南極へ行こう2016年08月01日 23時07分15秒

やたら蒸し暑いですね。
蒸し蒸しする電車に乗っていたら、こんな中吊りが目に留まった…と思ってください。


「南極へ行こう!!」

むむむ、南極か。
よし、行こうと誘われたからには、行くことにしよう。

…というわけで、私は南極に行くことにします。
別に上の中吊りが宣伝している、名古屋市科学館の夏休みイベント(http://go-nankyoku.com/)を覗いて、お茶を濁そうというわけではありません。
私なりに本気で南極を目指すことにします。


(眉に唾を付けつつ次回につづく)

南極に行こうか、行くまいか2016年08月03日 20時50分33秒

南極に行こうと思ったのは、ある本を手にして、何だか行けそうな気がしたからです。
しかし、積ん読状態のその本を開いたら、やっぱり南極に行くのは大変だと思いました。たとえ、それが単なる「脳内旅行」だとしてもです。

(パラフィン紙のカバーがかかっていますが、表紙の地色は濃紺です)

その本とは、『南極洋水路誌』。

■水路部(発行)
 『南極洋水路誌―南極地方沿岸及諸離島』
 昭和15年(1940) 10月刊行

水路部は海軍に付属する組織で、海洋測量や海図の作成を行っていた部局です。言うなれば、陸軍に付属した陸地測量部の海洋版。現在は、海上保安庁にその業務が引き継がれています(陸地測量部の方は国土地理院)。

(遊び紙に押された水路部のスタンプ)

そして『水路誌』は、航海のための情報をまとめたデータブックで、これは日本近海に限らず、7つの海にまたがって作られたのですが、太平洋戦争前夜の1940年、日本からは最果ての地、南極についても、ついにその水路情報がまとめられたのでした。

(本書冒頭の記載)

   ★

こんな懇切なデータブックがあるなら、私も船を一艘借り上げて、南極に向けて帆を上げようか…と一瞬思ったものの、そこに連なる文字は、かなり手ごわいものでした。

まず本文第1ページに「注意」と書かれています。
(原文は漢字カタカナ表記ですが、以下、漢字ひらがなに改めて引用)

 「航海者は本誌記述区域の航海に当りては甚深の警戒を払はざるべからず。◎極めて僅少の港湾以外は精測を経たる処なく又全記事も関係海図と同じく多数の、時として内容相違せる著書より得たる資料を編纂したるものに過ぎず。」

さらに続けて南極概説には、

 「海岸線の大部は殆ど未だ探検せられずして不明なり、約14,000浬〔註:浬は‘海里’の別字。1浬=1.852km〕中探査を経しは約4,000浬、図載せられしは僅に2,500浬にして而も甚だ概略に過ぎず。Antarctica〔註:南極大陸〕海岸の諸部は常に群氷を以て鎖さるるを以て海岸に関する吾人の知識には幾多の間隙あり

   ★

20世紀半ば近くになっても、南極は依然として未知の大陸でした。
現在、我々が知っている南極大陸は、↓こんな形で、ちょっとゾウの横顔に似ています。

(ウィキペディアより)

(拾いもの画像)

しかし、この水路誌所載の南極大陸は、かなりイメージが違います。

(『南極洋水路誌』口絵図)

ちょっと見にくい図ですが、これは実物を見ても、やっぱりはっきりしない図です。


しっかり実線で描かれているのは、ゾウの鼻(南極半島)の先っちょだけで、


あとは、大きく開けた口(ロス海)も、


フサッと垂れた耳の後(ウィルクスランド付近)も、すべて点線でぼんやり描かれていて、輪郭がはっきりしません。まさに「吾人の知識には幾多の間隙あり」です。しかし、だからこそ、そこには困難を乗り越えて赴く価値がある…と当時の人は考えたに違いありません。

   ★

この本を紐解いて(今も読んでいます)、これが単なる「航路ガイド」にとどまらず、恐ろしい氷雪の海を航破する知識の宝典であり、かつ読み物としても面白いことを知りました。

灼熱の2016年の日本を離れ、76年前の世界に降り立ち、私はやっぱり南極を目指すことにします。元より危険は覚悟の上です。

(この項つづく)

