タルホ的なるもの2016年05月04日 10時21分47秒

足穂の名前が出たので、また足穂の話題で話を続けます。

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これは繰り返しになりますが、改めて強調しておくと、私は足穂マニアでもなければ、賢治マニアでもないのです。そもそも、彼らの作品をそんなに読んでいないし、読んでいて、「ああ、分かる、分かる!」と心に迫るものが余りありません(痛切にシンパシーを感じるのは、作品総体よりも、その細部や片言隻句のことが多いです)。

(筑摩書房刊、『稲垣足穂全集・第五巻』(2001)より表紙(部分)。装丁・クラフト・エヴィング商會)

それでも彼らをしばしば引き合いに出すのは、何か物事を前にして、安易に「カッコイイ」とか「人間的」とか口走るよりも、「タルホ的」「賢治的」と表現した方が、余情があるし、他の人にもよく伝わるような気がするからです。

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とはいえ、私の中には、「タルホ的なもの」、「タルホが喜びそうなもの」のイメージが確かにあって、そういうものを見ると、私は真っ先に「カッコイイ」と感じます。カッコイイもの全てがタルホ的ではないにしろ、タルホ的なものはカッコよく感じます。

(マガジンハウス刊、『星の都』(1991)より帯のデザイン。装丁・羽良多平吉)

まあ、私の感じるタルホっぽさが、現実の稲垣足穂氏の好みと一致するどうかは、天上のご本人に聞いてみないと分からないのですが、そこはペコリと頭を下げて、許しを乞うのみです。

(他方、「賢治的なもの」というのは、「カッコよさ」とはまた別の尺度で測られる価値のように思います。)

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…というわけで、私なりにタルホ的と感じるものを、少し眺めてみます。
そして、その「カッコよさ」の正体に、言葉で形を与えてみようと思います。


(この項つづく)