土星キャラ立ち史(その9)2016年08月28日 08時05分44秒

木星に着くと、すぐに無人コントロールの戦車が、ビルたちを襲ってきます。


しかし、朝鮮戦争で鍛えた歴戦の戦士は、光線銃で機敏に塹壕を掘り、これを撃破。


さらに隙をついてアラゴア・ヴォンのいるドーム内に侵入するビル。


アラゴア・ヴォンも銃で必死に応戦し、時間だけが空しく経過します。
焦りの色を隠せないビル。顔を伝って汗が盛んに流れ落ちます。

「たとえアラゴア・ヴォンを倒しても、みんなで地球に帰る私の計画が失敗したら、このまま木星に島流しだぞ…!」


しかし、アラゴア・ヴォンと銃撃戦を演じながら、ビルは冷静に「ある場所」を探り当てます。

「私が銃を撃ってる間、奴は用心してこのキャビネットの前に立とうとしなかった。奴がわざとそうしなかったということは、この中に私の探しているものが隠してあるに違いない!」

ビルが探していたもの、それは「地球の頭」でした。
土星のカンデア・オールが、やすやすと地球に行けたのは、彼が「地球の頭」を被ったからに違いない…そしてカンデア・オールがそうしたなら、木星のアラゴア・ヴォンも同じことをしたはずだ…と、ビルは推理したのでした(嗚呼、何という名推理でしょう)。


地球の頭が手に入れば、あとはこちらのものです。
ビルは仲間とともに、「地球の頭」の力で、あっという間に地球に戻ることができました。そして、生命維持装置を着けないまま地球に飛ばされたアラゴア・ヴォンは、たちまち絶命し、灰の山となりました。

これこそがビルの作戦であり、ソ連の兵士にモールス信号で伝えた内容です。

   ★

ソ連の兵士も、我々のようにうまくやりおおせただろうか?…と気を揉むまでもなく、その答はすぐにラジオから聞こえてきました。


「アメリカの同胞の計画のおかげで、我々も土星のカンデア・オールを倒すことができました。我々両国、さらに世界の他の国々は、この地球や、木星・土星の上で、共に平和に暮らせることが証明されました。」

それを聞いて、ビルは深く頷きます。

「そのとおり!土星や木星では素晴らしい発明品の数々が我々を待ち受けている。それはみんなのものだ。宇宙時代にはもはや敵国なんて存在しない。あるのはただ平和を愛する地球人だけだ!」

   ★

まずはめでたし、めでたし。
いささかオメデタすぎる気がしなくもないですが、この楽天性こそが、平均的アメリカ人の有する(あるいは有した)資質なのでしょう。

冷戦期の極度の緊張状態の中、人類の宇宙進出によって、「地球人意識」が芽生え、国家間の戦争も終結するに違いない…というかすかな願望が、ある程度(少なくともコミック誌の中で真顔で語られるぐらいには)一般化していたらしいのも、興味深く思いました。

   ★

今、南の空では、土星が火星やアンタレスと明るく競演しています。

いつかあそこから「土星の頭」が届き、それをきっかけに地球に平和が訪れることはないにしろ、みんなが星空を見上げ、頭の中が少しずつ宇宙色に染まれば、少しは平和の訪れも近づくだろう…という程度の楽天性は、あって然るべきではないでしょうか。(各種の国際会議も、ときには満天の星をふり仰いでやってほしいです。)

コメント

_ S.U ― 2016年08月28日 11時03分33秒

「地球の頭」を探す! これには気づきませんでした。

 冷戦時代の米ソには、体制はまったく逆で、科学技術能力は均衡していて、その反転対称性のようなものから来る親近感や、オリンピックの決勝で出会うアスリート間の連帯感のようなものがありましたね。特に、技術者や軍人の間にはその意識が大きかったと思います。だから、軍事的メリットに乏しい月飛行用大型ロケットの開発が意味のある競争として行えたのでしょう。その後、それは有人宇宙ステーション建設競争となりましたが、結局、軍事施設としては役に立たず、ISSの国際協力での運用となりました。
 この米ソの関係は、今日の国際関係にはない関係だったと思います。この点で、当時の「核抑止力論」は、もはや現在ではまったく通用しない可能性が高く、注意が必要です。

 さて、話は変わって、ご指摘の「土星キャラが立つ」ことについてですが、今回の御ブログに刺激されてその理由を考えるに、土星の環が無機的な機能美と、有機的な機能美(タルホならそこに肉体的、性的なものも述べたでしょう)を兼ね備えているからではないか、そして、それは、環のサイズの絶妙の比例から来ているのではないかと気づきました。

