僕だけの夢の望遠鏡2015年10月05日 21時26分37秒

(昨日のつづき)

貧しげな風情と、そこに漂ういじらしさ。
この望遠鏡のレンズセットも、まさにそうした品です。


ダウエル光学(DAUER)というのは、昔たくさんあった、廉価な望遠鏡を供給していたメーカーの1つで、「天文ガイド」誌なんかで、乏しい小遣いを握り締めた少年たちの幻想を、盛んにあおっていたものです。


口径40ミリといえば、文句なしに小望遠鏡です。
それをさらに紙の筒で自作する―いや、自作せざるを得なかった―天文少年の心を、思いやるべし。

このレンズはデッドストック品なのか、実際に使われた形跡はありません。
でも、同等品を買って、せっせと工作に励んだ少年が日本の各地に必ずいたはずです。彼がはじめて筒先を空に向けたときの胸の高鳴りを、私ははっきりと想像することができます。そして、そのファーストライトがどのような結果だったかも…。


おそらく色収差でカラフルな輪郭を持った月の表面に、辛うじてクレーターが見えるぐらいだったと思います。あるいは、それすら見えなかったかもしれません。その結果は、もちろん彼を満足させるものではなかったでしょう。彼がそこでただちに次の目標に向かって、勇躍邁進したならば大いに結構です。


でも、このレンズセットが、お父さんやお母さんに無理を言って、やっと買ってもらったものだとしたら…。彼は決してそんな割り切り方はできないし、お手製の望遠鏡に、やっぱり深い愛情を抱いたことでしょう。そして、その愛情は深い悲しみや怒りを超克した末に生まれたものだけに、私はそこに何とも言えないいじらしさを感じてしまいます。

   ★

こんな風に見て来たように書くのは、何を隠そう私にも似た経験があるからです。
それをこのレンズセットに投影して、過剰に反応してしまう自分を抑えることは、なかなか難しいです。

人間を形作っているのは、こういう瑣末な経験の集積に他ならないと思います。


コメント

_ 蛍以下 ― 2015年10月06日 02時05分18秒

子供の頃、私の父親は公務員で安定したサラリーを得ていたにもかかわらず、その多くを本の購入にあてる人でして、「遠鏡が欲しい」などとは、とても言えませんでした。
ならばせめて釣竿でもと、せがんでみたものの、なかなか買ってもらえず、それでもなお食い下がった挙句に、短い安物の竿を買ってもらいました。
父親は海の街に生まれ育ったくせに、釣りなど一切関心がなく、一緒に釣りをしたこともありません。
こんなことを覚えているのは、私が当時の悲しみや怒りを超克していないからなんでしょうが、勇躍邁進すべく、先日、キスを釣って天麩羅にしていただきました^^

_ S.U ― 2015年10月06日 08時57分17秒

 工作をして天に向けるまでの夢を買ったと思えばいいのでしょうが、大人になってからの思い出としてはそれでよくても、その時はそうはいかないでしょうね。

 でも、この説明書はいけませんねぇ。たとえば、土星の写真。40mmなら仮にアクロマートでも、カッシニ空隙はともかくとしてC環はとてもじゃないが見えないでしょう。今なら景品表示法違反かなんかじゃないでしょうか。

_ 玉青 ― 2015年10月07日 07時12分38秒

〇蛍以下さま

あはは。まあ今となっては「恩讐の彼方に」ですね。
美味しいキスを頬張りながら、すべて水に流されるのが上々吉かと。
それにしても、息子目線からは一寸どうかと思いますが、お父上は実に素晴らしい方ではありませんか。(でも今のわが身を振り返り、いかにも耳が痛いです・笑)。

〇S.Uさま

>夢を買ったと思えば…

ダウエルさんも「まあ、うちは夢を売る商売だから…」と思っていたかもしれませんが、子どもにとっては花より団子、やっぱり夢よりも見え味ですよね。
さて、今日も土星ですが、こちらはカッシニ空隙どまりですから、いくぶんかは良心的かも。

_ S.U ― 2015年10月07日 08時40分04秒

>夢を買ったと思えば…
 今、こういうのを買い集めている玉青さんを拝見しますと、子どもの時の意趣返しをされているのではないかと見えてきます。日常生活では「あきらめ」も大事ですが、真理探究のためには「意趣返し」も重要でしょうね。

>カッシニ空隙どまり
 40mm単レンズはともかくとして、土星の輪がそれなりに見える望遠鏡を買ったら、カッシニ空隙やC環が見えないかと頑張ることは、見えるか見えないかは別にして、次のステップとして絶対に必要なことだと思います。そういう意味では、景品表示法違反も意味があるかもしれません。
 ところで、私ども天文少年にははじめ「カッシニ空隙」の「隙」が読めず、何と読むんだろう、「くうりょう」かなぁ、などと思っていました。「環」も難しい漢字でした。

_ 玉青 ― 2015年10月08日 07時10分31秒

>意趣返し

ああ、確かにそんな気持ちがあるのかもしれませんね。
でも、もうだいぶ意趣も返しましたし、蛍以下さんに書いたように、私自身もそろそろ「恩讐の彼方に」至らないといけない頃かも。。。

>空隙

S.Uさんはひょっとして、早々と振り仮名付きの本を卒業された口じゃありませんか。
私は多くの漢字を振り仮名で覚えたのですが、でもそのせいで「北京」を「ほっけい」と読んで笑われた思い出があります(横山光輝さんの漫画『水滸伝』には、歴史性を出すためか、「ほっけい」と振られていました)。そういえば、足穂は「花崗岩」を「みかげいし」と読むよう教師に指導されて、憤慨していましたね。

_ S.U ― 2015年10月08日 08時37分45秒

>振り仮名付きの本を卒業された口
 私が子どもの頃は、古い本には振り仮名があり、新しい本には振り仮名がなかったと思います。「カッシニ空隙」はたぶん誠文堂新光社の本あたりで知ったものと思いますが、振り仮名はなかったですね。

 玉青さんは、ご幼少の頃より古い文献で勉強されたのではないですか。

 子ども向け漫画は総体的に振り仮名がありましたね。漫画を読むと漢字が読めるようになる、というポジティブな見方もありました。

_ 玉青 ― 2015年10月09日 07時18分04秒

>漫画

そうです、そうです。
私は漫画で漢字(の読み方)を覚えたのでした。

_ S.U ― 2015年10月10日 12時04分33秒

>横山光輝さんの漫画『水滸伝』~「ほっけい」
 中国語の読みについてほとんど知りませんが、よく考えてみるとこの横山光輝さんの判断が正しいのではないでしょうか。「北京」をペキンと発音していたのは、中国でも一部の時代、一部の地域のことですよね。最近では「ペイジン」と綴っています(中国語の発音は存じませんが)。

 ですから、日本語で北京の歴史を論じるときは、ペキンでなくてよくて、むしろ漢字の一般的な読みであるいわゆる漢音呉音で「ほっけい」のほうがよろしいのではないでしょうか。そういう意味では、玉尾さんも笑われる筋合はなかったと存じます。

_ 玉青 ― 2015年10月11日 16時08分38秒

なかなか漢字の読みは一筋縄ではいきませんね。
逆に「南京」の読みを覚えた子供が、会津八一の『南京新唱』を「ナンキンしんしょう」と読んで笑われたり…ということもありがちです。そして、奈良の南京に対して、京都を「北京」と称することもあったそうで、こちらは「ほっきょう」と読んだんでしょうか。この齢になっても、一向に迷いは尽きません。(^J^)

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