原子を感じた日2016年04月11日 21時00分49秒

今、私が坐っている机の左手には幅広の本棚があります。

それぞれの棚には、本以外のものもゴチャゴチャ置かれていて、この前の薬匙以来、それを順番に記事にしているわけですが、左の棚が終ったら右の棚、机の下、後ろの棚、物入れ、押入れ…というふうに順番に「棚卸し」をしたら、ずいぶん気分がスッキリするだろうと思います。

平成になって28年、世紀が替わってからでも16年。
この間に増えたモノは、相応の量になっていて、それはその時々の自分の興味関心を物語るものですから、いわばちょっとした「モノで綴る自分史」です(ずいぶんかさばる自分史ですね)。

ゴチャゴチャの棚は、ゴチャゴチャした頭と心の反映のようにも見え、記事にすることでその素性来歴を整理したら、少しは頭の中も風通しが良くなるのではないか…という期待があります。

本当は買った順に時系列で並べると、文字通り自分史っぽくなるのですが、もはやその辺は分からないことが多くて、「ずいぶん昔」とか、「数年前」とか、「わりと最近」ぐらいの区別がボンヤリつくぐらいです。

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今日のモノは「ずいぶん昔」に属します。絶対年代でいうと、平成の初めごろ。


これは何だといえば、ただの金属の球と立方体です。
素材は、銅、アルミ、鉛、ステンレス、真鍮。
銅・アルミ・鉛は言うまでもなく単一の金属であり、ステンレスは鉄にクロムを、そして真鍮は銅に亜鉛を混ぜた合金です。


これらは東急ハンズの「素材」コーナーに置かれていたもので、もともと何か決まった用途があるわけでもないのでしょう。

私も最初は、単なるオブジェのつもりで手にしたと思います。
でも、かわるがわる手に載せているうちに、ふと「同じ大きさなのに、ずいぶん重さが違うなあ」と思いました。そして「ああ、そうか」と思いました。別に空気が混ぜ込んであるわけでもなく、ギュッと詰まった金属なのに重さが違うのは、原子そのものの違いを手が感じ取っているのだと。

(鉛は自重で変形しています)

昔の科学者も、質量を有力な手掛かりに、物質の振る舞いの背後にある「世界の真実」を探求しましたが、このささいな経験によって、そのことが理屈抜きに直覚されたのでした。(もちろん原子量の話とかは、学校で教わったはずですが、それまであまり身になっていなかったのでしょう。)

こうした経験が下地になって、後に元素コレクションへの興味が派生するのですが、それはまた別のところで話題にします。



虫と魚2016年04月13日 06時56分26秒

このあいだは「花と鳥」の図譜が登場しました。
いっぽうに「草木虫魚」という言葉もあって、自然界の生命のうち、植物界を「草木」で、動物界を「虫魚」で代表させる観念も古くからあります。


「ずいぶん昔」から部屋に住みついている虫と魚。


銅のクワガタはアフリカの工芸品で、緑青がいい味を出しています。


いっぽう真鍮の魚はインド生まれの工芸品。


どちらも、あまり理科趣味と関係ないように見えて、自分の中では緊密な結びつきがあります。あの頃(20余年前)は、まだ天文趣味が再燃する前で、理科趣味は何よりもまず生物要素と結びついていました。バケツで稲を育てたり、メダカを飼ったり、土壌動物の本を枕にしたり…。その延長線上に、こういう生物をモチーフにした品に惹かれる自分がいました。

(クワガタと一緒に買ったカリンバ、通称「親指ピアノ」)

と同時に、こういう素朴な手仕事に惹かれたのは、それが「自然そのもの」と、どこかで同一視されていたからだと思います。インドやアフリカ(と、ひとくくりにするのも相当大雑把ですが)での暮らしと「自然そのもの」は、もちろん全く異なるものでしょうが、イメージの中では隣り合っていました。


あるいは、当時も古物趣味の芽生えはありましたから、それと理科趣味の合体したところに、こういう古びた野趣を良しとする心根があった…というのが、いちばん実態に近いかもしれません。