暑中お見舞い申し上げます。2016年08月05日 06時50分40秒


(昭和35年(1960)発行、 『しょうがくせいのりか(1ねん上)』、二葉㈱ より)

私は夏という季節は好きですが、暑さには弱いので、この頃はまったくダメです。
ずっと眠いし、だるいし、ぐったりしています。
冷たいものばかり飲み食いしているので、お腹の調子も悪いです。

そんなわけで、いったんは南極に向ったものの、何だか頭がボンヤリして、言葉がうまく綴れません。
でも、筆が鈍るのは暑さのせいばかりではありません。
ここ数日、ずっとモヤモヤしている原因が、やっと分かりました。

この「郷愁」をテーマにしているらしい、天文古玩というブログ。
でも、郷愁とは果たしてそんなに有難いものかね…という疑念が、心に影を落としているからです。そして、それは「郷愁の戯画」を、最近イヤというほど見せつけられたせいです。

もちろん、罪は郷愁にはなく、郷愁の向け方にあることは承知しているのですが、まあ、こんなふうに弱気になるのも、結句体力が落ちているせいでしょう。
ちょっとその辺から改善を図る必要があります。

皆様におかれましても、どうぞご自愛のほどを。

(同上)

南極の海をゆく(1)2016年08月06日 14時39分50秒

さて、めげずに南極です。

「南極」というのは、本来「南極点(South Pole)」を指す言葉でしょうが、ここでは広く「南極大陸(Antarctica)」や、その周辺も含めた「南極地方」の意味で使うことにします。

「南極地方」の定義も様々ですが、大雑把に言えば、南緯60度の線で囲まれたエリアにあたります。分かりやすく北半球に置き換えてイメージすると、北緯60度線は、アラスカ、グリーンランド、フィンランドをすっぽり含み、シベリア北部を横断し、カムチャッカ半島の付け根を通る線になります。

南北で大きく違うのは、北半球だと、60度線以北にも人がおおぜい定住していますが、南緯60度以南は、南極大陸と、いくつかの島がポツポツ存在するだけで、ほぼ無人の地域だということです(これは端的に言って、南緯60度の方が、北緯60度よりも寒いせいです)。

(南北の60度線)

本書、『南極洋水路誌』が記載するのは、ここでいう「南極地方」よりもさらに広く、南米、アフリカ、オーストラリア、ニュージーランドの南端を結ぶ線と、南極大陸に囲まれた海に関する情報です。

   ★

この本を読んでいて、「なるほど」と思わず膝を打つことが、いくつかありました。

(1909年、シャクルトン隊を迎えるニムロド号。シガレットカード「極地探検」シリーズより。ジョン・プレイヤー社、1915年)

例えば群氷、すなわち群れ成す流氷に関する以下のような記述。
(以下、原文の漢字カナを漢字かな表記とし、適宜改行、句読点を補いました。)

「群氷を通航する方法は、船舶の種類に依り大差あり。
氷に対して特に設計したる木造船は、氷に挟まれ、又は閉塞せらるる危険ある場合と雖も、強圧する群氷内に故障なく進入し得べく、斯かる場合、鋼船は氷との接著に対する防護あるものと雖も、甚しき損害を蒙るべし。」 
(p.31)

低温の海では、鋼鉄船は木造船よりも氷に弱かった…というのは、金属の表面は氷結しやすく、氷に容易に捉えられて、身動きがままならなかったからでしょう。

さらに、「又、船首の尖鋭なる鋼船は氷中に突入の際、楔の如く締め付けらるるに反し、船首水線下部豊かなる船舶は、此の場合却って氷を排除し得べし。」 (p.31-32)

いかにも氷を断ち割りそうな尖った船首はダメで、ずんぐりした形の方がよい…というのも、実際に経験してみないと、なかなか会得しがたい点です。そして、「群氷通航の金言は」――と、本書は厳かに宣言します。「絶えず動く」ことなり」。

