雨上がり ― 2016年07月27日 07時10分14秒
ブログの趣旨とはずれますが、もう1回、思いを書き付けます。
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私なりに被害者の気持ちを推し量って、あの犯人に向って何か言うとすれば、「馬鹿野郎、勝手な理屈をこねるな。こっちだって、別に好きで障害者やってるわけじゃねえんだよ」と真っ先に言いたいです。
ハンデと、ハンデを負わされている人を同一視することは、彼(犯人)自身の過ちであり、彼に関する議論を歪ませることにもなると思います。端的に言って、彼は「袈裟が憎いから坊主まで憎む」愚を犯しています。
もし障害を憎むのだったら、障害に立ち向かう医療や教育の道を志したり、障害が障害とならないよう社会の仕組みを改めたり、世間の意識を変えていく方向に力を傾けるのが、より正義にかなった行いです。障害を憎むあまり、障害を負った人自身を攻撃するのは、どう言葉を尽くしても、不正義のそしりを免れません。
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もちろん、障害はアプリオリに「憎むべきもの」ではありません。
「障害も個性であり、その人の切り離せない一部だ」という、大切な論もあります。
「障害も個性であり、その人の切り離せない一部だ」という、大切な論もあります。
ただし、それは、「私は障害者以前に『人』である。何よりも障害を持った『人』として尊重してほしい」という意見と、何の矛盾も無く両立します。「その上で、この障害も私の個性として認めてほしい」という意見を、私は尊重します。そして、「障害を受容している人」や、さらに「自らの障害を愛している人」を、私は無条件で尊重します。そして、その人とともに、彼(彼女)の障害を大切にしたいと思います。
そのことを認めつつも、私はあの犯人に立ち向かうために、最初の論に立ち返る必要を感じています。
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