こまごまグッズ」なので、その中身を見に行きます。
中身はこれ以上ない…というぐらいこまごましたピンバッジ。
中身はこれ以上ない…というぐらいこまごましたピンバッジ。
1950年代~70年代、東西冷戦下で展開された、米ソの宇宙開発競争。
現在の中高年世代は、そのころの世間の空気をよくご存知と思います。
スペースロマンと国威発揚がないまぜになった宇宙開発の話題は、当時恰好のプロパガンダツールでしたが、このソ連製ピンバッジも、そんな時代の空気を今に伝えています。
現在の中高年世代は、そのころの世間の空気をよくご存知と思います。
スペースロマンと国威発揚がないまぜになった宇宙開発の話題は、当時恰好のプロパガンダツールでしたが、このソ連製ピンバッジも、そんな時代の空気を今に伝えています。
宇宙時代到来のたしかな道筋をつけた、ロケット工学の父・ツィオルコフスキー(1857-1935)。本物のロケットが飛ぶ頃には、すでに過去の人でしたが、ソ連ではずっと英雄扱いでした。
(決めゼリフは「地球は青かった」)
ボストーク1号(1961)で、人類初の有人宇宙飛行を成し遂げた勇士、ガガーリン(1934-1968)。
(同じく「ヤー・チャイカ(わたしはカモメ)」)
ボストーク6号(1963)で、女性として初めて宇宙飛行をしたテレシコワ(1937-)。
★
ガガーリンも、テレシコワも、今では注を付けないと伝わりにくいかもしれません。
とはいえ、人々に感動を与えたその有名なセリフも、多分に誤訳・誤伝によるもの…なんてことは、さっきウィキペディアで知ったばかりなので(※)、私にしても、そう偉そうに言うことはできません。
とはいえ、人々に感動を与えたその有名なセリフも、多分に誤訳・誤伝によるもの…なんてことは、さっきウィキペディアで知ったばかりなので(※)、私にしても、そう偉そうに言うことはできません。
(※)わりと即物的な通信内容だったのが、いろいろ潤色されて「名セリフ」になったらしいです。まあ、そこが報道記者の腕の見せ所だったのでしょう。
ガガーリンが乗り込んだボストーク1号。すっきりしたデザインがカッコいい。
黒地に金が映える宇宙船。ボストーク1号の本体(左側の球体)とロケット最上段。
ボストーク計画に先行したスプートニク。
何だかよく分からないけれども、うねうねと遊泳する宇宙飛行士。
変な絵柄ですが、背景の緑がきれいです。
変な絵柄ですが、背景の緑がきれいです。
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カッコよくもあり、かわいくもあり。
たかがピンバッジとはいえ、そのデザイン力はなかなかあなどれません。
冷戦下の鬱屈した思いが、地上に託せぬ夢をせめて宇宙に託そうと、こういう瑣末な対象に自ずとはけ口を求めたせいかもしれません。
たかがピンバッジとはいえ、そのデザイン力はなかなかあなどれません。
冷戦下の鬱屈した思いが、地上に託せぬ夢をせめて宇宙に託そうと、こういう瑣末な対象に自ずとはけ口を求めたせいかもしれません。
驚異はうつろう…カテゴリー縦覧「驚異の部屋」編 ― 2015年08月13日 19時45分43秒
「驚異の部屋」が現代の博物館のルーツだ…というのは、たぶん正しい説明だと思います。が、「驚異の部屋」と博物館にはひとつ大きな違いがあります。
それは博物館は、つぶれない限りいつまでも博物館であり続ける一方、「驚異の部屋」は放っておくとじき「驚異の部屋」でなくなってしまうということです。
「驚異の部屋」において、最も大切な要素は、もちろん「驚異」です。
しかし、「驚異」はまさに水もの。昨日目を見張った驚異も、今日はすでに見慣れたものとなり、さらに明日には陳腐極まりないものと化している…というのは、ある意味避けがたいことです。そして一旦そうなってしまえば、もはやそれは「驚異の部屋」ではなく、「陳腐な部屋」に過ぎません。
しかし、「驚異」はまさに水もの。昨日目を見張った驚異も、今日はすでに見慣れたものとなり、さらに明日には陳腐極まりないものと化している…というのは、ある意味避けがたいことです。そして一旦そうなってしまえば、もはやそれは「驚異の部屋」ではなく、「陳腐な部屋」に過ぎません。