   ★

あるいは群氷の只中で、より進行の容易な、氷のない水面を察知するにはどうしたらよいでしょうか? こういう場合、海面にじっと目を凝らしてもダメで、空の色を見ろと本書は教えてくれます。

「開放せる水域又は広き水路ある方向は、水平線上の暗き空色に依り知り得べし。」 (p.32)

氷が存在する海の上は、氷の反射光でボンヤリと明るいからで、これは群氷を事前に察知するのにも応用できます。

「未だ視界に入らざる群氷の存在する第一の兆は、水平線上に生ずる白色反射光なり、是氷光(Ice blink)として知らるるものなり。」 (p.31)

さらにまた、

「氷に覆はるる陸地に近接する際、陸影を認むるに遠く先〔さきだ〕ちて屡〔しばしば〕黄色を帯びたる朦朧たる陸光(Land blink)を見ることあり」 (p.33)

とあって、氷というのは実に明るいもののようです。

   ★

そして南極の氷といえば、美しく且つ恐ろしい氷山。
その恐ろしさの理由の1つは、海上において氷山は群氷と異なる振舞いを見せ、しばしば我々の予想を裏切るからです。

(ジョン・プレイヤー社の同シリーズより。「氷山の形成」)

「群氷中の氷山は、風の影響を受くること少きを以て、群中他の氷塊と異りたる速度を以て移動すとは、常に称せらるる処にして、他の氷塊より移動遅きを常とす。氷山は水面下の流の為、群氷が風に流されある際、之と異方向に移動することあり、氷に固著せる船舶に対し、氷山が最も危険なるは、斯くの如き状態に於てなりとす。」 (p.27)

氷山はできるだけ早く察知し、危険を回避しなければなりませんが、氷は上述のように明るいので、視界良好ならば、暗夜でも察知に困難はありません。

「晴天の暗夜に於ては、1-2浬の最短距離に於て氷山の視認に殆ど困難を見ざるべし。此の際、氷山は白色又は暗黒の物体の如く見ゆるも、全力航行時と雖も、何等不安を感ぜしめざるべし。」 (p.33)

しかし、ここに思わぬ魔物が潜んでいます。それは月です。

「月は其の月齢及び方位の如何に依り、氷発見に最も有力なる価値を発揮し、又は著しき妨害と為るべし。月に向へば氷山は発見困難と為り、月を背にせば時に昼間に於けると同様遠方より認め得べし。」 (p.33-34)

月は氷山の存在を明らかにし、同時におぼろにもする曲者です。

「甚しく雲多く、月其の間に出没する際は、氷発見特に困難なり。
時として走雲の集団は物体を朦朧たらしめ、船首に認めたる氷山も再び正横か或は正横後に認むる迄、全く見失ふこと屡あり。同様の夜に於て、羊毛の如き積雲及積乱雲は、屡氷山よりの氷光の観を呈することあり。此等想像氷山は、甚だ困惑を生ぜしむるを以て、速力を減じ、甚深の注意を払はざるべからず。」 (p.34)

大海に浮かぶ雲と氷山、そして月。実に夢幻的なイメージですが、船乗りにとっては一瞬の油断もできない、魔の時間であったことでしょう。

   ★

本書冒頭の「第1編 総記」の章は、南極と南極の海の気象条件、海流、地形、動植物、その探検史を倦まず講じて、氷海をゆく心の準備を与えてくれます。
こうして予備学習が済んだところで、いよいよ実地の海に乗り出します。

(この項つづく)

南極の海をゆく(2)2016年08月07日 17時45分09秒

この『南極洋水路誌』は、当然のことながらエリア別の記述になっています。

(南極近辺の地理。ウィキペディアより)

まず「第1編 総記」につづく「第2編」は、上の図の左上、サウス・ジョージア島から、サウス・オークニー諸島、サウス・シェトランド諸島を経て、「ゾウの鼻」に当る南極半島にとっつく海域を叙しています。これはヨーロッパ方面から南極に向う一番の近道であり、いわば表街道です。いきおい関連する資料も多いのか、本文264頁の本書の中で、この第2篇だけで98頁を占めています。

