SHIMADZU 憧憬(その2) ― 2015年10月24日 17時09分36秒
(昭和42年発行の『島津製作所史』。今回の記述は同書によります。右下は同社の創業記念資料館パンフレット)
島津の創業は明治8年(1875)。今年で創業140年です。
初代・島津源蔵(1839-1894)は、元々京都の仏具師の家の生れで、若い頃は自身もそれを生業にしていました。彼の場合、仏器・三具足などの金工・鋳物細工が専門でしたから、もともと金属加工の技術が下地にあって、そこに新来の理化学器械への強い興味が結びついて、島津製作所は生まれたのです。
明治17年(1884)には、源蔵の長男・梅治郎(後に二代目源蔵を襲名)が、弱冠16歳にして、最新式のウィムシャースト型感応起電機(静電誘導による高電圧発生装置)の製作に成功し、父親にまさるとも劣らぬ才気を示しました。
明治28年(1895)には、物故した初代・源蔵の悲願だった標本部が新設され、島津は学校用理科教材の総合メーカーとしての地位を固めます。
(人体模型製造に励む標本部の職人。上掲書より)
こうして理科室と島津の蜜月は始まり、大正~昭和戦前に整備された各地の理科室には、島津製の器械、標本、剥製、模型が次々と納入され、その優品には、島津源蔵のイニシャルをとった「ジーエス式」の銘板が光り、子供達に強い印象を与えたのです(島津製作所を示す「S.S式」や、島津ファクトリーを示す「S.F式」というのもありました)。
(昭和12年発行の『島津理化学器械目録第500号』)
(上掲書より愛らしい物理実験器具2点。重心を説明する奔馬↑と、浮力を説明する浮沈子(ふちんし)↓)
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とはいえ、当初の主力商品だった学校用理化学器械は、島津全体の企業戦略の中で、徐々にその存在感を失う傾向にあったのも確かです。
(大正15年発行の分厚い『化学器械及薬品目録』)
(同書緒言。「島津製作所が呱々の声を揚げ創業の礎を定めしより星霜を閲みすること五十有余年文明の恵沢に培はれ江湖眷顧の雨露を潤ひ年を逐ふて発展し今や工場の坪数一万を超へ…」)
文明開化の頃こそ、教育用機器と産業応用機器の距離は至極近かったと想像しますが、その後の科学技術の進展は、真鍮と木による手工芸的製品では、とても対応できない時代を現出させました。「科学の子」たる島津製作所が、それに全力で応えようとしたのも当然です。
特に、第1次大戦中の大正6年(1917)、同社が個人商店から株式会社に改組したことは、その営業内容に大きな変化をもたらしました。その定款に謳われた製造品目は、
1.学術用器具
2.医療用電気器械器具および医科器械
3.化学工業用および各種工業用機械器具
4.電気機械器具
2.医療用電気器械器具および医科器械
3.化学工業用および各種工業用機械器具
4.電気機械器具
ときて、その次に
5.博物学その他の標本および模型
が挙がっています。もはや何が主で、何が従かは明らかです。
その後、第2次大戦をはさんで、昭和23年(1948)には、標本部が「京都科学標本(株)」(現・京都科学)として分社化され、さらに昭和44年(1969)には、それ以外の教育用理科機器の製造販売も、「(株)島津理化」に分離しました。
ですから、今の京都にそびえる島津製作所は、医療機器・産業機器に特化した会社であり、そこには理科室趣味の徒が憧れたSHIMADZUは既にないのです。そして、その遠い記憶だけが、本社近くの「島津創業記念資料館」に、ひっそり残されているというわけです。
まあ、これを寂しく思うのは、理科室趣味者の勝手な感傷で、初代源蔵にしても「愛玩の対象としての理科機器」を作る意図は最初からなくて、巨大な産業の槌音を響かせることこそ、彼の大志だったかもしれません。
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(再び)とはいえ、科学が生活者の目に見える場所で営まれ、咆哮ならぬ芳香を放っていた簡明素朴な時代を振り返ることは、単なる理科室趣味者の感傷にとどまらず、時代の在り方を省察することにつながるのではないでしょうか。
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