「驚異の部屋」が「驚異の部屋」であり続けるには、新たな驚異を注入し続けるしか手がありませんが、巨万の富を誇り、権勢並ぶ者なき王侯貴族にしても、そんなことは到底不可能であり、早晩限界にぶつかるのは目に見えています。そういう意味で、「驚異の部屋」とは、原理的に「不可能な趣味」だと言えるんじゃないでしょうか。
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「じゃあ、お前さんのやってることは、まるで意味がないじゃないか」と思われるかもしれません。でも、そんなことはないのです。なぜなら、私が目指しているのは、「驚異の部屋」ではなく、それと似て非なるものであるところの「お気に入りの部屋」だからです。
お気に入りのモノに囲まれて暮らすというのは、ごく穏当な願いで、多くの人が共感してくださることでしょう。そしてお気に入りのモノは、お気に入りの人と同じく、見慣れることはあっても、陳腐化することはありません。むしろ見慣れることで、魅力が増すことだって少なくありません。
「諸人よ、モノに驚異を求めるなかれ、慰藉を求めよ」…と、訓戒を垂れたい思いですが、まあよけいなお節介ですね。
(次回、「驚異の部屋」おまけ編)
「驚異の部屋」の誕生…カテゴリー縦覧「驚異の部屋」編(おまけ) ― 2015年08月14日 19時39分48秒
ところで、「驚異の部屋」はいつ始まったのか?
もちろん、検索すればそれは15世紀のイタリアで始まり云々…と書いてありますが、ここではもっと身近な話題として、「驚異の部屋」というコトバ(日本語)がいつからポピュラーになったかを書き留めておきます。
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国会図書館の蔵書検索に当ると、「驚異の部屋」を冠した書籍で、最も出版年が古いのは、以下の本だと教えてくれます。
■驚異の部屋 : ハプスブルク家の珍宝蒐集室
エリーザベト・シャイヒャー 著 ; 松井隆夫, 松下ゆう子 訳.
平凡社(1990.12)
エリーザベト・シャイヒャー 著 ; 松井隆夫, 松下ゆう子 訳.
平凡社(1990.12)
(外箱(左)と本の中身)
1990年は平成2年、今からちょうど四半世紀前です。
いわば今年は、本邦における「驚異の部屋」25周年。
昭和時代には「驚異の部屋」をタイトルにした本が全く存在しなかった…というのも、ちょっと意外な気がしました。
いわば今年は、本邦における「驚異の部屋」25周年。
昭和時代には「驚異の部屋」をタイトルにした本が全く存在しなかった…というのも、ちょっと意外な気がしました。
そして、その次は9年とんで以下の本。
■文化の「発見」:驚異の部屋からヴァーチャル・ミュージアムまで
吉田憲司 著.
岩波書店(1999.5)
吉田憲司 著.
岩波書店(1999.5)
ここで時代は21世紀に替わり、さらに以下のタイトルに続きます(再刊は除く)。
■マーク・ダイオンの『驚異の部屋』 = Mark Dion’s chamber of curiosities : ミクロコスモグラフィア : 東京大学総合研究博物館小石川分館開館1周年記念特別展
西野嘉章 監修.
東京大学総合研究博物館(2003.1)
■マーク・ダイオンの「驚異の部屋」講義録 : ミクロコスモグラフィア
西野嘉章 著.
平凡社(2004.4)
西野嘉章 監修.
東京大学総合研究博物館(2003.1)
■マーク・ダイオンの「驚異の部屋」講義録 : ミクロコスモグラフィア
西野嘉章 著.
平凡社(2004.4)
■版画でつくる驚異の部屋へようこそ!展 = Willkommen in der "gedruckten" Wunderkammer!
町田市立国際版画美術館(2011.10)
町田市立国際版画美術館(2011.10)
■驚異の部屋 = Chamber of Curiosities KUM Version:京都大学ヴァージョン
東京大学総合研究博物館, 京都大学総合博物館 編 、『驚異の部屋-京都大学ヴァージョン』展実行委員会 監修.
東京大学総合研究博物館(2013.11)
東京大学総合研究博物館, 京都大学総合博物館 編 、『驚異の部屋-京都大学ヴァージョン』展実行委員会 監修.
東京大学総合研究博物館(2013.11)
■ギレルモ・デル・トロ創作ノート:驚異の部屋
ギレルモ・デル・トロ 著 ; マーク・スコット・ジグリー 共著 ; 阿部清美 訳.