どちらもお土産的な品なので、そんなに古い物ではないでしょうが(今でも作っているかもしれません)、今見てもなかなか面白い造形だと思います。

甲虫の劇場2016年04月14日 19時50分13秒

今日は町場から離れたところを、電車に乗ってゴトゴト走っていました。
里山はモザイク状の濃い緑と浅緑、そこに赤みを帯びた若芽や山桜のピンクが混ざって、美しいパッチワークを見せていました。古人が言う「山笑う」とは、あんな光景を言うのでしょう。田んぼでは代掻きも始まり、濡れた田には初夏の陽光が反射し、本当に胸の中が軽くなるようでした。

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さて、今日も虫の話題です。


以前、名古屋のantique Salonさんを訪ねたとき、棚の一角で光を放っていた標本。
一頭カメムシの仲間がいますが(最下段の赤黒のツートン)、それ以外はカラフルな甲虫類を並べたものです。

一口に甲虫と言っても、この標本にはカミキリムシ、ゾウムシ、コメツキムシ、タマムシ、コガネムシ…と、多様な仲間が含まれています。肝心のラベルも付属しないので、これは本格的な標本というよりは、装飾性の強い品だと思いますが、それだけに黒の標本箱と色鮮やかな虫体の取り合わせに、この標本作者が十分意を注いだことが感じられます。


純白の空間に浮かぶ甲虫とその影。


ここに並ぶのは主に外国産の甲虫類で、私もまだ種を同定していません。



それにしても、これらごく少数の甲虫を一見しただけでも、甲虫類の多様性と魅力は存分に感じられます。それは甲虫そのものの奥深さであり、この標本箱を作った人の感覚の鋭敏さの証でもあります。

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■A.V.エヴァンス・C.L.ベラミー(著)、加藤義臣・廣木眞達(訳)
 『甲虫の世界―地球上で最も繁栄する生きもの』
 シュプリンガー・フェアラーク東京、2000)

昆虫博士になることを夢見た子供時代の私が、最も魅かれたのも甲虫類であり(あえて鞘翅類(しょうしるい)と呼ぶのが誇らしかったです)、そして街中でも十分にその姿を追うことができたのは、彼らが多様な生活様式を持ち、あらゆる環境に適応していたからでしょう。

(同書より「第6章 ビートルフィリア〔甲虫愛〕」冒頭)

今の私は甲虫への愛をストレートに表現することは最早ありませんが、それでもこういう品に思わず引き寄せられるのは、今でも子供時代の心が少なからず残っているせいかなあ…と、ちょっと嬉しいような、苦いような気分です。

揺れる大地2016年04月16日 11時43分05秒

巨大な前震を伴った熊本地震。
時間の経過とともに、徐々に被害の大きさが明らかとなってきました。
山肌の大崩落、巨大な地割れ、新旧の建物が全壊して救出作業が続いている映像を見て、慄然としています。今はただ人々の無事を祈るばかりです。

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今回の地震で「中央構造線」、あるいは「中央構造線断層帯」というワードに注目が集まっているようです。

明治の初め、日本で最初に近代地質学を講じたナウマン博士が、「フォッサマグナ」と共に注目・命名した、西南日本の基軸をなす構造(東西に延びる地質の境界線ないし断層系)が「中央構造線」で、それに沿って近畿から四国にかけて地表に刻まれた長大な活断層が「中央構造線断層帯」の由。

中央構造線はフィリピン海プレートとユーラシアプレートの境界に平行して延び、フォッサマグナは、北アメリカプレートとユーラシアプレートの境界にあたります。日本は、この3つのプレートが押し合いへし合いしているところに形成された列島で、火山の多さや地震の頻発などの特徴も、元をたどればこうした生い立ちに起因すると聞きます。

ゆっくりと上昇下降を繰り返すマントルは、山を動かし、海を掘り下げ、時に地上にさざ波を立てます。そのさざ波の何と非情なことか。

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地面の下に広がる高温高圧の世界。
そこで正確に何が起きているかは、まだまだ分からないことが多いのでしょうが、分かっていることもたくさんあります。分かっていることは十分に生かし、分かっていないことは正しく畏れることが人間の智慧だと思います。


【付記】
ここで私の念頭に原発があることは言うまでもありません。
そして、この点に関して、想定外のことがこれまで頻繁に起きていることを、地震学の歴史は教えています。素人ながら、あえて正しく畏れよと申し上げたい所以です。

