航海暦の話2015年12月30日 15時35分19秒



昨日の暦は、ペランとした1枚きりのものでしたが、暦の中にはすこぶる分厚いものもあります。見慣れた日めくりもそうですし、1767年から発行が始まった「航海暦」もその一つです。


手元にあるのはイギリスで発行された1846年用。今からちょうど170年前のものです。


その中身はと云えば、ひたすら数字が並んでいるだけで、あまり面白いものではありませんが、その歴史的背景はなかなか興味深く、応用天文学の発展と、機械技術の進歩のあとをそこに読み取ることができます。

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航海暦とは、海をゆく船舶が、自らの位置を正確に知る目的で編まれたものです。
この数表から、いったいどうやって船の位置を知るのか?

ここでいう「位置」とは、要するに経度と緯度のことです。

緯度の方は簡単です。
例えば北極星の高度は、赤道では0度、北極点では90度、要するに現在地の緯度と等しいので、北極星を見ればすぐに緯度は分かります。北極星が見えない時でも、既知の恒星の南中高度を測定すれば、簡単な計算で緯度は判明します。

問題は経度です。
いや、経度だって、原理的にはそう難しいことではありません。
地球は24時間で1回転しているので、今いる場所の現地時間が分かれば(これは太陽や星の位置観測から求められます)、それと基準地点、たとえばロンドンやパリの標準時刻とのずれから、ただちに経度差を知ることができます。たとえば現地時間が標準時よりも6時間進んでいれば、基準地点よりも今90度東にいる…と言えるわけです。

ここで直面する難問は、「今、標準時では何時なのか」をどうやって知るかです。

もちろん、標準時に合わせた正確な時計があれば、それを参照すればよいし、あるいは無線があれば、直接無線で聞くこともできます。しかし実用的な精密時計(クロノメーター)が発明されたのは、やっと18世紀も後半のことであり、無線通信の誕生は、さらにその100年後のことです。

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では、昔の人はどうしたのか?

「もし標準時を示す巨大な時計が空に浮かんでいて、地球上のどこからでも見えたら…」というのが、そのヒントであり、答でした。つまり、天文現象そのものを時計代わりに使おうというアイデアです。

ガリレオが17世紀の初めに考えたのは、彼自身が発見した、木星の衛星の食現象を利用する方法です。木星の衛星が、木星本体に隠れる「食」は、当時でも十分な精度で予測でき、事前に標準時刻によるタイムテーブルを作っておくことが可能でした。地球上の別の地点で食現象を観測し、その現地時刻と標準タイムテーブルとのずれを見れば、上に述べたような次第で、簡単に経度差を計算することができます。

(1846年の航海暦にも、土星の衛星の食は詳しく書かれています。)

カッシーニ率いるパリ科学アカデミーが取り組んだ方法がこれで、17世紀の終わりまでに、それは十分満足の行く成果を挙げました。ただし、それは陸上からの観測に限られており、揺れる船の上で、しかも大がかりな装置を使わずに経度を知る方法は、18世紀まで宿題として持ち越されたのでした。

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船舶の現在位置を知る方法は、世界進出を果たした当時の二大強国、イギリスとフランスにとって一大関心事であり、両国は経度決定の方法を考案した者に、莫大な賞金を出すことを約束していました。イギリスの風刺画家、ウィリアム・ホガース(1697-1764)が描く精神科病院の場面に、経度決定に取りつかれた狂者が描かれているのは、これが背景にあるそうです。

(ホガースが1735年に発表した連作、「放蕩息子一代記」より第8図(部分)。地球儀の脇にある「Longitude(経度)」の文字に注目。 出典:『ホガースの銅版画』、岩崎美術、1981)

その後、18世紀の偉大な才が、それに応えて生み出したものは、2つあります。

1つは船舶用クロノメーターの発明です。これによって、標準時を地球上のどこにでも、自由に持ち運ぶことができるようになりました。あとは精密な現地時刻が分かれば、経度も自ずと求まります。

もう1つが、天球上での月の位置を正確に測定し、それを時計代わりに用いる方法、すなわち月距法」の開発です。その原理は、既に16世紀には知られていましたが、実用化には250年もかかりました。そして、そのための道具が、18世紀に生まれた六分儀航海暦だったのです。「月距法」は、クロノメーターの開発と並行して進められ、それを補完するものとして、クロノメーター誕生後も、長く用いられました。

周知のように、月の出は毎日50分ずつ後ろにずれていき、約28日でもとに戻ります。つまり、28日周期で天球をぐるっと1周するわけです。これは相当早いスピード(角距離にして毎時0.5度)ですから、天球上での月の位置そのものを、時計の針として使うことができます。より具体的には、月とその移動経路付近にある恒星との角距離を測定し、事前に公刊された表と比較すれば、観測を行なった際の標準時が分かる理屈です。

(ここで基準星となっているのは、ポルックス(ふたご座)、レグルス(しし座)、スピカ(おとめ座)、そして太陽。それぞれの恒星と月との角距離が、3時間ごとに詳細な表になっています。)

この「事前に公刊された表」が、航海暦を意味することは言うまでもありません。そして、この月の精密な位置予測を可能にしたのが、観測天文学と天体力学の長足の進歩であり、これは科学の偉大な勝利です。一方、クロノメーターと六分儀の発明は、賞賛に値する技術の勝利でした。

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まあ、あまり18世紀を持ち上げすぎるのも危険で、そこには現代に通じる、科学万能主義の矛盾の萌芽もきっとあることでしょう。

ただ、この一見退屈な表の向うに、18世紀の知性の光がまばゆく輝いているのも確かで、素朴に振り返る時、人間とはいかに才覚に富んだ動物であるか、感嘆の声を上げるのにやぶさかではありません。


【参考】
○デレク・ハウス(著)、橋爪若子(訳)、『グリニッジ・タイム』、2007、東洋書林
○斉田博(著)、『おはなし天文学2』、2000、地人書館

コメント

_ S.U ― 2015年12月31日 09時50分32秒

あぁ、これは『アンゲリア航海暦』ですね!  この味気ない数字の山が当時の航海者にとってはまさに「命の綱」だったのだろうと想像すると、胸に迫るものがあります。

 でも、現代のスマホやカーナビのGPSも同じような意味で、それが壊れると予定通りに道が進めず出張会議や商談に遅刻するという大きな危険があるわけで、毎日の仕事で人の感覚の通じないものに命運を託しているというのは、航海者も現代人も同じというか、考えればぞっとするものです。

_ 玉青 ― 2015年12月31日 16時27分45秒

人間、ひとたび目標や目的を持つと、それが達成できない恐怖や不安も同時に生じてきますね。そういったものを捨て去り、自在に大海原を往き、また人生を歩むならば、航海暦やGPSはまったく無用のものなのでしょうが…
そういう境地は、望んでもなかなか得がたいようです。

_ S.U ― 2015年12月31日 20時00分08秒

 自分の相対的位置をGPSで確認してばかりいるのではなく、たまには自身の絶対的感覚を信じる行動もしてみたい、来年はそういうことを心がけてみたいと思います。よい航海が続きますように。
 本年も一年どうもありがとうございました。

_ 玉青 ― 2016年01月01日 09時22分40秒

こちらこそありがとうございました。
既に年も明けましたが、またゆるゆると清談・奇談・珍談で時を費やしてまいりましょう。(^J^)

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