エジプトの星 ― 2016年05月03日 09時13分06秒
どうも黄金週間と云いながら、いろいろ口に糊するための苦労が多く、まぶしい青葉も今ひとつ目に冴えません。
そんな状況なので、手っ取り早く、いちばん最近手元に来たモノを載せます。
そんな状況なので、手っ取り早く、いちばん最近手元に来たモノを載せます。
妙にごつごつトゲトゲした、黒っぽい塊。
差し渡しは約2センチですから、指でひょいとつまんで、口に放り込めそうです。
差し渡しは約2センチですから、指でひょいとつまんで、口に放り込めそうです。
昨日、買い物のついでに、東急ハンズをブラブラ歩いているとき見つけました。
これが何かというのは、付属のラベルに書かれていますが、要はいったん形成された白鉄鉱の結晶が、外形はそのままに、時間経過の中で成分だけ赤鉄鉱に置き換わった、いわゆる「仮晶」だそうです。
エジプト特産なので、通称は「エジプトの星」。
初めてその名を見聞きしましたが、見るなり、私の連想が足穂の「星を売る店」に飛んだのはもちろんです。あそこに出てくる「星」もやっぱり、指先でつまめるぐらいの大きさで、金平糖のような形をしていました。
ただ、作品に出てくる星と違うのは、あちらはキラキラと色鮮やかに輝いているのに、こちらはチョコレート細工のような黒褐色をしていることです。それに、足穂の星はエチオピアが原産で、それをエジプト人商人が売りさばいているという設定でしたが、こちらは最初からエジプトで採れるそうなので、ひょっとしたらエチオピア産を真似て、エジプトで抜け目なく模造したのかもしれません。
…というふうに、だんだん現実とフィクションは入り交じり、今の季節、「青々と繁ったプラタナスがフィルムの両はしの孔のようにならんでいる山本通りに差しかか」れば、きっと海からは涼しい風が吹いているでしょうし、南京町では怪しい手品師が妙な口上を述べているはずですし、そして山手の一角では、ショーウィンドウに青い光が満ちた「星を売る店」が、今日もひっそりと店を開けているにちがいないと思うのです。
タルホ的なるもの ― 2016年05月04日 10時21分47秒
足穂の名前が出たので、また足穂の話題で話を続けます。
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これは繰り返しになりますが、改めて強調しておくと、私は足穂マニアでもなければ、賢治マニアでもないのです。そもそも、彼らの作品をそんなに読んでいないし、読んでいて、「ああ、分かる、分かる!」と心に迫るものが余りありません(痛切にシンパシーを感じるのは、作品総体よりも、その細部や片言隻句のことが多いです)。
(筑摩書房刊、『稲垣足穂全集・第五巻』(2001)より表紙(部分)。装丁・クラフト・エヴィング商會)
それでも彼らをしばしば引き合いに出すのは、何か物事を前にして、安易に「カッコイイ」とか「人間的」とか口走るよりも、「タルホ的」「賢治的」と表現した方が、余情があるし、他の人にもよく伝わるような気がするからです。
★
とはいえ、私の中には、「タルホ的なもの」、「タルホが喜びそうなもの」のイメージが確かにあって、そういうものを見ると、私は真っ先に「カッコイイ」と感じます。カッコイイもの全てがタルホ的ではないにしろ、タルホ的なものはカッコよく感じます。
(マガジンハウス刊、『星の都』(1991)より帯のデザイン。装丁・羽良多平吉)
まあ、私の感じるタルホっぽさが、現実の稲垣足穂氏の好みと一致するどうかは、天上のご本人に聞いてみないと分からないのですが、そこはペコリと頭を下げて、許しを乞うのみです。
(他方、「賢治的なもの」というのは、「カッコよさ」とはまた別の尺度で測られる価値のように思います。)
★
…というわけで、私なりにタルホ的と感じるものを、少し眺めてみます。
そして、その「カッコよさ」の正体に、言葉で形を与えてみようと思います。