浜田信生氏: 原発の基準地震動と超過確率
 (日本地震学会公式サイト「会員の声」より)
 http://www.zisin.jp/modules/pico/index.php?content_id=2780


地震学の揺籃期(1)2016年04月17日 09時40分19秒

暗い空から雨まじりの強い風が吹きつけています。

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火山学・地震学というのは、いったん噴火や地震の予知に失敗すると、「まったく役に立たん学問だ。無駄なことに予算を付けるのはやめちまえ!」などと、息まく人が現れて、いかにも気の毒な感じがします。

火山学・地震学はごく若い学問ですから、実用の学に育てるには、もっと時間も予算もかけないとダメで、上の御仁の主張はまったくの真逆、単なる暴論に過ぎません。
…というようなことを、偉そうに書ける立場ではありませんが、「ごく若い学問だ」ということは自信をもって言えます。

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以前、買ったままになっていた本を、この機会に紐解いてみました。

■和達清夫(著) 『地震学』
 中央気象台附属測候技術官養成所(刊)、昭和4年(1929)

著者の和達清夫(わだちきよお)は、ウィキペディアの同人の項を参照すると、明治35年(1902)の生れですから、この本が出たときはまだ27歳の若手です。当時の肩書は気象台技師。後に中央気象台台長、初代気象庁長官、埼玉大学学長を歴任し、平成7年(1995)に亡くなっています。戦前から戦後にかけて、一貫して日本の地震学をリードしてきた人物です。

(和達清夫 1902-1995。ウィキペディアより)

その和達が1929年に記した文章を掲げます。
(引用にあたり、原文の旧字カナ交じりを、新字かな交じりに改めました。)

 「地震の原因に対しては今日の地震学は未だ遠き観あり。明らかに其の原因の知れるもの例へば火山地震の如きものあれど、そは特別なるものにして一般の地震に非ず。而も其火山の原因に到りては未だ闡明〔せんめい〕されたりと云ひ難し。誠に地震の原因に就いては火山の原因が闡明さるる時又解決さるるものにして、恐らく同一原因より生じたる二つの現象なるべし。」

「地震発生の機巧に関しては近来頻りに臆説がなさると雖〔いえど〕、その真偽は知るべくも非ず。現在に於いては地震発生の際生ずる現象、事実を最も忠実に観測記載し、其れに理論的助けを藉〔か〕りて、一歩一歩地震発生の原因機巧に進み引いては地震予知予防に迄到らんとするなり。」

「本講に述ぶる所は主として地震観測を基礎として発達せる地球物理学の一分科としての地震学にして、観測に重きを置く。而して地震の原因機巧に関する方面は殆ど之に触れず。」 (『地震学』pp.1-2.)

(「第一篇 総論及ビ統計地震学」)

(同上部分)

なんと正直な告白でしょうか。
当時、地震発生のメカニズムはどのように理解されていたのか?…という問題意識で読み始めたのに、冒頭でいきなりこう宣言されて、虚を突かれました。

発行元が<測候技術官養成所>となっているように、この本は現場の観測技師を育てるためのテキストですから、あまり学理に深入りしていないのかもしれませんが(※)、それにしても、こうはっきり書いてある以上、1929年の時点では、地震の原因も、火山の成因も、はっきりしたことは何一つ分かっていなかったのは明らかです。

(※)和達自身が1927年に発見した、深発地震源が鉛直方向にゆるいカーブを描いて面状に分布しているという事実(後にプレート沈降の接触面として解釈されることになる重要な知見)も、本書には書かれていませんでした。

【4月18日付記】
…と、最初の方だけ読んで思い込んでいましたが、よく読んだら、深発地震(深層地震)の話題は、本書の最後(第5編 第3章「雑篇」)で触れられていました。

たとえば、深層地震の好発地域は、遠州灘沖合など特定のエリアに限られ、また通常の地震と違って、揺れの強さが震源からの距離と必ずしも相関しない(異常震域)等の新知識が、そこで説明されています。ただ、「何故にかく顕著なる異常震域を生ずるやと云ふ其の機構に関しては、現在に於いては尚充分なる説明を与ふること能はず」(pp.214-15)とも書かれています。 (付記ここまで)