Du Books(c2014)
ギレルモ・デル・トロ 著 ; マーク・スコット・ジグリー 共著 ; 阿部清美 訳.
Du Books(c2014)
■歴史のなかのミュージアム = The museum in history:驚異の部屋から大学博物館まで
安高啓明 著.
昭和堂(2014.4)
安高啓明 著.
昭和堂(2014.4)
ギレルモ・デル・トロ(=映画監督)の著作のように、歴史的な「驚異の部屋」とは直接関係ない本を加えても、わずかに8冊。さらに以下の「ヴンダーカンマー」本2冊を加えても計10冊ですから、いかにも少ないですね。これまた意外でした。
たしかにポピュラーになったとはいえ、やはりマイナーはマイナーです。
■愉悦の蒐集ヴンダーカンマーの謎
小宮正安 著.
集英社(2007.9)
■真夜中の博物館:美と幻想のヴンダーカンマー
樋口ヒロユキ 著.
アトリエサード(2014.5)
小宮正安 著.
集英社(2007.9)
■真夜中の博物館:美と幻想のヴンダーカンマー
樋口ヒロユキ 著.
アトリエサード(2014.5)
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さて、そんな「驚異の部屋」の揺籃期、1992年12月の雑誌「太陽」は、「澁澤龍彦の『驚異の部屋』」を特集し、その巻頭に荒俣宏さんの「<驚異の部屋>の大魔王へ」という一文を据えています。
(「驚異の部屋」には「ヴンダーカムマー」と振り仮名が付いています)
これは興味深い一文です。荒俣氏は、前年の1992年6月に、アムステルダムで「遠い世界に触れさせる―芸術と奇品、オランダ収集品1585-1735」という展覧会を見た感想を書き付けたあとに、こう書いています。
そういえば、わが大魔王澁澤龍彦の著作から唯一学びとらなかったことばがあった、とぼくはそのとき思いついた。ほかでもない、驚異の部屋(ヴンダーカムマー)というドイツ語である。それがどういう部屋で、またどういう歴史を閲(けみ)し、いかなる内実を有したかという点では、わが大魔王はきわめて雄弁にその妖異な魅力を語りつくしていた。いや、澁澤龍彦は、ヴンダーカムマーの典型であるルドルフⅡ世の収集物を筆頭に、これらをひっくるめて<妖異博物館>なる名称のもとに紹介の筆を惜しまなかったのだ。そして妖異なる名称は異端魔術を連想させる。したがって澁澤龍彦の子どもであるわれわれは、当然のように、長らくこれを錬金術工房に付随するがごとき魔術の側の施設と理解してきた。
日本における「驚異の部屋」のイメージには、当初、非常に魔術的な匂いの濃い、一種のバイアスがかかっていたというのです。たしかに、「驚異の部屋」にはそういう色合いがあるので、これは必ずしも間違いではないでしょうが、それが全てでもないので、やはり偏頗な理解だったと言えると思います。
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そうしたオリエンテーションを持ってスタートした、日本の「驚異の部屋」。
さて、現況はどんなものでしょうか。
さて、現況はどんなものでしょうか。
93年の「太陽」編集子は、「メリエス=ドラコニアの華麗なびっくり箱が 軽みの90年代にどう展開するか」という問いを、読者に投げかけています。22年後の我々は、はたして彼(彼女)に何と答えるべきか?