そして、その「カッコよさ」の正体に、言葉で形を与えてみようと思います。
(この項つづく)
タルホ的なるもの…ステッドラーの鉛筆(1) ― 2016年05月05日 09時14分46秒
タルホ的なモノとして、まず鉛筆を眺めます。
ちょっとクダクダしいですが、今日はそのための前置きから入ります。
ちょっとクダクダしいですが、今日はそのための前置きから入ります。
★
今さらですが、稲垣足穂という人は相当変わった人です。
例えば、彼には「僕の“ユリーカ”」という作品があって、筑摩版の全集だと85ページほどの中編になりますが、その内容は、ガリレオやケプラーをはじめとする天文学の略史と、20世紀に発展を遂げた最新の宇宙論概説から成ります。
「第一部 ド・ジッター宇宙模型」や、「第二部 ハッブル=ヒューメーソン速度距離関係」といった章題を見ると、果たしてこれが本当に文学作品なのか怪しまれますが、初出は、昭和31年(1956)の『作家』(=名古屋を本拠とする文芸同人誌)ですから、これはたしかに文学作品として構想されたものです。
その根底には、天文学者や、物理学者や、数学者らの営みと、その学問的成果は、それ自体が美しい詩であり、時としてそれ以上のものなのだ…とする、足穂の感性があります。
「天文学者はどこか芸術家と共通しています。二十世紀最大の数学者とも云われているヒルベルトは、ある時、人から「彼はどうして数学者にならずに、詩人になってしまったのでしょうか」と訊(たず)ねられて、「たぶん数学者になるには想像力が欠けていたのでしょう」と答えたといいます。」 (p.10-11. 頁数は「筑摩版全集・第五巻」による。以下同じ)
★
そして、これが文学作品である確かな証拠として、難解な題材を扱う中にも、さかんに個人的回想がはさまっている点が挙げられます(作品タイトルに「僕の…」が冠されているゆえんです)。
その中には、「いかにもタルホ的」と思える品、おそらく稲垣足穂以外に、それを文学の叙述対象として認識できなかったろうと思える品が登場します。それが、今回のテーマである鉛筆であり、その鉛筆に小さな横顔を見せている三日月です。
「一八二二年七月十二日は満月の夜になりました。この夜半のことです。東経二十度北緯四十八度と云えば、これは、年輩の人には学校時代に記憶がある筈の、あのナイフで削ると甘い香りのする赤い脆(もろ)い粉が零れる「コピエル・ロオト」でお馴染の、J・S・ステッドレル鉛筆会社の所在地です。月じるし鉛筆の広告画にあるような、湖水を囲んだ山々が、水面もろともに銀めっきになっていた刻限だったのでしょう。ミュンヘンの天文家グルイトウィゼンは、折しも子午線上に差しかかったまんまるな銀盤に望遠鏡を差し向けて〔…〕」 (p.31)
これは、グルイトウィゼンという人が、月面に城塞のような新地形を発見したことを叙すくだりで、ここにステッドラー社が登場する必然性は、まったくないのですが、突如彼の連想はそこに飛びます。
足穂の中では、月と鉛筆の結びつきは絶対的なもので、ステッドラーの広告画から連想される南ドイツの風景や、かぐわしい軸木の匂い、甘い芯の香りとともに、その記憶は足穂の中で、一箇の強固な観念を形成していました。
足穂の筆は、続けて別の話題を追うものの、しばらくすると、また月と鉛筆に帰ってきます。
「次はお月様と鉛筆との関係です。年配のかたには憶えがあることでしょう。日本に今日のような良質の鉛筆が生産されなかった頃、どんな片田舎の文房具店を覗いても、そこには、赤と紫の二種の細軸色鉛筆を、ゴム紐でもってその頬っぺたに並べている厚紙製の半月がぶら下っていたものです。下線にそってMADE IN BAVARIAと記された紙の月は、向って右方を向いていました。花王の三日月はご存じのように左を向いています。同じ月じるしが東西どうしてこんなに違うのか、僕は些(いささ)か不審を懐いていましたが、ある夜明け方に気が付きました。それは午前三、四時頃に東方にあがってくるマイナスの三日月では、彼女の明暗境界線のジグザグが、宵月のそれに較べていっそう人間の横顔に似ているという一事でした。」 (p.34)