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いずれにしても、地震学の進歩は、人ひとりの一生で大半をカバーできるぐらいのスパンで成し遂げられたもので、やっぱりこれは若い学問といっていいんじゃないでしょうか。

他の学問の歴史から類推するに、地震学は「理論」と「観測」の両輪のうち、観測手段が非常に限られていることが隘路となっており、そのブレイクスルーは、理論よりも、むしろ画期的な観測手段(地球内部をクリアーに見通す技術)の開発にかかっているのかもしれません。

   ★

さて、これだけだと本の冒頭を眺めただけで終わってしまうので、もう少し先も読んでみます。

(この項つづく)

地震学の揺籃期(2)2016年04月19日 21時23分37秒

地震はいっこう終息の気配がありません。
大地の下はいったいどうなっているのか、本当にもどかしいです。

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さて、前回のつづき。

地震のメカニズムにいっさい触れずに、『地震学』というタイトルの本を書けるか…と思われるかもしれませんが、著者・和達が述べるように、確たる拠り所となる理論が存在しない段階では、まず正確な観測データの集積に力を注ぎ、その中で理論化に向けて仮説検証を徐々に進めるという手順が穏当でしょう(もっとも、これは研究者の性格にもよるところで、割と初期の段階からバンバン理論化するのを好むタイプの人もいます)。

和達が本書で説いたのも、端的にいえば「地震観測学」であり、地震という現象を前にして、「何をどう観測するか」ということに、紙幅の大半を割いています。

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何を」というのは、もちろん「地震の揺れ」です。

当時の地震学について、「拠り所となる理論が存在しない段階」と書きましたが、昔から確実に分かっていることがありました。それは「地震は地面を媒質として伝わる波の一種だ」ということで、そこに物理学の一分科である波の理論を応用することができます。本書は5部構成になっており、総説的な第一編「総論及び統計地震学」(※)に続く第二編「地震波の理論」が、それを説く部分です。

(※)統計地震学とは、過去の地震の記録の収集と、そこから経験則、例えばどこで地震が起きやすいか、いつ起きやすいか等を導き出すものです。

(何かが書いてあるなあ…という以上のことは不明)

そこでは、地震波を理解する基礎として、横波・縦波、減衰伝播波、平面波・球面波・表面波等の概念を、弾性波動論に基づき、数式を使って詳しく説明しています。また「地震波線の理論」と題して、複層の同心球構造と見なされる地球内部を、地震波が伝播する際の振舞いや、走時曲線の話、震源決定の理論についても説き及んでいます。


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続く第三編は「地震計理論及び地震計」で、これは「何をどう観測するか」の「何を」と「どう」の両方に関わる話題です。

ここでも著者はいろいろ数式を立てて説明を加え(x、y、z の三方向の変位をξ、η、ζとするとき単位質量の物体に働く重力の成分は…云々)、そういう数理的説明こそ本書の眼目でしょうが、その辺はまったく私の理解の埒外にあるので割愛します。

しかし、たとえば「小学生が夏休みの工作で地震計を作る課題を与えられたら、どんな工夫をするだろうか?」とか、「中・高生だったら?」とか考えると、地震計というのは中々興味深い存在です。

地震計を作るには、最低限「不動点」が1個なければなりません。
つまり、どんなに地面が揺れても、揺れに影響されない基準点がなければ、地震の揺れを記録することはできません。それをどうやって作り出すか?

うまい具合に不動点を作れたとしても、地震そのものの記録は相当の難事です。
地震は横にも揺れるし、縦にも、斜めにも、上にも、下にも揺れます。
まっすぐ揺れるだけでなく、カーブを描くようにも揺れます。
そして時間経過の中で、大きく、小さく、素早く、ゆっくり、複雑な揺れ方をします。
それをまんべんなく捉える記録装置を、どうやったら作れるか?

これは特に1929年に時点を固定する必要もない話題ですが、でも揺籃期には揺籃期なりの素朴さや清新さもあって、ちょっとそこに注目してみます。

(ここのところまた記事が書きにくくなっているので、少し記事の間隔が空きます。)

地震学の揺籃期(3)2016年04月21日 22時11分56秒

小学生が地震計を作るとしたら…という、前回の仮想質問に対する1つの答がこれです。


アメリカで学校教材として売られている簡易地震計で、ご覧のとおり学研の付録的な品ですが、それだけに地震計の素の構造がよく分かります(探せば、日本にもあるかもしれません。いや、探すまでもなく、身の回りの材料で簡単に作れそうです)。

これはいったいどういう原理に基くものか?