一方、日本からまっすぐ南進し、オーストラリアの脇を迂回して南極に至るルートは、本書第5編の、「Macquarie Island-Emerald Island-東経130度至東経160度 Antarctica 並ニ Wilkes Land、Adélie Land 及 King George V Land」に記載があります。上の地図でいえば、右下のマッコーリー島から南極大陸のウィルクスランドに至る海域です。書籍中のボリュームはわずかに11頁。こちらは南極への裏街道といったところです。

まあ、裏道とは言え、我が日の本を発ち出でて向かおうというのですから、このルートで南極に向うことにしましょう。

   ★

まずは1810年に「New South Wales ノ総督ノ名ヲ採リテ斯ク命名」したという、マッコーリー島に立ち寄ります。

ニュージーランドの南に浮かぶオークランド諸島を足掛かりにすれば、「Auckland Islands の South-west Cape の229度〔ほぼ南東〕、340浬に位す」るのがマッコーリー島で、位置は南緯54度37分、東経158度54分。

現在はオーストラリア領で、南極へのとば口に当ります。南北18浬、幅3浬…といいますから、キロに直せば、南北33km、幅5.6kmほどの細長い島です。

その景観はというと、

「丘陵は殆ど直接海際より隆起し、僅に狭き礫浜を存するのみ。但し西岸北端の方に可なり広き平地あり。礫浜の上方に泥炭及び湿地あり。又高地には多数の小湖あり。島の概観は非常の瘠地〔やせち〕にして、樹木又は灌木なく、僅に貧弱なる苔類あるのみ」 (p.229)

であり、「島に住民なく、又規則正しく来航する者もなし」という僻遠の島ですが、

「海象〔セイウチ〕及び海豹〔アザラシ〕多く、特に10月以後は仔を生む為来るを以て、一層夥多なり。「ペンギン」鳥も多し。」 (同)

と、寒地の動物たちにとっては、一種の楽園となっています。

   ★

『南極洋水路誌』の水路誌たる由縁は、その航海情報の精確さにあります。

では、このマッコーリー島に停泊・接岸・上陸するにはどうすればよいのか? 
本書にしたがえば、東岸北端にあるバックルス(Buckles)湾や、南端にあるルスティアニア(Lustiania)湾、あるいは島の北端にあるハッセルバラ(Hasselborough)湾が、その適地だと教えてくれます。

例えばバックルス湾から上陸を試みるとしましょう。
マッコーリー島の北端には、瘤状に突きだした半島状の地形があり、ワイヤレス・ヒル(Wireless Hill)と命名されています。

Buckles Bay   地頚〔=ワイヤレス・ヒルの付け根〕南東側に於ける沿岸の小凹入部なり。湾岸に約3鏈〔1鏈=0.1浬=約185メートル〕の間、纏布せる海藻帯の外側には、険礁なきが如し。此の著しき沿岸堆上の測得最小水深は11米(6尋)なり。」 (p.231)

そして、ここに停泊するには、

錨地   船舶は Wireless Hill 南端下の緑塗小舎を296度に見て、之に向針し、Finger and Thumb Point の外方尖岩(礁の先端に非ず)と Tom Ugly Point の外端とを一線に見て、水深21米(12尋)の処に投錨すべし。然らば十分海藻帯の外側に位置すべし。」 (同)

本書の著しい特徴は、場所ごとに記述の精粗が大きいことです。
上の記述は、最も細かい部類で、さらには上記の「緑塗小舎」が、かつてのアザラシ猟者の小屋であり、「一部破壊せるも、其の内の罐〔ボイラー〕は好目標たり」という点にまで説き及んでいます。そして、ここまで来れば、「普通の天候時には上陸容易なり。最好上陸所は海藻纏布せる岩線の内側、最北の海豹小舎直下の浜岸なり」。

   ★

マッコーリー島を出て、さらに南方に向うと、ビショップ・アンド・クラーク諸島という小島が見えてきます。

(北北東方3鏈ヨリBishop and Clerk Islands ヲ望ム)

