地学、誕生す ― 2015年11月08日 09時22分38秒
(昨日の続き)
昨日引用した記事が、なぜ「その1」で終わっていたか?
その理由を思い出しました。
その理由を思い出しました。
それは、「その1」を書いた直後に、以下の論考を見つけ、全面的に改稿の必要を感じたからでした。
■梅田甲子郎:「高校地学教育の基本的問題点について」
奈良教育大学教育研究所紀要第17巻(1981)、pp.53-60.
http://near.nara-edu.ac.jp/bitstream/10105/6500/1/ier17_53-60.pdf
奈良教育大学教育研究所紀要第17巻(1981)、pp.53-60.
http://near.nara-edu.ac.jp/bitstream/10105/6500/1/ier17_53-60.pdf
まこと日の下に新しきものなし。
先回りして言うと、梅田氏の論考には、私の疑問に対する答がズバリ書かれていて、もはやそれに付け加えることはないのですが、もうちょっと周辺情報に当って(さらには資料なども買い込んで)、地学誕生前後の様子を肉付けしてはどうか…と欲を出し、結局、そのままになってしまったというのが事の真相です。
先回りして言うと、梅田氏の論考には、私の疑問に対する答がズバリ書かれていて、もはやそれに付け加えることはないのですが、もうちょっと周辺情報に当って(さらには資料なども買い込んで)、地学誕生前後の様子を肉付けしてはどうか…と欲を出し、結局、そのままになってしまったというのが事の真相です。
ごくコンパクトな論文ですので、詳細は直接リンク先をご覧いただければと思いますが、一応あらましと個人的所感を書き付けておきます。
★
まず「地学」という言葉は、前回載せた「その1」でも書いたように、「地理学」や「地質学」の同義語として明治時代から使われていたものの、理科教育の科目名として扱われることはありませんでした。
では、戦前(明治40年~昭和17年)の理科教育の科目はというと、旧制中学は、<物理化学>と<博物>の二本立てで、この<博物>の中に動物・植物・鉱物・生理衛生に関する内容が詰め込まれていました。また旧制高校では、<物理><化学><生物><鉱物>の4科目構成になっており、ここでいう<鉱物>は、狭義の鉱物学にとどまらず、地質学全般を含む、広い内容を扱っていました。
★
そして戦後の昭和23年(1948)、新しい「六三三制」がスタートし、旧制中学が新制高校へと衣替えした際、旧来の<物理化学>と<博物>の2科構成が、「物理」「化学」「生物」「地学」の4科構成に再編されたのですが、その間の事情を梅田氏は次のようにまとめています(改行や強調は引用者。以下同じ)。
「教育内容の増加した物理化学は物理と化学に分けられ、博物は“広くて浅い物識りの学問”という印象のため、何となく敬遠されていたが、ついに解体されて生物と鉱物とになり、生理衛生は保健体育で教えられることになった。しかし、鉱物は、物理や化学または生物と対等にならぶだけの勢力に乏しかった。
もともと、学制改革はアメリカの学制の模倣であるが、アメリカの理科のなかに、地球に関する分野として Earth Science という科目があったので、それをとりいれて、鉱物に、今まで中学校理科で取扱われていなかった天文と気象を加えて地学という独立した科目をたてた。つまり、高校地学というのはアメリカの Earth Science を真似たものである。
ここに、昭和22年、新制高校理科の物理・化学・生物・地学の4科目制が確立し、昭和23年4月から実施された。」(p.54)
もともと、学制改革はアメリカの学制の模倣であるが、アメリカの理科のなかに、地球に関する分野として Earth Science という科目があったので、それをとりいれて、鉱物に、今まで中学校理科で取扱われていなかった天文と気象を加えて地学という独立した科目をたてた。つまり、高校地学というのはアメリカの Earth Science を真似たものである。
ここに、昭和22年、新制高校理科の物理・化学・生物・地学の4科目制が確立し、昭和23年4月から実施された。」(p.54)
こうして占領下の日本で、新時代を志向する「地学」が誕生したものの、この赤子はすくすくと生い育ったのか?
★
ここで、4年前に書いた下の記事をふと思い出します。
その中で自分は、昭和32年(1957)に出た『化石学習図鑑』(井尻正二・藤田至則共著)という本を紹介しつつ、当時の地学の隆盛をひどくうらやんでいます。
しかし、梅田氏の論考を読むと、地学に「黄金時代」などあったためしはなく、地学はその誕生から一貫して学校からも生徒からも軽んぜられていた…という、驚くべき事実が明らかになります。
しかし、梅田氏の論考を読むと、地学に「黄金時代」などあったためしはなく、地学はその誕生から一貫して学校からも生徒からも軽んぜられていた…という、驚くべき事実が明らかになります。
例えば地学草創期、昭和23年~32年(1948~57)の間は、物理・化学・生物・地学のうちの1科目だけ履修すればよい時代でしたが、地学については教授内容が広範すぎて、教え手がいないという構造的な問題がありました。
「当時の地学は、地学の一部を学んだ人か全く学んだことのない人たちが、独学しながら教えていたような状態であった。それ故、地学は高校理科のお荷物的存在であり、その授業を新任の教師や立場の弱い教師に押しつけるようなこともあった。」(p.55)
完全にまま子扱いですね。
続く、昭和32年~38年(1957~63)は、理科4科目から2科目を選択履修した時代ですが、「この制度により、地学選択率は少しは増加するであろうと予期されていたが、事実は逆で、少ない受講生がさらに減少し出した。そのような受講者の減少を理由に、理科から地学を除外して、物理・化学・生物の3科目にすれば、理科がすっきりして教育効果もあがるであろうという期待もあって、所謂“地学廃止論”が強硬に打ち出された。」(同上)
正視にたえない惨状です。そうした動きをかろうじて救ったのが、冷戦下の宇宙開発ブームでした。そして昭和38年~48年(1963~73)には、理科4科目がすべて必修になり、ようやく地学も安泰かと思われましたが、「しかし、地学の授業をやったことにしておいて、実際には他の科目の授業をやっていた高校も少なからずあった」(同上)らしく、地学はその後も一貫してマイナーな教科であり続けました。
梅田氏は、「高校地学の根本的問題点」という章節で、その要因を分析しています(pp.56-57)。曰く、その広範な内容と授業時間とのアンバランス、他の物理・化学・生物の知識を前提として教授すべき内容なのに、それと同時並行で教える矛盾、人員・設備の劣弱さや実験題目の未整備というハード・ソフト両面の未熟さ…etc。
結局、梅田氏がこの文章を書かれた34年前から、これらの課題は解決されぬまま来ている気配もありますが、今は大幅に内容を絞り込んだ「地学基礎」が教えられるようになって、地学の履修率は再び上がっていると聞きます。
ぜひ多くの人の智慧で、この壮大な教科を盛り立てていただき、地球や宇宙に目を向ける若い人が増えてほしいと思います。
【付記】
最近のコメント