そしてまた…
「―― 暁の半月は、四辺が最も静まり返っている時刻であるだけにいっそう印象的だ。これも僕は併せて知ることが出来ました。なるほど! あの鉛筆の軸木に使われる香り高い針葉樹が立連なっているバヴァリア台地の黎明(れいめい)に、こんな月を仰いだならば、捨ててはおけぬことだろうな。その月を見たのは、たまたま窓辺に立った夜っぴての従業員のひとりかも知れない。それとも情人の裏口から忍び出た若者だったろうか? 風流な、絵心のある夜盗であったのだろうか?」 (p.35)
★
明け方に見える右向きの三日月の「発見」と、ステッドラーの結びつきは、昭和4年(1929)に発表された「鉛筆奇談」という掌編にも出てきます。
(マガジンハウス社刊、『星の都』より)
その結び。
「――そう云ってAは指でもって短かい弧をえがきながらつけ足した。
「云い忘れたが月のうごいたこのカーヴのまんなかにね、煙突があるのだ。しゃくれ顔だけの先生は僕の夢の間にここをすれすれに超えたわけであったが、この煙突がよく見ると六角の棒さ――まがう方もない大きな Staedtler’s Pencil であった」」 (『星の都』 p.90)
「云い忘れたが月のうごいたこのカーヴのまんなかにね、煙突があるのだ。しゃくれ顔だけの先生は僕の夢の間にここをすれすれに超えたわけであったが、この煙突がよく見ると六角の棒さ――まがう方もない大きな Staedtler’s Pencil であった」」 (『星の都』 p.90)
さらに遡って、彼の処女作品集『一千一秒物語』には、空から赤いホーキ星が落ちて、一本の赤いコッピー鉛筆に化すイメージが描かれています。
足穂にとって、深更の月は一個の謎であり、それをまとった鉛筆もまた神秘のオブジェでした。それは時に地上にそそり立って、天と地を結ぶ存在ともなるし、ときには空からコトンと落ちた彗星の忘れ形見ともなるのです。
★
ステッドラーは、1835年創業の老舗文具メーカーで、その商売は今も続いています。
したがって同社の鉛筆はいつでも買えるのですが、しかしそのロゴは、今や「右向きの三日月」から「軍神マルスのヘルメット姿」に替わってしまいました。原産地の表示も、「MADE IN BAVARIA」ではなく、ただの「MADE IN GERMANY」です。これではいけません。それに、モノも当たり前の鉛筆ではなく、削ると甘い香りのする「コッピー鉛筆」であってほしいのです。
したがって同社の鉛筆はいつでも買えるのですが、しかしそのロゴは、今や「右向きの三日月」から「軍神マルスのヘルメット姿」に替わってしまいました。原産地の表示も、「MADE IN BAVARIA」ではなく、ただの「MADE IN GERMANY」です。これではいけません。それに、モノも当たり前の鉛筆ではなく、削ると甘い香りのする「コッピー鉛筆」であってほしいのです。
…というわけで、要らざる頑張りを発揮して見つけたのが、冒頭の鉛筆です。
(長い前置きを終えて、この項つづく)
タルホ的なるもの…ステッドラーの鉛筆(2) ― 2016年05月06日 06時32分20秒
(画像再掲)
ステッドラー社製コッピー色鉛筆。
「コッピー」とは「コピー」のことです。
「コッピー」とは「コピー」のことです。
(Coloured Copying Pencils No.406 Lilac)
その説明は、GGG13さんの以下の記事をご覧いただければと思いますが、要は水分を含むとインクのように消えなくなる特殊な鉛筆で、コンニャク版という素朴な印刷技法とともに、かつて複写用途にも用いられたので、その名があるようです。