その脇を超えて、さらに進めば、そこに「エメラルド島」という美しい名前の島があります。上の南極周辺図には、その名が見えないので、もっと大きい地図を見てみます。


上は1904年にドイツで出た南極地図の一部。オーストラリア~南極大陸の海域です。その中央左下あたりを拡大すると、マッコーリー島とエメラルド島が見えてきます。

(たくさんの不整形な島状のものは、この近辺まで群氷がやってくることを示しています)

何と言っても、マッコーリー島では、壊れかけの緑色の小屋にまで言及しているぐらいですから、エメラルド島も楽勝だろうと思うと、さにあらず。

そもそも、エメラルド島は、複数の航海者の誤認に基づいて記載された、幻の島(phantom island)」の1つで、今では地図から抹消されています(上の1904年の地図も、よく見ると「?」が付いています)。

いよいよこの辺りから、『南極洋水路誌』に全面的に寄りかかることの許されない、謎の多い海域に入るのです。細心の注意を払って、さらに大陸に向けて南進します。

(この項つづく)


【付記】 これを書いている今は、あくまでも1940年の気分なので、安易にネットを覗き見るのはご法度ですが、ウィキペディアに載っているマッコーリー島はこんな場所でした。海岸に群れているのはペンギンたちです。



南極の海をゆく(3)2016年08月09日 20時46分41秒

南極の話をしても、暑いものは暑いですね。
でも、一昨日はツクツクボウシを聞き、ゆうべはコオロギの声を聞きました。
晩夏へ、そして初秋へと、季節は舵を切りつつあります。

   ★

幻の島・エメラルド島も通りすぎると、記述はいきなり南極大陸に飛びます。
この間の情報はゼロなので、羅針盤だけが頼りですが、ひたすら南進すれば南極に至ることは確実なので、この辺は大胆に行きましょう。

説明の便のため、前回の地図をもう1度出しておきます。


今、我々は右下のマッコーリー島の南側にいて、南極大陸のウィルクスランドを目指しています。上の地図は、「ウィルクスランド」の文字がちょっと上(西)に寄りすぎているので、これまた前回掲出した1904年のドイツの地図から、ウィルクスランド付近の拡大図を載せます。

(図中の略語は、B.(Bucht ~湾 英:Bay)、K.(Kap ~岬 英:Cape)、Ld.(Land)、Sp.(Spitze ~山、~峰 英:Peak)の意だと思います。)

とはいえ、南極というのは、どこが陸やら氷やら、「私は陸地を見た」と主張する人も、実際には何を見たのかあやふやで、しかも新発見の先取権争いも絡んで、地名ひとつとっても、はっきりしないことが多く、こうして↓現代の日本で発行された地図(昭文社)と並べても、ずいぶん地名やその範囲が違います。


ここでは経緯線に注目すると、両者を比較しやすいですが、右側の日本の地図でいうと、右上の隅にチラッと東経100度の線が写っていて、その下の「ウィルクスランド」の「ル」の字を通るのが東経110度の線です。以下、時計回りに120度、130度…ときて、左端の垂直線が東経180度の線。ドイツの地図は左端が切れているので、東経160度の線で終わっています。

また、緯度の方は、それぞれ左上から南緯80度、70度、60度の線で、それと平行してほぼ南極大陸の縁に沿った点線が描かれています。これは「南極圏」を示す南緯66度33分55秒の線で、これより高緯度地帯では、夏の白夜・冬の極夜が生じます。

一見して明らかなように、100年前は、南極圏の線を超えて、大陸がはみ出して描かれている部分が多く、当時は氷舌(棚氷の端部)と陸地を見分け難く、またそれだけ今より寒冷だったのでしょう。

   ★

…と、話がくだくだしいですが、そこが未知の大陸たるゆえんです。

そんなわけで、ウィルクスランドの範囲も伸び縮みがあって、今は西につづまっていますが、昔はジョージ5世ランドあたりまで伸びていて、ウィルクスランドの名前は、この辺一帯を1840年に探査した、チャールズ・ウィルクス(米)にちなむものです。

「Wilkes は1840年1月23日南緯67度4分、東経147度30分に於て15浬に亙〔わた〕り1湾を探検せりと称す。湾は幅25浬にして、全く氷に鎖さる。彼は之を Dissapointment Bay と命名せり。」 (p.236)

