直交する光2016年02月13日 09時17分36秒

重力波の検出は、ものすごく微弱なものを、ものすごい精度で観測しないといけないので、そこに技術的困難があったと聞きました。(新聞報道によれば、「長さ4キロの検出器に対し、水素の原子核の1万分の1程度」の歪みだそうです。)

しかし、その原理に限れば、驚くほどシンプルです。
すなわち、直交するパイプの中を、同じ距離だけ光を往復させて、重ね合わせるというもの。

(朝日新聞2016年2月12日より)

2つの光が戻ってくるのに時間差がなく、正確に同期していれば、両方の波は互いに打ち消し合い(あるいは強め合い)、一様に暗くなる(あるいは明るくなる)のが観測されます。2本の光線の移動距離は同一ですから、本来そうなるはずです。

しかし、時空の歪みによって、2本のパイプの長さに異同が生じると、2つの波が同期しなくなり、複雑な干渉縞が観測されます。今回、重力波を検出したLIGO(ライゴ)では、それが光の明滅として捉えられました。

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この説明を聞いて、100年前にも同じような実験があったのを想起された方も少なくないでしょう。それは、元・理科少年(少女)にはおなじみの、「マイケルソン・モーリーの実験」です。


昨日に続き、こちらも大正時代の矢吹高尚堂製の絵葉書(実に高尚な店ですね)。



「相対性原理に基けるマイケルソンの実験装置」、2種。
この装置も、直交する経路を往復する光の干渉を利用したものです。

マイケルソンとモーリーの実験は、もともと空間を満たす「エーテル」の存在を確認しようとしたもので、相対性理論の検証を目的としたものではありませんでしたが、結果的にエーテル説に対する反証を提供し、アインシュタイン説の蓋然性を高めることに寄与しました。

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マイケルソンとモーリーの実験原理を応用した装置は、「マイケルソン干渉計」の名で知られ、重力波望遠鏡もその一種です。結局、アメリカのLIGOも、日本のKAGRA(カグラ)も、マイケルソンの装置の直系の子孫ということになります。


(LIGOの長大なパイプとコントロールルーム。いずれも英語版wikipediaより)

この百年で何が変わり、何が変わらないのか。
2つの装置を見比べると、いろいろな思いが湧いてきます。

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技術はこれからもどんどん進化を続けると思いますが、それを用いる人間の方は、こんな↓単純な刺激に対しても、容易に「歪みと干渉」を生じてしまう存在のままです。

(垂直水平錯視。直交する2本の線分の長さは同一)

そこに大きな困難があり、また妙味もあるのでしょう。

コメント

_ S.U ― 2016年02月13日 13時38分27秒

おぉ、マイケルソン・モーリーの実験! 
 すべてはここから始まったと言えるかもしれません。
 人間が人間の物差しで光の速さを測ろうと試みたが、実は光の速さこそ変わらぬ尺度であった! かつての哲学者は「人間は万物の尺度である」と言いました。それはもちろん真理であると思いますが、20世紀以降の人はまた「光(速度)は万物の尺度である」と主張するでしょう。

 マイケルソンは、78歳で没するまで50年以上に渡って光速の測定を続けたといいます。生涯が人間であり光速度であったマイケルソンこそ「万物の尺度」の称号で呼び讃えるにふさわしいかもしれません。

_ 玉青 ― 2016年02月14日 14時02分01秒

光は情報を乗せて虚空を飛び、情報は認識者に至ることで意味を放つ―。
光や情報は、おそらく認識者なしで成立するし、宇宙自身も特に意味を必要とはしていないだろうけれど、針の先ほどのちっぽけな認識者によって、この世界に意味が生まれたとしたら、それはやっぱり大したもんじゃないか…

そんなことをぼんやり考えていました。
こんなふうに答のない問題をボーっと考えるのは、いよいよ春が来た証拠です。

_ S.U ― 2016年02月14日 15時56分11秒

今日の強風は、こちらでは「春一番」でした。今年の春の到来が早いのは事実のようです。
 
>光は情報を乗せて虚空を飛び、情報は認識者に至ることで意味を放つ
 そうですね。
 思い出したのですが、光には一つ特別な事情があって、1個の光子は1箇所かつ1回こっきりでしか測定できないですよね。空間を飛んでいる光はいわば「みんなのもの」ですが、網膜でもCCDでも光電管でも誰かが何かで観測した光子は必ず観測とともに消滅してしまうので測定し直せません。究極の一期一会です。
 ですから、光については誰の観測にも傑出した意味があると、敷衍できませんでしょうか。これと量子力学の観測問題を組み合わせるとまた面倒な議論が生じそうですが、それはまたの機会に譲りましょう。(今やると眠くなりそうなので)

>問題をボーっと考える
 ボーっと考えているうちに眠るようになればいよいよ春も本格的です。

_ 玉青 ― 2016年02月15日 06時39分25秒

>究極の一期一会

目に映るものは、すべてが1回限りのものなのですね。

>観測とともに消滅してしまう

「見る」という体験は、光子がその身と引き換えに与えてくれた贈り物…と思うと、あだやおろそかにできない気がします。対象を見るときは、できるだけ「大切に見る」ようにしたいです。

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