驚異はうつろう…カテゴリー縦覧「驚異の部屋」編 ― 2015年08月13日 19時45分43秒
「驚異の部屋」が現代の博物館のルーツだ…というのは、たぶん正しい説明だと思います。が、「驚異の部屋」と博物館にはひとつ大きな違いがあります。
それは博物館は、つぶれない限りいつまでも博物館であり続ける一方、「驚異の部屋」は放っておくとじき「驚異の部屋」でなくなってしまうということです。
「驚異の部屋」において、最も大切な要素は、もちろん「驚異」です。
しかし、「驚異」はまさに水もの。昨日目を見張った驚異も、今日はすでに見慣れたものとなり、さらに明日には陳腐極まりないものと化している…というのは、ある意味避けがたいことです。そして一旦そうなってしまえば、もはやそれは「驚異の部屋」ではなく、「陳腐な部屋」に過ぎません。
しかし、「驚異」はまさに水もの。昨日目を見張った驚異も、今日はすでに見慣れたものとなり、さらに明日には陳腐極まりないものと化している…というのは、ある意味避けがたいことです。そして一旦そうなってしまえば、もはやそれは「驚異の部屋」ではなく、「陳腐な部屋」に過ぎません。
「驚異の部屋」が「驚異の部屋」であり続けるには、新たな驚異を注入し続けるしか手がありませんが、巨万の富を誇り、権勢並ぶ者なき王侯貴族にしても、そんなことは到底不可能であり、早晩限界にぶつかるのは目に見えています。そういう意味で、「驚異の部屋」とは、原理的に「不可能な趣味」だと言えるんじゃないでしょうか。
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「じゃあ、お前さんのやってることは、まるで意味がないじゃないか」と思われるかもしれません。でも、そんなことはないのです。なぜなら、私が目指しているのは、「驚異の部屋」ではなく、それと似て非なるものであるところの「お気に入りの部屋」だからです。
お気に入りのモノに囲まれて暮らすというのは、ごく穏当な願いで、多くの人が共感してくださることでしょう。そしてお気に入りのモノは、お気に入りの人と同じく、見慣れることはあっても、陳腐化することはありません。むしろ見慣れることで、魅力が増すことだって少なくありません。
「諸人よ、モノに驚異を求めるなかれ、慰藉を求めよ」…と、訓戒を垂れたい思いですが、まあよけいなお節介ですね。
(次回、「驚異の部屋」おまけ編)
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