   ★

地震計の要は「不動点」であり、それを作り出すのが「振り子」です。
重りをぶら下げた糸の端を持って、小刻みに動かしても、重りは慣性の法則に従って止まったままだ…というのが、その原理です。

ここに見慣れた「振り子」の姿はありませんが、横から突き出た針金に、やっぱり重りが付いているのが見えます。上から糸でぶら下がった普通の振り子を「垂直振り子」というのに対して、この地震計で使われているのは「水平振り子」と呼ばれるものです。

オマケとして、もう1つアメリカの教材から。


これも仕組みは上のものと全く同じです。こちらは重りの位置を針金の先端に持ってきて、重り本体に記録用の鉛筆を取り付けています。

いずれも記録用紙は自動で巻き取られないので、手で引っ張って記録します。ですから、このままだと実際の地震の記録にはほとんど役立ちませんが、工夫好きの小学生だったら、もっと実用レベルまで持って行けるかもしれません。

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ここで和達の『地震学』に戻ります。
以下はp.128の「第二十九図 地震計の基本型」より。


Aが前に述べたとおり「垂直振り子」です。右側の「乙」は、揺れる方向を一方向に制限したタイプ。


「この種の垂直振子型地震計は最も早く発達したる地震計にして現今にても用ゐざることなけれども、固有振動の周期の大なるものを得べき事が実際上甚だ困難なるが故に、近時この種の地震計は多く用いられず。(pp.128-129)

ここに出てくる「固有振動」が、地震計を考えるときのキーワードの1つ。
固有振動の周期を大きくするとは、すなわち振り子の糸を長くすることです。固有振動の周期が小さい(=糸が短い)と、素早い揺れの時はいいですが、ゆっくりした揺れだと、揺れに合わせて重りも一緒に動いてしまうので、不動点として役立ちません。糸を長くすればこの欠点をカバーできますが、今度は取り回しが甚だ不便です。

そこで工夫されたのが、「水平振り子」を応用した地震計です。
図のB、C、Dは、いずれもそのバリエーション。

(B 「円錘振子型」。「現今我が国に於いて用ゐらるる大森式地動計はこの型の下方がピポットにて支へらるるものにして中村式地震計は、下方がスプリングにて支へらるるものなり」)

(C 「前者と何等構造上其の作用の異なる所なし。〔…〕我が国に広く使用されたる簡単微動計、強震計はこの型なり」)

(D 「二本吊水平振子型」あるいは「ツェルナー吊」。「現今用ゐらるるガリチン地震計の水平動に於いてはこの方法を用ゐられたり」)

上からぶら下がるのではなく、横方向に突き出た重りが、左右というか、前後というか、とにかく地面と水平な方向に振れる振り子です。(振り子が揺れる面、すなわち支点を要にした扇形が、水平振り子では水平に、垂直振り子では垂直になっていることが、それぞれの名称の由来です。)

水平振り子は、垂直振り子とちがって、往復運動に関与する重力成分を小さく(完全に水平ならゼロに)できるために、コンパクトサイズで固有振動の周期を長くできるのだ…という理屈が、『地震学』には詳説されていますが、相変わらず読む方の理解が伴いません。

(p.133より)

いずれにしても、アメリカの地震教材も、この水平振り子の応用であり、図でいうとBやCの仲間ということになるのです。

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図に登場する残りの2つのうち、Eは「倒立振り子」を用いた地震計で、タイプとしては垂直振り子のバリエーションになります。


(E 「倒立振子型」。「我が国に於いて近時大いに用ゐらるるウヰーヘルト(Wiechert)式地震計はこの種なり」)

そして最後のFは「上下動地震計」。地震の縦揺れを記録するためのものです。
それに対して、AからEは(振り子の水平、垂直の区別とは別に)地震の横揺れを記録するためのものなので、ひっくるめて「水平動地震計」と呼ばれます。


