島津、理科の王国(2) ― 2015年10月29日 21時33分06秒
島津の明治時代のアルバムの中身を見てみます。
開巻、真っ先に出てくるのが、当時の島津の鳥瞰図。
(上の説明図。図では右側が北に描かれています。)
いちばん手前の建物群は、当時の本店で、今も創業記念資料館として往時の建物が残されています。左肩にある「創業当時の島津製作所(明治八年)」というのは、初代・島津源蔵が最初に店を構えた、図中7番の長屋の左端。今は長屋も取り払われて庭の一部となり、創業記念碑が立っています。また、右下の「明治二十一年の島津製作所」というのは、同年に新築された、隣の2番の建物のことで、さらに大きな3番の建物が完成したのは、明治27年(1894)のことでした。
(明治の島津本店)
そして、河原町通りをはさんで、その奥に展開する建物群が、明治36年(1903)に新設された河原町工場です。その後、昭和2年(1927)には、図中の18番、16番の建物の位置に新社屋が建ちました(このレトロな建物は、現在「Fortune Garden Kyoto」という商業施設に転用されています)。
さらに、この図からははみ出しますが、島津は大正6年(1917)に、河原町工場から西に4キロ寄った西大寺御池の地に、1万坪の土地を買収し、三条工場を新設。今はそこに本社機能も置いています。
現代の地図↓に位置を落としておくと、Aが島津創業記念資料館、Bが河原町の旧本社、Cが三条の現本社の位置です。ちなみにDは、初代源蔵が足しげく出入りし、お雇い外国人ワグネルに教えを受けた「京都舎密(せいみ)局」の位置です。
★
では、手始めに河原町工場の隅に立つ「模型工場」を訪ねてみましょう。
よく見ると…
女工さんはニコニコと微笑み、
人体模型や骨格模型も歓迎してくれているようです。
何となく鬼気迫る感じですが、果たしてこの中には、どんな光景が展開しているのでしょう?
何となく鬼気迫る感じですが、果たしてこの中には、どんな光景が展開しているのでしょう?
(と、間を持たせながらこの項つづく)
最近のコメント