■SANFORD「NOBLOT INK PENCIL 705」レビュー
(テーゲー日記 〜文具と万年筆のブログ〜)
http://blog.livedoor.jp/omas1972/archives/2014-05-29.html
(テーゲー日記 〜文具と万年筆のブログ〜)
http://blog.livedoor.jp/omas1972/archives/2014-05-29.html
箱をそっと開けると、中から出てくるのは、この上なくタルホ的な紫色の鉛筆たち。
その一本一本に、金色の三日月マークが光っています。
黒地に金の「J. S. Staedtler」の書体が、ひげ文字風なのも好感度大。
黒地に金の「J. S. Staedtler」の書体が、ひげ文字風なのも好感度大。
もちろん紫色は衣装ばかりでなく、芯まで濃い菫色です。
今ではその色が、周辺の木部にまで染み出ていますが、コッピー鉛筆は、芯に染料を練り込んであるので(それがインクのような働きをします)、長年月のうちに軸木にも色移りしたのでしょう。
今ではその色が、周辺の木部にまで染み出ていますが、コッピー鉛筆は、芯に染料を練り込んであるので(それがインクのような働きをします)、長年月のうちに軸木にも色移りしたのでしょう。
★
「ザ・タルホ」的な、月じるしの色鉛筆。
この品は、連載の冒頭で述べたような、私が独自にタルホっぽいと感じる品というよりも、足穂作品からのダイレクトな引用に過ぎませんが、彼が言うところの「宇宙的郷愁」の例示にはなります。
再び、「僕の“ユリーカ”」からの引用。作品全体の結語です。
「僕が何時か貴女と語り合っていたのかもしれない遠いクレータ島の夜、やはりこうして語っているのであろう、月の破片が赤道の天に大円環となって懸っている未来の夜、同時にそれは何処か他の星の都会のことなのかも知れないところの夜とは、実はたった今のこれだったのです、ねえ――」
無限の過去・未来、無限の彼方を含む、あらゆる時間と空間。
それが実は「今・ここ」と重なっているという感覚。
それが実は「今・ここ」と重なっているという感覚。
―それこそが、彼の「宇宙的郷愁」の中核部分です。それは現代の宇宙論をも飛び越えた、彼の直覚的確信といえるもので、宇宙論は単にそれを語るためのダシに使われた形跡もあります。
仮にタルホからの連想がなくても、この鉛筆は、ちょっとカッコイイ品ではあるのですが、そういう途方途轍もない想念が、何気ない一本の鉛筆にひそんでいるところに、この品のカッコよさはある気がします。
(この項つづく)
【おまけ】
この鉛筆の製造年代は、文具マニアなら型番から判別できるのかもしれませんが、今は「たぶん戦前のもの」という以上のことは分かりません。ただ、ステッドラー社のシンボルマーク(マルス神の横顔)は、途中何度もデザインが変わっており、それを手掛かりに判断すると、1925~52年の間に作られたもののようです。
タルホ的なるもの…ステッドラーの鉛筆(3) ― 2016年05月07日 08時28分26秒
ステッドラーの鉛筆を探しているときに、こんなものを見つけました。
ご覧のとおり、普通の鉛筆削りですが、これぞ生粋のバヴァリア生まれ。
そもそも「バヴァリア」とは何かといえば、南ドイツの「バイエルン州」のことで、バヴァリアは、その古称に由来する英語名です。
(第1次大戦後にロンドンで出た地図帳より。東はチェコ、南はオーストリアに接するのがバヴァリア地方。)
バイエルンも、もちろんドイツの一部には違いありませんが、ドイツの他地域と比べてカトリック信者が多く、昔から自主独立の気風が強い土地と聞きました(プロイセンを盟主とするドイツよりも、歴史的には、オーストリアに親和性が高かったようです)。
なお、1つ上の写真で、バヴァリアの上に見える「D.R.G.M」というのは、「Deutsches Reiches Gebrauchs Musterschutz」の略で、「ドイツ帝国意匠登録済み」の意。