Dissapointment Bay(絶望湾)とは、何と救いのない名称だろうと思いますが、それはドイツの地図にもしっかり載っています。そして、その右(西)隣の凹所――古い地図でははっきりしません――が、Commonwealth Bay (連邦湾。ここは1911~1914年に、ダグラス・モーソン(豪)がオーロラ号で精査した地域です。

Commonwealth Bay  Alden Point と Cape Gray との間、幅約27浬にして、約12浬凹入す。西側の氷崖は高さ約31米にして、後方に斜面を成す積雪は、高さ約396米まで隆起す。Alden Point の東方12浬の Cape Hunter に若干の露出せる黒色岩及南極海燕の巣窟あり(第232頁対面対景図第65参照))。」 (p.237)

その第65図が以下です。


手前のごつごつした岩のようなものは、高さ31メートルの氷の崖。その後は一面の雪の斜面で、それが400メートル近くまで盛り上がっているというのですから、恐るべき絶景です。この景色を前に停泊してみます。

錨地  Aurora号は Commonwealth Bay 内、水深18-45米(10-25尋)の処二投錨せしも、錨地は甚しく暴露し、且急深にして水深不斉なりき。Cape Hunter を距る1浬の処にて775米(424尋)の水深を測得せり。」 (同)

オーロラ号に乗ったモーソンたちは、この湾内に探検のための本部を設置しました。が、陸地については「全く氷に鎖され、其の西部以外は僅に陸岸より探検せしのみ」(p.236)という状況だったので、内陸部の地図が真っ白でも止むを得ません。

何といっても、ここは名にし負う南極大陸なのです。細心の注意を払っても、なおかつ危険に満ちた場所であり、その証拠が湾内のデニソン岬には歴然とあります。

Cape Denison 〔…〕は殆ど湾の中央に位する高さ約12米の氷河作用による堆石にして、其の両側に高さ18-46米の氷崖あり。此の角の沿岸は著しく起伏し、内陸1粁〔km〕の処にて43米迄隆起す。Cape Denison に1913年東方の探検中死亡せるDr. Mertz 及 Lieut. Ninnisの紀念の為、十字架を建設しあり。」 (同)

   ★

…という辺りで、このアウェイの話題も、そろそろ引き返した方が安穏のようです。
とりあえず、この真夏の最中、南極の端っこを望見できただけでも、今回は良しとしましょう。

(この項、尻つぼみになっておわり)

月人発見2016年08月11日 09時04分57秒

最近の買い物から。


1920年頃のクロモリトグラフカード。
欄外のキャプションは、「天文学/間違いない、月には人が住んでるんだ。」

特に説明するまでもなく、少年天文家と、彼をからかう友人たちを描いたユーモラスで可愛い絵柄。色合いもすっきりとして、見ていて気持ちがいいです。


   ★

このカードはちょうど絵葉書大ですが、絵葉書そのものではなくて、フランスのラウル靴店(Chaussures Raoul)の宣伝用カードです。


裏面には、「ラウル靴店 最新最高の品を、最低の価格で」という、同店の決まり文句が刷り込まれています。(パリが本店だと思いますが、このカードにはフランス中部・トゥールの街の支店住所が載っています。)

   ★

そういえば、やっぱり「天文学」と題された、上のカードよりも一寸時代の古い宣伝カードがあったのを思い出しました。


あれも望遠鏡の筒先に何やらぶら下げて、覗き見る人に一種の暗示をかけようとしている絵柄でした。読み返すと何だか切ない記事ですが、当時の自分の心持ちを振り返り、興味深いといえば興味深いです。

日英交流を祝う望遠鏡2016年08月13日 08時06分52秒

イギリスの天文史学会Society for the History of Astronomy ; SHA)というのは、アマチュアも多く参加している、いわば好事な趣味人の集まりです。少なくとも、こんないでたちで、古い天文台の廃墟を訪ねるぐらいには好事な人たちです。


そして、ここは誰にでも開かれている団体です。私もその末席に連なって、紀要やニューズレターを送ってもらっているのですが、最新の紀要(Bulletin Issue25、2016春号)を見ていたら、「Japan」の文字が目に付きました。


