色絵誕生(6)…カテゴリー縦覧「印刷技術」編2015年08月03日 21時12分27秒

石版のことで補足しておくと、石版にも写真版があります。
20世紀初頭の絵葉書はそれがスタンダードで、たとえば下の絵葉書もそうです。


被写体はマサチューセッツの名門女子大、スミス・カレッジ附属天文台。
石版の写真に手彩色したもので、1901~07年頃のものです。


拡大すると、ちょっとザラッとした感じはありますが、網点がまったくないのが気持ち良い。でも、これはいったいどうやって版を作ったのか?

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これも今回初めて知ったことですが、石版の製版には「直描法」(解き墨やクレヨンなどを用いて、石版面に直接描画製版を行なうもので、一番広く用いられた方法)の他に、「転写法」というのがあり、これまた広く用いられた技法だそうです。そして、この絵葉書は、その転写法によって製版されたものなのでした。

これも前掲の『印刷製版技術講座』から引用します。

転写法〔…〕は直接、石版石の面に脂肪墨液やクレオンを用いて描画する代りに一度転写紙面に描画して、それから石版石面に転写して所要の版面をつくる方法である。〔…〕転写を行なうには、転写紙と転写インキ、転写器械などが入用である。〔…〕
転写紙は紙面に適当な糊を塗布したものである。この糊層の表面に脂肪墨液で描画して、それを石面に伏せ、圧力を加えて石版石面に転写し、紙の裏面から水分を与えると、その水分のために紙と糊とがはがれ、糊面に描画した脂肪性の図画はみな石版石の方に移ってしまう。〔…〕石版の製版にはその目的によってそれぞれ異なった転写紙を用いるべきであるが、わが国ではコロムペーパーという転写紙を広く用いている。〔…〕このほか写真石版用の転写紙は原図を複写したネガから焼付けるために感光性転写紙などが用いられて来た。(4巻、pp.12-13)

感光性転写紙の組成はよく分かりませんが、それによって写真のネガから、石版に転写できるポジ画像を得ていたわけです。

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さて、個人的にはあまり好ましからざる網点ですが、印刷術における大きな技術革新には違いなく、それによって大きな恩恵を被っていることも確かなので、その歴史を、長文の引用になりますが、資料として掲出しておきます。出典は、同じく『印刷製版技術講座』第1巻、pp.44-45です。(読みやすいように、適宜改行して引用。行頭1字下げは原文でも改段落している箇所)

■網版の創始者としては次の2人が一般に認められている。すなわちアメリカ人のフレデリック=ユージェン=アイヴス(Frederic Eugene Ives, 1856~1937)とドイツ人のゲオルグ=マイゼンバッハ(Georg Meisenbach, 1841~1922)である。

アイヴスは1876年ゼラチン凸凹型(gelatine relief)と石コウ型を使用する“フォト-ステレオタイプ法”(photo-stereotype process)によって、線画のネガチブから写真凸版をつくり、さらに1878年には同じく“フォト-ステレオタイプ法”を利用して、連続諧調の網版を製版する方法を発明した。“ハーフトーン”(Halftone)という名称をはじめて用い、1881年にはハーフトーン法の米国特許2種を得た。

(アイヴスとハーフトーンの記念切手、米1996)

そして1885年にはフランクリン学会(Franklin Institute)の主催でフィラデルフィアで開かれた新案品展覧会(Novelties Exhibition)に、網版の印刷物を出品すると同時に、数色刷りのクロモ石版の印刷物を3色版に複製して(単線スクリン使用)出品した。次いでその翌年(1886)かれは2枚抱き合わせの網目スクリンを紹介し、角シボリの使用を推奨した。その後レヴィー兄弟(Lovis Edward and Max Levy)の網目スクリンの完成に協力し、1888年スクリンの製作に最も大切な刻線機をレヴィー兄弟が発明したので、はじめて交差線の網目スクリンが得られるようになり、アイヴスはアメリカで最初の精巧な網版の製版印刷に成功した。

 このアイヴスと呼応してドイツのミュンヘンで写真製版の仕事をはじめていたゲオルグ=マイゼンバッハは、1879年に単線スクリンを修整済みの透明ポジチブに重ねて透かし撮りを行ない。半ばでスクリン角度を変えてふたたび露光し、網ネガチブを得る方法を工夫した。しかし1881年には暗箱の撮りわくの中わくの内部に、単線スクリンを差込み露光の半ばでその角度を変えて、2度露光して網ネガチブを撮影する方法に改め、1882年に英独両国の特許を得た。

ところがかねてからマイゼンバッハの網版の研究に協力していた建築技師のシュメーデル(Ritter von Schmädel)が1884年にダイアモンド針の彫刻機を工夫し、約15cm平方のガラス板に単線スクリンを彫り、1888年になってはじめて2枚合わせの交差線スクリンが完成した。その結果、露光半ばでスクリン角度を変える必要もなくなり、露光も1回で済むことになってマイゼンバッハの網版製版法“オートティピー”(Autotypie)は全く面目を一新した。

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長々とした引用のわりに、今ひとつモノの方がはっきりしませんが、ともあれ1880年代は近代印刷術における大きな画期で、この時期に網版が生まれたおかげで、1890年代以降(20世紀に入ればなおさら)写真図版が書籍や雑誌に多用されるようになりました。

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網版に次いで、もう1つおまけに3色分解カラー印刷の話。

こちらは、網版よりも一足早く、1860年代から研究が続けられてきましたが、その実用化の道筋がついたのは、やはり1880年代に入ってからのことです。(というか、3色分解法の実用化のカギは、3色の版をいかに効果的に重ね刷りするかにあり、その解答こそ網版だったので、両者の実用化には必然的な結びつきがあります。)

■現在行われている凸版式の三色版の三色版の印刷法を実際に完成したのは、ドイツのミュンヘンのドクトル=イー=アルバート(Dr. E. Albert)であると称せられ、かれは1883年にエオシン増感臭素銀コロディオンエマルジョンのタネ板を用いて、色分解撮影を行ない、さらにその後になって、3色の網掛けに際して各色版のスクリン角度を15度ないし30度変える方法の特許は、自分がその首位を与えられるべきだと請求した。〔…〕

 アメリカに三色版法を輸入したのは、ニューヨークの写真師で後に写真製版を兼業していたウイリアム=クルツ(William Kultz)であった。かれはドイツからエルンスト=フォーゲル(Ernst Vogel, Dr H. W. Vogel の息子)をニューヨークに招聘し、二色版の製版法の実地指導を受け、“フォーゲル=クルツ式分解撮影”(Verfahren Vogel-Kultz)という肩書付で三色印刷を始め、1893年3月ボストン出版の“製版印刷雑誌”(The Engraver and Printer)の口絵として実物分解の“青果物の図”を動力仕掛けの印刷機で印刷して発表した。(1巻、pp.48-49)


ネットは便利なもので、検索すればたちどころにその「青果物の図」を見ることができます(キャプションがドイツ語なのは、この図は米国に先立ち、1893年1月、まずドイツの雑誌に発表されたからです)。

典型的な静物画の構図とモチーフ。その仰山さがむしろおかしみを生みますが、ここで押さえておきたいのは、当時はまだカラー写真がなかったので、こうした“総天然色”の画像は、印刷物の独壇場だったことです。当時の印刷人の得意を思いやるべし。

『印刷製版技術講座』には、その3色分解の製版の実際も書かれていますが、ここに載せるにはあまりにも枝葉に入った話題ですので、割愛します。

(この項、ひとまず終わり)

【付記】 
あまりにも暑いので、ブログの方もちょっと夏休みをとります。