揺れる大地2016年04月16日 11時43分05秒

巨大な前震を伴った熊本地震。
時間の経過とともに、徐々に被害の大きさが明らかとなってきました。
山肌の大崩落、巨大な地割れ、新旧の建物が全壊して救出作業が続いている映像を見て、慄然としています。今はただ人々の無事を祈るばかりです。

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今回の地震で「中央構造線」、あるいは「中央構造線断層帯」というワードに注目が集まっているようです。

明治の初め、日本で最初に近代地質学を講じたナウマン博士が、「フォッサマグナ」と共に注目・命名した、西南日本の基軸をなす構造(東西に延びる地質の境界線ないし断層系)が「中央構造線」で、それに沿って近畿から四国にかけて地表に刻まれた長大な活断層が「中央構造線断層帯」の由。

中央構造線はフィリピン海プレートとユーラシアプレートの境界に平行して延び、フォッサマグナは、北アメリカプレートとユーラシアプレートの境界にあたります。日本は、この3つのプレートが押し合いへし合いしているところに形成された列島で、火山の多さや地震の頻発などの特徴も、元をたどればこうした生い立ちに起因すると聞きます。

ゆっくりと上昇下降を繰り返すマントルは、山を動かし、海を掘り下げ、時に地上にさざ波を立てます。そのさざ波の何と非情なことか。

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地面の下に広がる高温高圧の世界。
そこで正確に何が起きているかは、まだまだ分からないことが多いのでしょうが、分かっていることもたくさんあります。分かっていることは十分に生かし、分かっていないことは正しく畏れることが人間の智慧だと思います。


【付記】
ここで私の念頭に原発があることは言うまでもありません。
そして、この点に関して、想定外のことがこれまで頻繁に起きていることを、地震学の歴史は教えています。素人ながら、あえて正しく畏れよと申し上げたい所以です。

浜田信生氏: 原発の基準地震動と超過確率
 (日本地震学会公式サイト「会員の声」より)
 http://www.zisin.jp/modules/pico/index.php?content_id=2780


コメント

_ S.U ― 2016年04月17日 18時44分12秒

川内原発の運転に係る裁判所の判断では、火山や大地震に出会う確率は低いということになったみたいですが、火山でも地震でも相当の頻度でこれでもかこれでもかと想像を絶する被害が続いているのが実感ではないでしょうか。それどころか、現に(自分も含め)大震災を経験し、放射性物質の降下におびえたわけですから、これらの経験が特異な不運な例だったのでもうわすれてもよいとはとうてい思えません。

 数字的には10000年に1回と聞くととてもまれな現象のように聞こえますが、単純計算では100年で1%起こることになります。1%の確率で、自分の家族、直近の子孫、今見ている町が滅びてしまうクジがあればそれを引く人はまずいないでしょう。おっしゃるように、冷静に、正しく畏れることがもっとも重要だと思います。

_ 玉青 ― 2016年04月18日 07時18分14秒

本当ですね。政府・九電共にどうにも解せない行動原理で、今回幸い原発に何もなく推移したとしても、今後もこんな危険なゲームに付き合わされるのはご免です。

ときに今回もさっそく基準地震動の見直しの話が出ているようですが、ではこれまでの基準は一体何だったのか、言葉は悪いですが、後付けの帳尻合わせにしか感じられず、科学的根拠やエビデンスと言っても、やはり現在の地震学・火山学にそこまで求めるのは酷ではないか…と、傍からは見えます。

_ S.U ― 2016年04月18日 20時18分03秒

>どうにも解せない行動原理
 これは、地震で原発事故が起こった場合は、どうなっても責任は取らないという世間へのメッセージではないでしょうか。先程のニュースで原子力規制委員会委員長が、これはまだ想定内の震災だから原発を停める必要はないと言っていました。つまり、想定外のことが突然起こることは考えない、想定内の範囲しか責任を取るつもりがない、という論理のようです。脳天気でけっこうな人たちです。

>ではこれまでの基準は一体何だったのか
 こういう素朴な基準はとても大事だと思います。過去のことが説明できないような基準なら意味がないですね。また、地震で原発事故が起こらないと断言できるなら、「では福島で起こったことは一体何だったのか」ということに当然なります。

 このような「ではこれまでのアレは一体何だったのか」式の質問を政府や電力会社に尋ねると彼らは答えられないはずです。「福島で起こったようなことは起こらない」と言って過去の説明を未来の不定性にすり替えるだけでしょう。これはもともとの質問の答えではないですし、実は福島よりも危険なことが起こらない、という言明にもなっていません。逃げているだけです。

 私は自信を持って言いますが、このような質問に答えられるか答えられないかで、その人は政治家か科学者かを見分けることが出来ます。科学者は、過去のデータを説明するのがもっとも基本的な仕事です。また、本当の科学者は、わからないときは「(私が知るこれまでの研究成果からは)わからない」と答えるように教育されています。この場合、「わからない」というのが最も信頼できる価値ある答えである可能性があります。

_ 玉青 ― 2016年04月19日 21時37分33秒

「分からない」と言えない立場に、意図せず立たされた科学者は悲劇ですね。
それを自覚していればまだしもですが、分かるはずもないことを、自信満々に言いつのる人もいて、いったいこの人は何なんだろうと、不思議に思うこともあります。

>政治家か科学者か

本当は政治家も「分からない」と言っていいと思うんですが、政治屋というのは不誠実なのか、人間性に問題があるのか、滅多に分からないとは言わないですね。その一方で、当然知っているべきことに対して、「クイズのような質問はやめろ」と言ってみたり、最近もずいぶん不思議な光景を目にしました。

_ S.U ― 2016年04月20日 08時32分10秒

>政治屋というのは不誠実なのか、人間性に問題があるのか
 突き詰めて言えば、政治屋は不誠実だということで申し開きも出来ないと思いますが、日本人の平均的な言語感覚を考慮すれば同情すべき点もあるように思います。
 日本人は衆人の前で「わからない」ということを恥のように考え、聴衆もこれを「専門家なのに知らないとはこの人モグリではないか」と考えたりしがちですし、せっかく質問したり話を聞きに来てくれた人に「わからない」では義理人情まで欠くように思いがちかもしれません。それで、ついついピントがボケても相手の気休めになるようないいかげんなことを答えてしまいます。

 西洋人の場合はどうかというと一概には難しいですが、知らないことは I don't know で大きな問題はないようで、わからないならそれでよいと済んで追求されることもないように思います。(でも、べらべらと関係ないことまで知ったげにしゃべり続ける人がいるのは同じです)

 今はスマホで瞬時にネット検索が出来る時代ですから、「わからない」という意味合いも変わってきているはずですね。今や「わからない」というのは恥ずべき無知ではなく、人類の知識の限界つまり今後進むべきフロンティアとして肯定的にとらえるよう、日本人の感覚を変革するべきではないかと思います。

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