かささぎの橋を越えて2016年07月07日 06時46分12秒

今日は七夕。
旧暦の7月7日といえば、新暦の8月中旬にかかる頃合いですから、ちょうど夏と秋が入れ替わる時期です。七夕は新旧の季節感が大きくずれる行事のひとつで、現代ではこれから夏本番ですが、俳句の世界では立派な秋の季語。

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以下、『銀河鉄道の夜』より、「九、ジョバンニの切符」の一節。

 「まあ、あの烏。」 カムパネルラのとなりのかおると呼ばれた女の子が叫びました。
 「からすでない。みんなかささぎだ。」 カムパネルラがまた何気なく叱るように叫びましたので、ジョバンニはまた思わず笑い、女の子はきまり悪そうにしました。まったく河原の青じろいあかりの上に、黒い鳥がたくさんたくさんいっぱいに列になってとまってじっと川の微光を受けているのでした。
 「かささぎですねえ、頭のうしろのとこに毛がぴんと延びてますから。」 青年はとりなすように云いました。

ここにカササギが出てくるのは、もちろん銀河と鵲(カササギ)の故事――すなわち、七夕の晩には、鵲が翼を並べて天の川に橋をかけ、そこを織姫が渡って彦星に会いに行く(あるいはその逆)という、中国の伝承にちなむものでしょう(古くは漢代の「淮南子(えなんじ)」に、その記述がある由)。

そんなことに思いを馳せつつ、今日はムードだけでも涼し気な品を載せます。

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七夕の茶事で用いられる香合(こうごう)。
夜光貝の銀河と、金蒔絵の鵲を取り合わせた可憐なデザインです。


香合は香を容れるための容器で、浅い身と蓋に分れます。


銀河のほとりには、織姫の坐すこと座が輝き、


その対岸に、牽牛(彦星)の住むわし座が羽を広げています。


そして、両者の間を縫うように、漆黒の空で鳴き交わす鵲たち。

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お茶道具といっても、通販で扱っている普及品ですから、価格はまあそれなりです。
でも、このデザインはなかなか素敵だと思いました。(産地は石川県、いわゆる加賀蒔絵の品です。)


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▼閑語 (ブログ内ブログ)

異国であまたの邦人が殺されようと、
いくら政府の要人や、その取り巻きが 
破廉恥なことや、悪辣なことや、愚昧なことを
言ったり、やったり、隠したりしても、
我が同胞は少しも慌てず騒がず、常に泰然自若としている。
まことニッポン人こそ、世界に冠たる忠勇無双の国民なり。
頼もしいことこの上なし。

…と、憎まれ口のひとつも叩きたくなる昨今です。
「天文古玩」と称して、ひどく呑気なことを書き連ねながら、今の状況を前にして、少なからず心を曇らせています。

そして、私は現政権と心中する気も無ければ、その危険な実験を温かく見守る気もありません。私の答は、はっきりとノーです。

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おそらく、こういう物言いに反発を感じる人は、確実に何割かいらっしゃるでしょう。
政治の話なら、よそでやってくれ…というわけです。

たぶんこういう場合、ブログにしてもSNSにしても、多くの人は内容に応じて別アカウントを取得して、趣味なら趣味、政治なら政治と、切り分けて発言や行動をされているように想像します。それは社会生活をスムーズならしめる賢い振る舞いであり、他者への配慮でもあるのでしょう。

しかし、私にはそれが現代を広く覆う病理、「人格の解離」の大規模な実践に見えてしかたがないのです。

ついさっきまで悲しいニュースを、いかにも悲し気に読み上げていたアナウンサーが、次の瞬間、一転してにこやかな表情で、「さて次はスポーツです。テニスのウィンブルドン2日目…」と言うのを見ると、私はとっさに「この人は病んでいる」と感じます。もちろん、アナウンサーは職業上、悲し気な顔や、晴れやかな顔を作っているに過ぎないので、それを見ている方が、アナウンサーと一緒に気持ちを切り替えているなら、むしろ病んでいるのは視聴者の方でしょう。

チャンネルを替えるように、感情や思考の流れをパッパッと切り替えられるとしたら、その人の統一された「本当の自分」はいったいどこにあるのだろう…と不思議に思います。いや、その人は果たして本当に何かを感じたり、考えたりすることができているのだろうか…とすら思います。

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自分が正しいことを書いている自信は全然なくて、明日になったらまた違う感想を持つかもしれません。しかし、今はぜひ言っておきたい気がして、あえて書きました。

いずれにしても、私の中では「天文古玩」的な世界と、政治的角逐が生じている現実世界とは地続きで、そこに境界はありません。それは1つの全体です。(…と大見得を切りましたが、以前は正反対のことを書いた記憶もあり、あまり信用してはいけません。それこそがネットリテラシーです。)