足穂氏の新作小説2016年05月08日 10時52分52秒

「タルホ的なるもの」を眺めている途中ですが、例によってまた寄り道します。

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筑摩書房版『稲垣足穂全集(全13巻)』は、現時点で最も新しい全集であり、最も校訂が行き届いたものでしょう。でも、「僕の“ユリーカ”」を読み返していて、おや?と思うことがあったので、メモしておきます。

全集第5巻の23ページ、火星の運河についての一節です。


「只の溝(すじ)の意に用いられていた「カヤソ」即ちc anal が、英訳では、人工運河と間違われてしまいました。」

カヤソ」とは、また聞き慣れない言葉です。

火星の運河論争に詳しい方ならお分かりでしょうが、これは「カナリ」(英語のキャナルに当るイタリア語)の誤植。おそらく足穂の自筆原稿を活字化する際、誰か(編集者?)が誤読し、それが延々と訂正されずに残ったものではないでしょうか。
何だか、つげ義春の「ねじ式」の有名な誤植、「メメクラゲ」(本当は「××クラゲ」)を髣髴とさせます。

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下も同じページから。


「アトラス天文詩」というのは、いかにもありそうですが、この「アトラス」も「アラトス」の誤植(ないしは足穂氏の勘違い)。

アラトス(Aratus)は、紀元前3世紀に活躍したギリシャの詩人で、星座神話を詠みこんだその詩は、キケロらのラテン語訳によって、中世のヨーロッパ世界に伝えられ、現代の我々が親しんでいる星座神話の骨格を形作っています。

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パラパラ読んでいて、同じページに2つも誤植が見つかるというのは、結構な確率です。足穂は改稿癖のある人で、自作に繰り返し手を入れましたが、こういうミスを(おそらく)見逃していたということは、固有名詞のチェックとかは、結構いい加減だったのかなあ…と思います。

この種の過ちは、彼の刊行作品にはまだまだ多いでしょうし、これまで難読とされてきた箇所も、意外に凡ミスが原因のこともあるのかもしれません。

「まあ、ええやないか。あんた意外につまらんことを気にするな。」

と、足穂氏は、眼鏡の奥からギョロリと睨むかもしれませんが、私は臆することなく、「でもカヤソはいかんでしょう、カヤソは。何ですか、火星のカヤソって」と、足穂氏に進言するつもりです。すると足穂氏は、「よっしゃ、そこまで言うなら『火星のカヤソ』ゆうのを、今度書くわ」と強弁し、いつの間にか筑摩の全集には、その名の小説が載っていて…