「何かな…?」と目をこらすと、「ジャパン400委員会が贈呈した天体望遠鏡」と題する記事で、今から3年前の2013年に、日英交流400周年記念行事の一環として、イギリス側から日本に贈られた1台の望遠鏡を紹介する内容でした。

   ★

日英交流400周年と望遠鏡がどう関係するかといえば、1613年、時の国王ジェームズ1世が、徳川家康に書状を添えて望遠鏡を贈ったことがあって、その望遠鏡の現物はすでに失われているのですが、この故事にちなんで、改めてイギリスから日本に望遠鏡を贈ろう…というアイデアが出されたのでした(実際に望遠鏡が発注されたのは2012年のことです)。

その後、望遠鏡はロンドン、ケンブリッジ、さらに東京の駐日イギリス大使館を経て、日本各地を巡回し、今年の6月にようやく最終目的地である、家康ゆかりの駿府城に落ち着きました。


日英友好の望遠鏡復元 家康ゆかりの地に展示 静岡 (静岡新聞2016/6/22)
 http://www.at-s.com/news/article/culture/shizuoka/253051.html

そんなわけで、ニュースとしてはさほど旧聞というわけでもないのですが、国内報道の記事には、いくぶん不正確な点が目につきます。

たとえば、この望遠鏡は、家康に贈られた望遠鏡の「復元品」ではなく、今回のイベント用に特注されたオリジナルです。また、その焦点距離は1000ミリちょうどですから、「全長1.8メートル」というのは、明らかに過大です。また金メッキも施されていません(その黄金色はブラスそのものの輝きです)。

…というわけで、日英修好のために、ここにより正確なところを記しておきます。
何と言っても、上の紀要記事の著者、 Ian Poyser さんは、この望遠鏡を製作した本人なので、望遠鏡の詳細について書くには、これ以上の人はいません。

   ★

イアン・ポイザーさん(とお読みすると思うのですが、ひょっとしたら特殊な読み方をするかもしれません)は、ウェールズで、望遠鏡の注文製作を仕事にされている方です。

ポイザーさんは、望遠鏡の歴史的経緯を略説し、当時この望遠鏡に関わった2人の人物――ジェームズ1世の指南役だった、初代ソールズベリー伯 ロバート・セシルと、英国船を歓待した初代平戸藩主・松浦法印(諱は鎮信 しげのぶ)――の子孫が、400年後に顔を合わせて、改めて望遠鏡の授受をしたくだりを親しく記します。

当代のソールズベリー侯(今は侯爵だそうです)が、当代の松浦章氏に望遠鏡を手渡す場面や、それがロンドン塔に置かれた家康寄贈の甲冑の前に展示されている場面などは、なるほど歴史性に富み、絵になるシーンです。

   ★

で、肝心の望遠鏡本体についてですが、ポイザーさんは「Technical description of the Japan400 Presentation Telescope」の節で詳述しているので、それをかいつまんで紹介しておきます。

 「ジャパン400委員会のために製作した望遠鏡は、寄贈用の品であり、セレモニーで用いられる贈呈品なので、持ち運びの便を考慮し、我が社が扱う通常の天体望遠鏡よりも小型化する必要があった。我々は研摩した真鍮製天体望遠鏡を経緯台に乗せ、同じく研摩した真鍮製の付属品を備えたオーク製三脚で支えることにした。」

以下、基本スペックです。

対物レンズは、イギリス製の2枚玉アクロマートで、レンズ径86mm、焦点距離は1000mm。接眼レンズは、焦点距離35mmのプローセル式で、前記の対物レンズと組み合わせることで、29倍の倍率が出ます。

鏡筒は引抜成型の真鍮筒で、チューブ径は3.5インチ(約8.9cm)、ここに合焦用のドローチューブが2つ付きます。1つはラックピニオン式の2インチ径(約5.1cm)チューブ、もう1つはさらにその内部に入った押し引き式の粗動チューブで13/8インチ径(約4.1cm)で、焦点を合わせた状態だと、全体の鏡筒長は42インチ(約107cm)ほどになります。

