京都へ(3)…比叡山詣で ― 2016年05月20日 20時47分46秒
昨日書いた、「これまで行ったことのない場所」とは、比叡山延暦寺のことです。
お寺の話題は、このブログと関係ないように見えますが、以前、密教の星曼荼羅の話題もあったし(http://mononoke.asablo.jp/blog/2012/07/27/6523362)、しばらくお付き合いください。
お寺の話題は、このブログと関係ないように見えますが、以前、密教の星曼荼羅の話題もあったし(http://mononoke.asablo.jp/blog/2012/07/27/6523362)、しばらくお付き合いください。
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比叡山は、近江と山城の国境にあり、山頂の手前では京都市街を一望でき、山頂を超えると、こんどは琵琶湖を一望できます。京都と琵琶湖って、意外に近いんだな…という発見がありましたが、まずは京都から順を追って叡山に向うことにしましょう。
京都側から叡山に入るには、バス利用の手もありますが、今回は電車を使いました。
出町柳は叡山電鉄の始発駅で、ここから終点「八瀬比叡山口」の駅に向かいます。
出町柳は叡山電鉄の始発駅で、ここから終点「八瀬比叡山口」の駅に向かいます。
この大正チックな駅舎がとても良くて、駅舎内の天井の構造が実に洒落ていると、天井好きとして嬉しく思いました。
しかし、ここは文字通りとば口で、ここからケーブルカーに乗り替え…
(帰途に撮影したので、これは下りの光景です)
さらにロープウェーに乗り替え…
(京都の街を振り返ったところ)
やっとのことで山頂に着いたところで、さらにバスに数分揺られて、ようやく天台宗の総本山、比叡山延暦寺にたどり着きます。
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この日の境内は山霧が横走りし、月曜日で参拝客も少なかったせいで、いやが上にも霊峰ムードが漂いました。
これが国宝「根本中堂」。
建物自体は江戸初期の再建だそうですが、その仏前に掲げられた灯火は、宗祖最澄の時代から不断に燃え続ける「不滅の法灯」で、その前で延々と護摩を焚き、陀羅尼を念誦する僧侶を目の当たりにすると、何やら山霊の気に感応し、見えないものが見えてくるような気になります。
建物自体は江戸初期の再建だそうですが、その仏前に掲げられた灯火は、宗祖最澄の時代から不断に燃え続ける「不滅の法灯」で、その前で延々と護摩を焚き、陀羅尼を念誦する僧侶を目の当たりにすると、何やら山霊の気に感応し、見えないものが見えてくるような気になります。
そして、根本中堂を出たところで見たのが、このブログに縁浅からぬ賢治の歌碑。
「根本中堂」と頭書して、賢治はこの地で以下の歌を詠んでいます。
ねがはくは 妙法如来 正徧知
大師のみ旨 成らしめたまへ
ねがはくは 妙法如来 正徧知
大師のみ旨 成らしめたまへ
(歌碑の手前に立つ銘文)
平成8年に歌碑が建立された際、賢治の弟である宮澤清六氏が、その由来を記していますが、それを読むと、賢治が父親に誘われて叡山を詣でたのは、大正10年(1921)4月のことです。
清六氏の文章は、抑えた筆致で当時の状況を記していますが、その頃の賢治は「日蓮かぶれ」が著しく、どう贔屓目に見ても、親泣かせのそしりを免れない時期でした。いっぽう父・政次郎の賢治への接し方は立派だったと思います。この父子の叡山詣での道行きを思うとき、私はむしろ政次郎に感情移入して、ちょっと涙ぐましい思いに駆られます。
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そして、賢治の歌碑の脇には、偶然にも「星峰稲荷」がありました。
鳥居をくぐり、ちょっと上がったところに、ひっそりとその社殿があります。
鳥居をくぐり、ちょっと上がったところに、ひっそりとその社殿があります。
これまた星に関係ある話で、少なからず奇縁を感じました。
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そして、星といえば、「天台って、ちょっと天文台に似てるな。でも“天台”って、そもそもどういう意味だろう?」という疑問が、ふと頭をよぎりました。
以下、例によってパパッと調べたことを記します。
以下、例によってパパッと調べたことを記します。
天台宗とは、いうまでもなく最澄(767-822)を開祖とする日本仏教の宗派ですが、元は中国の天台宗(天台教学)を移入したもので、「天台」の名は中国に由来するものです。
その中国の天台宗は、天台大師・智顗(ちぎ、538-597)を実質的開祖とし、最澄はその法統の末に連なる者。そして、智顗が「天台大師」と称されるわけは、中国浙江省にある霊山「天台山」で活動を展開したからで、天台山でその教義を確立したゆえに「天台宗」と称するわけです。
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結局、「天台」とは地名であり、山の名です。
