明治地質学の精華(2)2016年04月25日 07時00分20秒



地図の隅に書かれた緒言というか、端書きのようなもの。
その年記は明治31年(1898)になっています。昨日の篆書体の標題に書かれた印行年は明治32年(1899)で、さらに東陽堂から売りに出たのは明治33年(1900)ですから、地図が実際に世に出るまで結構長い時間を要しています。明治時代にこれだけのものを製版・印刷するのは、やっぱり大変だったのでしょう。

上の文面から察するに、本図作成の目的は、純粋な自然科学上の研究というよりは、産業の発展に資するためという理由が大きく、そもそも農商務省が発行元になっているという事実も、それを示すものでしょう。


西南日本の拡大。
紀伊半島から四国を横切って地質の境界線が走り、その先は九州に及んでいます。
これが問題の「中央構造線」です。


彩色のルールは上記のとおり。
たとえば、中央構造線の東端、紀伊半島を見てみます。半島の中央北半分には、ピンクの「片麻岩層」が分布しています。その南に接するのは薄茶の「古生層」で、この古生層が四国の真ん中を突っ切って、九州まで達しているのが分かります。

ここには、「片麻岩層」という岩石名による区分と、「古生層」という時代名による区分が混在していて分かりにくいのですが、片麻岩層は時代区分でいえば「太古大統」、すなわち古生代以前の原生代や始生代に属します。

いっぽうの古生層は、地層の並び(層位)や示準化石から、古生代に属する層と見当がつき、一定のまとまりをもった岩層と認識できるものの、それを構成する岩石の種類は多様で、単純に「○○岩層」とも呼び難いため、時代名を冠して呼ぶようです(例えば四国に分布する古生層には、石英岩、粘板岩、凝灰岩、石灰岩、緑色凝灰岩などが混じりあっています)。

   ★

…と、分かったように書いていますが、もちろん全然分かっていなくて、上に書いたことは、この地質図と一緒に出た『百万分一 大日本帝国地質図説明書』を見ながら、泥縄で書いています。



そして、この『説明書』は、旧制の熊本中学校(現・県立熊本高校)の博物科参考書として伝来したものなので、そこに多少の因縁を感じます。


明治半ばの知識ですから、現代の用語や結論と一致しないところも多いでしょうが、ここは明治人になったつもりで、日本列島の地質区分をさらに見てみます。

(この項つづく)

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