「驚異の部屋」の歴史的実体については、その後まちがいなく理解が進んだと思います。そしてそのイメージは、多くの創作家に影響を及ぼし、「驚異の部屋」は今やあらたな像を結びつつあるようにも見えます。
ただし、「驚異の部屋」の真価たる「驚異そのもの」を、我々がそこからいっそう豊かに汲み出せるようになったかどうかは、少なからず疑問です。
8月の星座…ブリストルの街から ― 2015年08月15日 11時06分39秒
蝉たちは元気ですが、今日はわりと涼しく、午前中はエアコンなしで過ごしています。
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さて、恒例の季節の星座めぐり。
今日はイングランド南西部のブリストルから見た空です。
今日はイングランド南西部のブリストルから見た空です。
ロンドンから西に190キロ。イギリスはそう広い国ではないので、それだけ行くと、もう大西洋から切れ込んだブリストル海峡にぶち当たります。そこに開けた港湾都市がブリストル。
エイボン川に反射して揺れる灯り。
街中に一際高くそびえる、ブリストル大聖堂のシルエット。
それらを見下ろす夏の星たちが今日の主役です。
街中に一際高くそびえる、ブリストル大聖堂のシルエット。
それらを見下ろす夏の星たちが今日の主役です。
キャプションを読んでみます。
8月の星座。イギリスに住む人ならば、この星図を使って、8月中旬から9月中旬までの星座を学ぶことができます。皆さんは今、ブリストルから南の方を向いているところです。右手に見えるのは大聖堂の塔です。月のない晩ならば、カシオペア座からはくちょう座を経て、いて座に至る銀河の流れを見ることができるでしょう。
頭上にはこと座のヴェガと、はくちょう座のアルビレオが輝き、中天にはわし座のアルタイルが光を放っています。
暦のサイトでチェックすると、今日は旧暦の7月2日で、古人が祝った七夕は、ちょうど今ぐらいの季節感ですね。よく知られているように、七夕は俳句では秋の季語です。
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今日は8月15日なので、この児童用百科事典で今日の出来事をチェックすると、イギリスでは「VJ (Victory over Japan) Day」、すなわち対日戦勝記念日で、この百科事典が出た当時(1949)は、国民の祝日でした。
先方にしてみれば、慶祝ムードいっぱいの晴れやかな日で、当然のことながら、日本における8月15日とは、ニュアンスが全く異なります。
ちなみに、8月6日の項には、当然のごとく広島への原爆投下が記載されていましたが、8月9日の項には長崎への言及がなく、代わりに1896年のこの日、ドイツのリリエンタールが墜落死したことが述べられています。
思えばそれから半世紀もしないで、人類は高空から巨大な爆弾を投下する技術を、我が物としていたんですね。そして、さらに四半世紀もしないうちに、月へと到達…。
人間の中身はちっとも変わらないのに、その恐るべき技術の進展に目をみはります。
人間の中身はちっとも変わらないのに、その恐るべき技術の進展に目をみはります。
これは「人類の進歩」というよりも、「技術そのものの自律的進歩」と呼ぶのがふさわしい気がします。
歌う本、祈る本…カテゴリー縦覧「書斎」編 ― 2015年08月16日 20時40分09秒
人は書斎に何を求めるのでしょうか?
もちろんそれは人それぞれです。単に資料を置き、書き物をする物理的スペースがあればよい人もいるし、そこに独自の意味、何らかの精神性を求める人もいるでしょう。
私の場合、「理科室風書斎」ということをこれまで言ってきて、それに新たに付け加えることは余りありません。
とはいえ、人間は多面的存在ですから、私の書斎にしても、理科室一本槍ということはなくて、そこにはいろいろな要素があります。
たとえば、古い宗教書の類。
別に私はキリスト教徒ではありませんし、そうした本を手元に置く義理もないのですが、それらは昔の人の心について多くのことを物語りますし、いろいろ考える契機にはなります。
別に私はキリスト教徒ではありませんし、そうした本を手元に置く義理もないのですが、それらは昔の人の心について多くのことを物語りますし、いろいろ考える契機にはなります。
グレゴリオ聖歌の楽譜集もその1冊。
真鍮の金具を打った大型本は、重さが6キロもあり、相当ズシッときます。
時代は19世紀半ばですから、格別古いものではありません。
でも、当時盛んだったグレゴリオ聖歌復興運動の中心にいた一人、イエズス会士のルイ・ランビョット(Louis Lambillotte)の古写本研究をふまえて編纂されたもの…という点に、いくぶんか面白みがあります。
背後の大きいのは、19世紀後半と推定される、ロシア正教の聖歌集(その記譜法からズナメニ聖歌と呼ばれます)の手写本。手前の小さい本は、1806年の年記がある、ボヘミア地方(現チェコ)で制作されたGebehtbuch(祈祷書)です。
ロシア正教の書物は、旧ソ連時代に宗教弾圧で失われたものが多く、時代の新しい19世紀のものでも、それなりに貴重だと思います。