この鉛筆削りは、もちろんステッドラーのオリジナルです。
引き絞った三日月と、妙に指の長い手に、一寸妖しい気配があります。
引き絞った三日月と、妙に指の長い手に、一寸妖しい気配があります。
空気が澄みきった夜明け前、この道具でカリカリと菫色のコッピー鉛筆を削れば、辺りに涼しげな針葉樹の匂いと、甘いリラの香りが漂い、そのまま銀色の月世界にだって行けそうな気がすることでしょう。
足穂氏の新作小説 ― 2016年05月08日 10時52分52秒
「タルホ的なるもの」を眺めている途中ですが、例によってまた寄り道します。
★
筑摩書房版『稲垣足穂全集(全13巻)』は、現時点で最も新しい全集であり、最も校訂が行き届いたものでしょう。でも、「僕の“ユリーカ”」を読み返していて、おや?と思うことがあったので、メモしておきます。
全集第5巻の23ページ、火星の運河についての一節です。
「只の溝(すじ)の意に用いられていた「カヤソ」即ちc anal が、英訳では、人工運河と間違われてしまいました。」
「カヤソ」とは、また聞き慣れない言葉です。
火星の運河論争に詳しい方ならお分かりでしょうが、これは「カナリ」(英語のキャナルに当るイタリア語)の誤植。おそらく足穂の自筆原稿を活字化する際、誰か(編集者?)が誤読し、それが延々と訂正されずに残ったものではないでしょうか。
何だか、つげ義春の「ねじ式」の有名な誤植、「メメクラゲ」(本当は「××クラゲ」)を髣髴とさせます。
★
下も同じページから。
「アトラス天文詩」というのは、いかにもありそうですが、この「アトラス」も「アラトス」の誤植(ないしは足穂氏の勘違い)。
アラトス(Aratus)は、紀元前3世紀に活躍したギリシャの詩人で、星座神話を詠みこんだその詩は、キケロらのラテン語訳によって、中世のヨーロッパ世界に伝えられ、現代の我々が親しんでいる星座神話の骨格を形作っています。
★
パラパラ読んでいて、同じページに2つも誤植が見つかるというのは、結構な確率です。足穂は改稿癖のある人で、自作に繰り返し手を入れましたが、こういうミスを(おそらく)見逃していたということは、固有名詞のチェックとかは、結構いい加減だったのかなあ…と思います。
この種の過ちは、彼の刊行作品にはまだまだ多いでしょうし、これまで難読とされてきた箇所も、意外に凡ミスが原因のこともあるのかもしれません。
「まあ、ええやないか。あんた意外につまらんことを気にするな。」
と、足穂氏は、眼鏡の奥からギョロリと睨むかもしれませんが、私は臆することなく、「でもカヤソはいかんでしょう、カヤソは。何ですか、火星のカヤソって」と、足穂氏に進言するつもりです。すると足穂氏は、「よっしゃ、そこまで言うなら『火星のカヤソ』ゆうのを、今度書くわ」と強弁し、いつの間にか筑摩の全集には、その名の小説が載っていて…
タルホ的なるもの…グラスマーカー ― 2016年05月09日 21時20分43秒
このブログで取り上げるのは、ある意味、ことごとく「タルホ的なもの」です。
それでも強いてタイトルとするからには、ふだんあまり取り上げないような、理科趣味とは縁遠いもので、それでもやっぱりタルホ的と感じられるものを、載せようと思います。
それでも強いてタイトルとするからには、ふだんあまり取り上げないような、理科趣味とは縁遠いもので、それでもやっぱりタルホ的と感じられるものを、載せようと思います。
★
たとえば、このトランプを模したグラスマーカーのセット。
これは去年、神戸のランスハップブックさんで、「第3回 博物蒐集家の応接間」(※)が開催されたとき、サイドストーリーとして仕組んだ「シクハード氏の夢」に登場済みですが、ブログの記事で取り上げるのは初めてです。
グラスマーカーというのは、パーティーの席で、グラスの取り違えが起きないよう、各自のグラスの目印にする小道具。