付属の十字線入りファインダーは口径25mm、倍率は10倍。

経緯台付きのオーク製三脚は、高さ53インチ(約1.35m)で、望遠鏡を取り付けたときの、望遠鏡の中心線までの高さは61インチ(約1.55m)になります。

望遠鏡を収めた箱は、ウェールズ在住の家具職人、S. Gates氏の力作で、釘やネジを一切使わずに組まれた職人技の賜物です。

   ★

…と、訳知り顔で引用したものの、実は上の記事はポイザーさんのサイトに発表済みのものを、SHAの紀要が再掲したもので、オリジナルの記事はネットでも読めます。ポイザーさんの手わざを、美しい写真と共にご覧ください。

(ポイザーさんのサイトのトップページ。左下から以下の記事にリンク)

The Japan400 Telescope
 http://www.irpoyser.co.uk/index.php?page=108

   ★

歴史にはとげとげしいエピソードが多く、日英の封建君主の思惑も、到底「友情」などという代物ではなかったでしょうが、400年後にこのイベントを企画した人たちは、まぎれもなくフレンドシップに富んだ人たちであり、これはちょっといい話だと思いました。

夏休み2016年08月14日 07時01分36秒

お盆ということで、ブログの方もちょっと夏休みに入ります。
ゆっくりと沈思する夏です。

(スウェーデン製マッチラベル)

8月15日に寄せて2016年08月15日 22時26分43秒


いつものブログは夏休み中なので、今日は大いに「閑語」します。

   ★

「もはや戦後ではない」と言われて久しいです。
「もはや戦後ではない。―もはや戦前だ」…というのが、ちっとも冗談に聞こえないのが、恐ろしくもあり、いきどおろしくもある昨今です。

   ★

「決して鼎立しない三つ組み」というのがあります。

古くはヤスパースが挙げた、「ナチス的である、知的である、誠実である」という3つの性質などが、その代表です。すなわち、この3つの性質は同時に満たされることが決してなく、ナチス的で知的であれば、その者は不誠実(うそつき)であり、知的で誠実な者はナチス的であることはできず、誠実でナチス的な者は知性を持たない…ということで、これはたしかに真理をついています。

   ★

平和憲法と軍隊と日米安保も、ちょっとそれに似たところがあります。

平和憲法と軍隊があれば、他国との軍事同盟は解消すべきであり(スイス型国家)、平和憲法と日米安保があれば、軍隊は不要であり(戦後のある時期までは、それが日本のスタンダードでした)、日米安保と軍隊があれば、平和憲法は矛盾した存在として抹殺されるべきだ…というわけです。もちろん、現在の政権は3番目の道を選ぼうとしています。

実際には、3つの内から必ずしも2つを選ぶ必要はなく、1つだけ選ぶこともできます。
すなわち、軍隊を採って、平和憲法と日米安保を捨てる(孤立的軍事国家)、日米安保を採って、平和憲法と軍隊を捨てる(被植民地化)、平和憲法を採って、日米安保と軍隊を捨てる(理想主義的平和国家)…というイメージです。

結局、平和憲法と軍隊と日米安保という3つのものから、1つ乃至2つを選ぶという単純な状況に限定しても、選択肢は6つあり、今の政府の方針に反対するのでも、5つの立場があるわけです。その辺を曖昧にしたまま、かみ合わない議論をしている例が少なからず見受けられます。

   ★

個人的には理想主義的平和国家を推したいところですが(私は理想と平和が好きです)、その実現が困難であることは認めざるを得ません。

それは「他国は信用ならないから」という外的要因よりも、それを実現・維持するだけの強靭な政治力が、今の日本には欠けていることを懸念するからです。そして、こうした政治力の衰微は、他のどの選択肢を採るにしても、大きな危険要素であり、国を破る元だと思います。

   ★

為政者は愚民政策を推し進めることで、国民を御しやすくなったと喜んでいるかもしれませんが、それは一方で一国の政治力の弱体化をもたらし、国を危うくしているのだ…という事実に、もっと意識を向けるべきだと思います。