ここで使われているのは、昔習った「ばね振り子」であり、その応用です。

上下動地震計は単にある重錘を螺旋によって吊るしても得べきものなるが前の図に示すが如く柄を出して其の先端に重錘をつけ、且螺旋の固著点を稍々下方に置きたるは、専ら固有周期を長からしめん意図に外ならず。之垂直振子を水平振子にて改良を図りたると同様なる試みなり」 (p.130)

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地震計もだんだん手に余ってきたので、この話題もそろそろ終息させます。

まあ、地震計にもいろいろあることは分かりましたが、「現今」といい、「近時」といっても、所詮は90年も前の話ですから、当時の地震計の多くは、すでに博物館入りしています。それを概観できるページにリンクを張っておきます。

国立科学博物館地震資料室より「地震計資料室」のコーナー
 http://www.kahaku.go.jp/research/db/science_engineering/namazu/

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なお、前回の記事では、地震の揺れ方の複雑さについて触れ、「それをまんべんなく捉える記録装置を、どうやったら作れるのか?」と書きました。
結論から言うと、1台で何でも記録できる万能地震計はないので、いろいろなタイプを組み合わせて観測するというのが正解のようです。


(次回、落穂ひろいをして、この項完結の予定)

地震学の揺籃期(4)2016年04月23日 10時32分56秒

地震発生から1週間。

常ならぬ事態への対処と並行して、普通の日常を取り戻すための努力も、既に始まっていることでしょう。その一方で、「もうあの日常は決して戻ってこない」という思いを抱いている方もいらっしゃると思います。周囲の日常が回復するほど、増す悲しみもあります。いろいろな心に思いをはせたいです。(これは被災地に限りません。)

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多くの工夫を凝らして地震計が完成し、据付けも終わりました。
地震発生とともに、地震計の針がピピピと揺れ、記録紙に波形が記録されました。
さて、それをどう読むか…? というのが、実践家が直面する大きな課題です。

このことは本書の「第四編 地震観測法」、特に「地震記象」の章に、詳しく説かれています。記録用紙の波形を前にした観測者は、いろいろ補正を加えつつ、その継起時間、周期、振幅などを計測するのは当然として、その前に一つ大事な作業があります。

それは「相を取ること」です。
地震記録は、最初ピピピと揺れた後、ツーと波が収まり、再びピピピ…ツー…ピピピ…と、間欠的に波形が記録されるのが常ですが、それぞれの波がいったい何を表わしているのか、つまり「波の意味」を読み解くことが、すなわち「相を取ること」に他なりません。

地震のP波S波という用語に聞き覚えのある方も多いでしょう。
Pは「primary」の略で「初期微動」、Sは「secondary」の略で「第二波」。
P波の本態は縦波(疎密波)であり、横波であるS波よりも進行速度が速いために、両者同時に発せられても、P波の方が先に到達するわけです。

(震央まで2千キロ未満の近地地震の波形例。震央付近では、特に「オルツベーベン」と称しました。定訳は不明ですが、“現地震”といった意味合いです。)

(震央距離=2千~5千キロの中距離地震の波形例)

「相を取る」上で、このP波とS波の区別が、まずは基本作業です。
さらに観測地点と震源の距離が遠くなると、S波が地面で一度、二度と反射した波や、地球内部の層状構造の境界面(いわゆる不連続面)で反射・屈折した波、さらに地球を一周ぐるりと遠回りして到達した波などが入り乱れて、それぞれ記録されるので、その読み取りには、高度の技量が要求されます。

「この相を取ることは可成りの熟練を要するものにして震波の速度、地震計の性能等に対する智識経験を必要とす。故に此処に詳しく述ぶることを止む。之等は経験者に指導を受くるか或は永らく観測に携はりて自ら会得さるるものなればなり。」 (p.166)

と、その実態たるや、まさに口伝・奥義の世界でした。さらに、

「此処に注意したきは種々の相をとる場合には公平無私なる態度ならざるべからず。其の間牽強付会して自己の独断に陥らざることなり。」 (同)

と、地震波を読み取るためには、厳しく己を律することが求められたのでした。現在ではその辺がどう変わったのか、あるいは変わっていないのか、詳しいことは分かりませんが、当時の測候技術官養成所(現在の気象大学校の前身)では、そうした鍛錬が日々行われていたのでしょう。