一方、ゲベートブッフは、18~19世紀初頭に、ドイツ語圏のカトリック教徒が生み出した庶民芸術に属するもので、こういう民衆バロック的装飾感覚が、ドイツ系移民を通じて、初期のアメリカン・フォークアートに影響を及ぼしたと聞きます。素朴な手彩色の写本ですが、装丁は凝った総革装で、ゲベートブッフが貧しさゆえに生まれたわけではなく、日本の写経と同じく、書写すること自体が篤信の行いとして尊ばれたことを示しています。
これもロシア正教の古い本です。
木の板に革を貼り付けた表紙に、緑青の出た留め金具。
こういう風情にひかれる心が、私の中には確かにあります。
こういう風情にひかれる心が、私の中には確かにあります。
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今日は、話題が書斎のことに及んだついでに、ブログの趣旨とちょっと外れたモノを載せました。
芸術植物園…カテゴリー縦覧「ヴンダーショップ・イベント」編 ― 2015年08月17日 13時28分44秒
今日は夏休み。
昨夜の驟雨と、日が陰ったのとで、暑さも一服のようです。
夏の疲れを癒やすのに、ちょうどよい中休みです。
昨夜の驟雨と、日が陰ったのとで、暑さも一服のようです。
夏の疲れを癒やすのに、ちょうどよい中休みです。
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庭にも、お宮にも、雑木林にも、今は植物がみっしり茂って、こういう雨上がりの日には、草木の匂いが強く鼻をうちます。
(かつて庭だったもの)
園芸趣味の人を除けば、植物のことを四六時中考えている人は少ないかもしれませんが、植物と人間のかかわりは深く、長く、今後も絶えることはおそらくないでしょう。
植物は常に身近にあって、その気になれば、いつだって彼らの声なき声に耳を傾けることができます。(仮に鉢植えのない家でも、冷蔵庫にはたいてい植物が入っているでしょう。そして、いつまでに使い切るべきか、その声なき声に耳を傾けているのではありますまいか。)
植物の姿は、それ自体、自然が手がけた秀逸なデザインですが、人は古来その姿を懸命に写し取って、身の回りを彩ってきました。そういう造化の神の模写、さらには「二次創作物」を集めて、改めて植物と人間のかかわりを見直そうという展覧会が、現在、名古屋の愛知県美術館で開かれています。
■芸術植物園 Between Botany and Art
○会期 2015年8月7日(金)―10月4日(日)
月曜休館(9月21日(祝)は開館、9月24日(木)は臨時休館)
10:00-18:00 金曜日は20:00まで
○会場 愛知県美術館 (愛知芸術文化センター10階)
名古屋市東区東桜1-13-2 TEL 052-971-5511
最寄駅 地下鉄東山線・名城線 栄駅
MAP → http://www-art.aac.pref.aichi.jp/info/index.html
○会期 2015年8月7日(金)―10月4日(日)
月曜休館(9月21日(祝)は開館、9月24日(木)は臨時休館)
10:00-18:00 金曜日は20:00まで
○会場 愛知県美術館 (愛知芸術文化センター10階)
名古屋市東区東桜1-13-2 TEL 052-971-5511
最寄駅 地下鉄東山線・名城線 栄駅
MAP → http://www-art.aac.pref.aichi.jp/info/index.html
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本展覧会のタイトルは「芸術植物園/Between Botany and Art」ですが、「芸術」と並ぶもう一方の主役は「科学」です。
「古来、わたしたち人間は、食物や薬として有益な植物と有毒で危険な植物とを取り違えないように、身近な植物の特徴を調べ、分類し、それを絵や図に残してきました。さらに時代を経て、より広い世界の植物を目にするようになると、この世に存在するあらゆる植物を網羅して、一定の基準に従って整理しようという欲求が生まれます。
このような科学的な目線のかたわらで、植物は生命力に満ちた存在として、あるいは季節の移ろいを感じさせる風物として、その時々の芸術のなかに独自の表現を生み出してきました。科学と芸術、植物のこれら二通りの描き方は、時に反発し合い、時に混じり合いながら、お互いの表現をより豊かなものにしてきたのです。」 (主催者による解説文抜粋)
したがって、ここでいう「botany」は単に「植物」の意味ではなく、学問としての「植物学」の意味を込めているのでしょう。そういうわけで、この展覧会には、東西の博物図の展示が大量に含まれています。有名どころでは、ソーントンの『フローラの神殿』やツュンベリの『日本植物誌(フローラ・ヤポニカ)』、飯沼慾斎の『草木図説』…などなど。
理科趣味・博物趣味に惹かれる人には、これらも見逃せぬところです。
うまい具合に、チケットが回ってきたので、夏が終わる前に一度行って来ようと思います。(なお、本展は愛知県美術館の単館企画で、今後の巡回展はないそうです。)
(案内チラシ裏面より)
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