5年目の3月によせて2016年03月02日 21時47分04秒

私がのんびり日時計に春を感じていた5年前。
2011年の3月も、11日を迎えるまでは、至極のんびりしていました。
いや、当時は当時でいろいろあったはずですが、その後の出来事にくらべれば、まったくのんびりしたものでした。

そして、11日を境に世の中は大きく様変わりし、その様変わりした世の中を、私たちは生きています。あれは決して過去に属するのではなく、現在と地続きの出来事です。福島でも、宮城でも、岩手でも。

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「陸中野田」 地質図。
昭和37年(1962)、国の地質調査所(現・地質調査総合センター)が発行したもので、岩手県の北部、九戸郡野田村を中心に、久慈市から下閉伊郡普代村にまたがるエリアを図示しています。


図の北端、久慈市の小袖海岸が「北の海女さん」の活動地で、ドラマ「あまちゃん」の舞台にもなりました。久慈市街はこの図の北側に離接しています。


あの震災で、陸前高田市や大槌町、釜石市では千を超える犠牲者が出ました。
久慈市にも高さ8メートルを超える大津波が押し寄せ、市内では5名の方が亡くなり、野田村では実に39名もの方が亡くなられています。

歴史を振り返れば、岩手県沿岸部は、たびたび津波の被害を受けた土地で、明治29年(1896)の三陸沖地震の際の津波は、実に死者1万8千名余りという大惨害でした。今からちょうど120年前のことです。

地球が秘めた巨大な熱エネルギーは、地殻と海水の運動エネルギーに変換され、人間の生活をこれまで何度も打ちのめしたのです。

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右手の濃いオレンジ(Gpk)とピンク(Gk)の層は、中生代・古白亜紀に属する「花崗斑岩」と「角閃石黒雲母花崗岩」。その隣の薄いオレンジ(KUI)は「久喜層)礫岩」、薄茶(Mu)は「礫岩・砂岩・泥岩および凝灰岩」、茶(MI)の層は「港層)礫岩」で、いずれも新生代・古第三紀のものです。

さらに野田村の内陸部に続く、S、Ku、Km、Kl、Tの各層は、いちいち名称は挙げませんが、いずれも約8千万年前の新白亜紀に属し、「久慈層群」と総称されます。名高い久慈の琥珀もここから産出します(商業ベースの鉱稼働は既に終了しているので、「産出した」と、過去形で書くのが正しいかもしれません)。


各時代の地層が帯状に並んでいるのは、地下でこんなふうになっているからです。
堂々たる花崗岩体。巨大な久喜断層。複雑な地層輪廻…。

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大地の物語は、ヒューマンスケールを超越しており、人間の物語とは通常交わることがありません。だからこそ、大地も人間も安心して、お互いのペースで生きられるのでしょう。

でも、ときに二つの世界が交錯し、大地の物語が人間の物語を侵食することがあります。それは、人間が大地の物語を直接目にする得難い機会ですが、本来交わるべきでないものが交わると、多くの場合、悲劇で終わるのが常で、地震や噴火もその例に漏れないと感じます。

コメント

_ S.U ― 2016年03月03日 07時50分36秒

>ときに二つの世界が交錯し、大地の物語が人間の物語を侵食すること

5年前のことをよく覚えています。
 地震がまだ揺れている最中に携帯ラジオを聞きながら避難しましたが、ラジオの速報でいちばん驚いたのは、震源が宮城県沖だということでした。私がいたところ(茨城県南部)は震度6弱で、これは体感したのでさほど驚きませんでしたが、震源があまりに遠いのは想像を絶することでした。私の体験にたとえれば、へール・ボップ彗星が発見されたとき、それは11等級で発見光度としては普通でも、木星軌道よりずっと遠くにあると知ったのと似た感じでした。想像を絶するものすごいものが遠くにいるということを意味していました。

 そのあと津波警報が出て、最初のそれは常識の範囲内の高さ(確か3~6m)でした。これには大変な違和感がありました。想像を絶する地震なのですから津波警報もそれに対応するものでないとおかしいと感じました。おそらくは、当時は津波警報が常識の範囲内で機械的に出されるようになっていたのだと思いますが、震源から少し遠いところに住んでいた人で即座に違和感を感じた人は多かったと思います。この地震の凄みは震源に比較的近いところに住んでいる人にはかえってわからなかったかもしれません。その後津波警報は時間を経て10mに変更されましたが、実際はそれを超えるものでした。
 本来起こるはずのないことが起こったときにどういう判断をするのか、東京でもっと適切な判断ができなかったのか、近くの沿岸に住んでいた人のことを考えると今も痛恨の思いです。

_ 玉青 ― 2016年03月03日 21時36分05秒

あの震災を体験した人は、皆それぞれの思い出があるでしょうね。
決して客観には還元できない、自分だけの思い出が。
そういう思い出を、もっと多くの人が語ればいいのに…と思います。

_ S.U ― 2016年03月04日 06時08分55秒

>決して客観には還元できない
 天災である地震、津波でもそうですから、人災である原発事故や戦争にはもっともっと決して客観には還元できない多くの人の多くの思い出があると思います。
 歴史として生かすには客観化が必要ですが、それにはたっぷり100年以上かかるでしょう。玉青さんのコメントを拝見して、それまでにできるだけ多くの主観的意見を聞き、積み上げることが重要だと思いました。客観化されていないものを無理にわかったように類型化することから風化が起こりまた同じ過ちが繰り返されるのかもしれません。

_ 玉青 ― 2016年03月04日 20時18分09秒

>客観化されていないものを無理にわかったように類型化することから風化が起こりまた同じ過ちが繰り返される

あ、これは何かぴぴっと来ました。
「無理にわかったように類型化」したくなるのは、たぶん自分自身の不安を鎮めたいからで、そのこと自体は自然な心の動きとも言えますが、でも我々はそうした自らの心の動きにもっと自覚的でありたいですね。そして、そうした心の動きに抗して、類型化されないところにこそ何か大切なものがあるんじゃないか…と考える習慣も欲しい気がします。

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