この品の場合、トランプ柄のチップを、グラスの縁に挟んで目印とするもので、裏面もちゃんとトランプ風のチェッカー模様になっているところが洒落ています。
さらに、その置き台がポーカーテーブルのデザインになっているところが、また「カッコイイ」と思いました。この9cm角の小さなテーブルに、さらに小さなマーカーが並んでいる様は、渋さと愛らしさが混和して、実に良い感じです。
★
現実の足穂氏は知らず、タルホ的キャラクター、特に『一千一秒物語』あたりに出てくる人物は、月夜のバーでグラス片手にポーカーに興じているイメージがあって、その辺で、この品とタルホ的な世界はつながってきます。
まあ、足穂氏のいうダンディズムは、享楽とはおよそ対照的な、もっと人生の辛酸をなめ尽くした末に漂うものかもしれませんが、それにしたって、このグラスマーカーは、それほど野暮な品ではなかろうという気がします。
この品、あまり素性がはっきりしませんが、おそらく20世紀前半のフランス製。
テーブルの脚に、「A.L.Déposé」という文字が見え、メーカー名かと思いますが、詳細は不明です。
テーブルの脚に、「A.L.Déposé」という文字が見え、メーカー名かと思いますが、詳細は不明です。
(※)間もなく「第4回 博物蒐集家の応接間」が、東京で開催の予定。今回は「赤坂蚤の市」のサブイベントになります。
■日 時 2016年5月22日(日) 11:00~17:00
■場 所 ARK HILLS アーク・カラヤン広場
■参加ショップ antique Salon(主催&企画)、Landschapboek、duhbe、piika、
■場 所 ARK HILLS アーク・カラヤン広場
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メルキュール骨董店
■公式サイト
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タルホ的なるもの…彗星トランプ ― 2016年05月10日 20時49分46秒
トランプというのはちょっと気になるアイテムです。
それは数字と記号からなる、冷やっこい数理の世界を連想させるいっぽう、その対極ともいえる、トリックやマジックのような妙に人間臭いものも連想させます。そして、絵札の人物たちの、あの謎めいた表情…。
そこには『不思議の国のアリス』のイメージが漂うし、プーシキンの怪奇幻想譚、『スペードの女王』の連想も働きます。
足穂氏の実作品に、どれだけトランプが顔を出すかは不案内ですが、もろもろ考えあわせると、トランプもタルホ的世界の住人たる資格が十分あると感じます。
そして、これは私一人の感じ方にとどまりません。
たとえば、青土社から2008年に出た『足穂拾遺物語』の表紙デザインも、トランプがモチーフでしたし、もっと昔、1970年代に出た『多留保集』(全8巻)も、まりの・るうにい氏の装画による、素敵なトランプ柄で仕立てられていました。
★
上はハレー彗星回帰の1986年に、アメリカで出たトランプ。
トランプと彗星の組合せとなれば、これはもう「タルホ的なるもの」間違いなしです。
トランプと彗星の組合せとなれば、これはもう「タルホ的なるもの」間違いなしです。
カードの裏では、ジョーカー2枚を含め、54個のハレー彗星が、青紫の空をくるくる回っています。
76年周期のハレー彗星が、太陽を54周しようと思ったら、4100年余り。
まあ、星の世界ではごく短い時間で、人類が文字を持つようになってからでも、すでにそれぐらいは、彼を空に眺めた勘定です。(でも、実際に記録に残っているのは、その半分ぐらいだとか。)
(表側はごく普通のトランプ)
このトランプの色合いは、モニターで見ると青味が強いですが、実際はもっと紫がかった色です。上の画像は、それに近づけるべく努力しましたが、どうしても再現できませんでした。この辺は何となく、足穂氏の捉え難さと通じるものがあります。