で、「天を望む高台」だから「天台」と名付けられたのだろう…と、最初は単純に思いましたが、そこにはさらに奥があって、もし仮にそういう意味だったら、旧字では「天臺宗、天臺山」と書いたはずですが、事実は最初から「天台宗、天台山」であり、「天台」とは実は「天を望む高台」という意味ではありませんでした。
事の真相は、天台宗の若手僧侶の団体である「天台仏教青年連盟」のWEBページに、分かりやすく書かれていたので、その一部を引用させていただきます。
漢和辞典を開いてみると、「台」にはもともと「臺」と「台」の2字があったと記されています。台地や縁台・台所などの「台」の本字は「臺」なのです。そして、「臺」ではない「台」とは星のこと、上台・中台・下台の三台星(さんたいせい)、三ツ星のことなのです。今は「台」も「臺」もどちらも「台」と書くので混乱してしまいますが、天台の「台」は星の名前、天(そら)に輝く星というちょっとロマンチックな名前を持つ天台宗なのです。
天台山には、古来、仏僧・神仙・道士が多く住んでいました。そして、天帝の居所である紫微星(しびせい)を支える三台星の真下にある山こそが、この天台山であるという伝説がありました。地上で最も神聖な場所だということです。天の紫微星は北極星を中心とした星座、上台・中台・下台の三台星は大熊座の一部と推測されています。また、「天の三台 地の三公」といって、地上には皇帝を補佐する太尉(軍事)・司徒(教育・文化)・司空(人民・土地)の3宰相がいるのと同様に、天空には天帝を補佐する三台があるというのです。つまり、天帝は仏陀あるいは真理・悟りそのものです。そして、三台こそが仏法を守護して、衆生が真理を知り悟りを開くための教え、すなわち天台宗なのです。
----------------(引用ここまで)-----------------
要するに、天台とは星の名に由来し、その真下にある山だから「天台山」というわけです。
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ここで、連想は再び「星峰稲荷」に戻ります。
まだ「天台」の原義が人々の脳裏にあった頃、この霊山を「星の峰」という美称で呼んだ時期があったのではないでしょうか。
まだ「天台」の原義が人々の脳裏にあった頃、この霊山を「星の峰」という美称で呼んだ時期があったのではないでしょうか。
星峰稲荷の由来書きには、そこまで書かれてはいませんでしたが、地名は土地の記憶を伝える、最も確かなものですから、ひょっとして…と思います。
この件は、もう既に書かれたものがあるかもしれませんが、私なりに思いついたこととして、ここに記しておきます。
この件は、もう既に書かれたものがあるかもしれませんが、私なりに思いついたこととして、ここに記しておきます。
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さらにまた、中国の天台山のことをウィキペディアで読んでいたら、宗祖・智顗(ちぎ)が天台山に開いた「天台山国清寺」(旧名は天台寺)の項に、「天文学者としても有名な僧一行がこの寺で活動したため、境内に一行法師の碑や塔がある」という一文があるのを目にしました(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E5%8F%B0%E5%B1%B1%E5%9B%BD%E6%B8%85%E5%AF%BA)。
一行という人のことも不案内だったので、そのままリンク先(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E8%A1%8C)を読みに行くと、
一行(いちぎょう、いっこう、諡号:大慧禅師、683年‐727年)は、中国の唐代の僧であり、天文学者でもある。俗名は張遂則で、大衍暦を編纂した。〔…〕それまで使用されていた麟徳暦が日食予報に不備があるため、梁令瓚と共に黄道游儀や水運渾象(水力式天球儀)を作成して天体観測を行い、更に南宮説と共に北は鉄勒から南は交州に至る大規模な子午線測量を行って、緯度差1度に相当する子午線弧長が351里80歩(約123.7km)という結果を算出し、それらの観測結果に基づいて『開元大衍暦』52巻を作成した。
要は、中国の渋川春海みたいな人で、その千年前の大先輩というわけです。
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そんなこんなで、「天台」と「天文台」は直接関係ないにしても、この地は確かに星とかかわりがあり、今回の比叡山詣では、このブログの趣旨からそう外れるわけでもないようです。
星に導かれ、古い天球儀に惹かれて京都を訪ね、その足で叡山に登ったことは、何か偶然以上のものが作用したのかもしれません(作用しなかったかもしれません)。
(僧侶が受戒する戒壇院)
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