(震央距離=1万キロまでの遠地地震と、さらに遠い最遠地地震の波形例)

このように地震波をコード化することは、現在も行われていますが、その体系が当時と今では異なるようなので、参考までに当時の表記法を掲げておきます。(pp.170-171)




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地震国・日本。
地震とはこれからも縁が切れないでしょうが、そのわりに地震学のあれこれが、国民の共通知識とはなっていないように見えます。今後の課題かと思います。

(この項おわり)

明治地質学の精華(1)2016年04月24日 09時16分30秒

熊本地震の報道で、たびたび「中央構造線」というタームを目にしました。
そして、それが明治の昔に提唱された古い概念だと知り、いっそう興味を覚えました。
地震学につづき、ここで地質学の古い扉を叩くことにします。

   ★

下は古い地質図の標題です。


篆書(てんしょ)体の文字が、まさに明治の御代の雰囲気。
目をこらすと「大日本帝国地質図/農商務省地質調査所」と読めます。


普段は小さく折りたたまれて、これまた明治調の表紙に収まっています。
発行は明治33年、西暦でいうとジャスト1900年で、19世紀最後の年に当ります。

これを買ったのはずいぶん前ですが、実をいうと、広げたのは今回が初めてです。
古いものなので、ちょっと油断するとビリッと行きそうで怖かったからです。
そして、ひょっとしたら今回が最後になるかもしれません。


どうぞ、その「雄姿」をご覧くださいまし。

幅は約160cm、そして高さは180cmを越えるという、ほぼ畳2畳分の大地質図です。
いつもの部屋では広げることも、写真を撮ることも、とても無理なので、和室に持ち込んで、ようやく一望できました。

次回、その細部を眺めてみます。

(この項つづく)

明治地質学の精華(2)2016年04月25日 07時00分20秒



地図の隅に書かれた緒言というか、端書きのようなもの。
その年記は明治31年(1898)になっています。昨日の篆書体の標題に書かれた印行年は明治32年(1899)で、さらに東陽堂から売りに出たのは明治33年(1900)ですから、地図が実際に世に出るまで結構長い時間を要しています。明治時代にこれだけのものを製版・印刷するのは、やっぱり大変だったのでしょう。

上の文面から察するに、本図作成の目的は、純粋な自然科学上の研究というよりは、産業の発展に資するためという理由が大きく、そもそも農商務省が発行元になっているという事実も、それを示すものでしょう。


西南日本の拡大。
紀伊半島から四国を横切って地質の境界線が走り、その先は九州に及んでいます。
これが問題の「中央構造線」です。


彩色のルールは上記のとおり。
たとえば、中央構造線の東端、紀伊半島を見てみます。半島の中央北半分には、ピンクの「片麻岩層」が分布しています。その南に接するのは薄茶の「古生層」で、この古生層が四国の真ん中を突っ切って、九州まで達しているのが分かります。

ここには、「片麻岩層」という岩石名による区分と、「古生層」という時代名による区分が混在していて分かりにくいのですが、片麻岩層は時代区分でいえば「太古大統」、すなわち古生代以前の原生代や始生代に属します。

いっぽうの古生層は、地層の並び(層位)や示準化石から、古生代に属する層と見当がつき、一定のまとまりをもった岩層と認識できるものの、それを構成する岩石の種類は多様で、単純に「○○岩層」とも呼び難いため、時代名を冠して呼ぶようです(例えば四国に分布する古生層には、石英岩、粘板岩、凝灰岩、石灰岩、緑色凝灰岩などが混じりあっています)。

   ★

…と、分かったように書いていますが、もちろん全然分かっていなくて、上に書いたことは、この地質図と一緒に出た『百万分一 大日本帝国地質図説明書』を見ながら、泥縄で書いています。



そして、この『説明書』は、旧制の熊本中学校(現・県立熊本高校)の博物科参考書として伝来したものなので、そこに多少の因縁を感じます。


明治半ばの知識ですから、現代の用語や結論と一致しないところも多いでしょうが、ここは明治人になったつもりで、日本列島の地質区分をさらに見てみます。

(この項つづく)