(『彗星問答―私の宇宙文学』、潮出版社、1985(新装版)。装画:まりの・るうにい。発行年を見ると、これもハレー彗星を当て込んだものかも)
タルホ的なるもの…ポーカーダイス ― 2016年05月11日 20時26分22秒
イタリア製の革ケース。
差し渡しは9cmと小さなものですが、丁寧な細工で、蓋の四隅の模様も洒落ています。
差し渡しは9cmと小さなものですが、丁寧な細工で、蓋の四隅の模様も洒落ています。
蓋を開けると、中にきっちりと小気味良く収まった5個のダイス。
(ダイスの一辺は15mm)
普通のサイコロと違って、その「目」はトランプ柄です。
この5個のサイコロをいっせいに振って、出た目でポーカーのように役を作って遊ぶ、いわゆる「ポーカーダイス」です。
この5個のサイコロをいっせいに振って、出た目でポーカーのように役を作って遊ぶ、いわゆる「ポーカーダイス」です。
売り手は「アンティーク」と称していましたが、それほど古くも見えないので、「ヴィンテージ」と呼ぶのが適当な品でしょう。
ちなみに、ポーカーダイスは1880年代に考案されたゲームだそうで、最初のパテント取得は1881年、さらに1888年には「役」を増やすために、8面体のポーカーダイスが発明された…という情報をネット上で見かけました。
★
これも何となくタルホ界の住人に持たせたい品で、こういうのをおもむろに相手の前に置き、目で無言の相図をする…というような所作にあこがれますが、まあ実際にやると、きっとトンチンカンな結果になるでしょう。
ダンディズムの道はなかなか険しいものです。
タルホ的なるもの…都会の月 ― 2016年05月12日 22時12分54秒
時は、夜。
ところは、都会(まち)。
登場人物は、月、彗星、土星。
あるいは飛行機乗り、オートバイ乗り、マジシャン、それに黒猫―。
登場人物は、月、彗星、土星。
あるいは飛行機乗り、オートバイ乗り、マジシャン、それに黒猫―。
彼らがバーでグラスを傾け、闇を徘徊し、シガレットを口にすれば、私のイメージするタルホ界は、容易に成立します。
まあ、これはベタな『一千一秒物語』的世界というか、ステロタイプな足穂理解だと思いますが、それだけに強固なものがあって、足穂氏が見せるさまざまな顔の中でも、今に至るまでいちばん人気のある顔でしょう。そして、やっぱり「カッコイイ」です。
★
そんなわけで、今や摩天楼に浮かぶ月を見ただけで、反射的にタルホ的ストーリーが思い浮かびます。
月のニューヨーク2景。
手前のモノクロは1900年代初頭、奥のカラーは1920年代の絵葉書です。
手前のモノクロは1900年代初頭、奥のカラーは1920年代の絵葉書です。
20年間で、街のスカイラインはかなり変わりましたが、いずれも同時代の日本では考えられない景観で、さしもの足穂氏にとっても、幻の都のように思えたかもしれません。
★
例の『一千一秒物語』には、「ニューヨークから帰って来た人の話」というのがあって、下がその全文。
「このへんな話も ほんとうにあったことか? それともうそであるか? それは何ともわからないのである――」
たしかにさっぱり分からない話です。
あるいは、ニューヨークの高楼で火星の写真を撮ろうとすること自体、日常に亀裂を入れかねない、剣呑な振る舞いである…と、足穂氏は言いたかったのかもしれません。
あるいは、ニューヨークの高楼で火星の写真を撮ろうとすること自体、日常に亀裂を入れかねない、剣呑な振る舞いである…と、足穂氏は言いたかったのかもしれません。
まあ、真っ赤な火星も剣呑ですが、一見おだやかな月も、その実大いに剣呑であることを、タルホ愛読者はよく知っています。
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