 それで、土星環のB環の内縁半径とA環の外縁半径を(C環は暗くて見にくいので無視)、土星半径を単位として測ると、土星半径:B環内縁:A環外縁=1:1.53:2.27 となっています(『天文年鑑』2016年 による)。これは、一見して、ほぼ等比数列になっています。1.53の2乗≒2.34≒2.27。さらに、本体と環の隙間と環の幅の比は、√2の「白銀比」に近くなっています。0.53:0.74≒1.40≒√2。 (1.53 - 1 = 0.53、2.27 - 1.53 = 0.74)

 この等比数列と白銀比は、それぞれ、土星環が無機的、有機的な機能美を人間に感じさせる理由として、大発見かもしれないので、ここでは、玉青さんだけにこっそりお知らせすることにします(笑)。

_ 玉青 ― 2016年08月31日 06時15分26秒

これは、大発見のご報告をありがとうございます。
漠然と土星をカッコいいと感じる、その感じ方の背後には、普遍的な美の配合があったのですね!

考えてみれば、オリオンや北斗など、「カッコいい」星座の背後にも、黄金比や白銀比が隠れているかもしれず(あるいは、そういう審美的な感覚を無意識に空に投影し、星を結んで出来たのが星座だ…ということかもしれません)、さらには星雲・星団・銀河など、「天界の名所」にも、名画に通じる美の配合があることでしょう。

最近、文学部は旗色が悪いのですが、○○大学文学部美学科宇宙美学専攻…なんてあったら、意外にいけるのではないでしょうか。そうしたら、土星美学の大家たるS.U博士にも大いに講じていただかねばなりませんね。(^J^)

_ S.U ― 2016年08月31日 07時57分22秒

ご推挙ありがとうございます(笑)。大層な話になってきましたね。

 それでは、ここで、私も教養を積むべく、モノの美学に造詣の深い玉青先生にお尋ねしたいことがございます。土星からは多少の脱線になりますが、ご寛恕下さい。

 まだ、私が青年だった頃の話ですが、私の同級生で日本画家をやっていた友人が、手近な木の枝を示しながら、「自然にある植物の枝振り、葉の付き方などは、どれをとっても至上の完璧な美の形を備えている。(だから、画家は、この事実を観る人に知らせるようにそれを写さねばならない・・・)」という意味のことを言いました。私はそのことをずっと覚えていて、今でもしばしば道ばたの草木の枝や葉っぱの形を見るのですが、なるほどどれもほぼ完璧な、一葉たりとも動かしがたい美しい配置をしているように見えます。手で折ったり剪定をすると、どうしても人間の作為が明白で、完璧さが失われます。
 ところが、その完璧な自然の枝の葉っぱが、一部、虫に喰われたり、秋になって落葉を始めたりすると、部分的な欠損が起こるのですが、それでも完璧な美が失われないことに気づきました。つまり、虫喰い、落葉によって、物理的な完璧さは失われても、美的な完璧さはバランスにおいて維持されるのです。虫喰いや落葉がそんな器用な手順で進むとは思えないので、私は、結局、この理由は人間の側にある、人間は自然の成り行きでできた形を美しいと認識するよう刷り込まれているのだ、というふうに考えました。

 美学や心理学の研究では、このへんはどのように解明されているのでしょうか。私の結論が正しいとすれば、どのような自然現象の結末であれば完璧さが維持されていると感じるのでしょうか。同じ自然による変化でも、害虫にやられたり、台風で枝が折れて落ちてしまえば、これはあまり美しくはありません。まいどまいど勝手な質問で恐縮ですが、よろしくお願いいたします。

_ 玉青 ― 2016年09月01日 09時33分12秒

>理由は人間の側にある

ここに答は言い尽くされているように思います。
植物はわりと人間の思いを受け止めてくれるというか、人間からすると思いを託しやす存在なので、その美は結局人間の側から発して、それが植物に投影されている…ということではないでしょうか。

そこから逆に、一本の木を描かせると、そこに描き手の心理状態が投影される、したがって木の絵を見れば、その人の今の心理状態が分かる…という「バウムテスト」なども成り立つわけです。

この「投影説」が正しいとした場合、植物に投影されるのが往々にして「完璧な美」である理由、植物のいったい何がそうした観念や情調を喚起するのか…というのが問題になりますが、ここで一寸思考実験をすると、例えば完璧な美と感じられた一本の草が、実はプリザーブド加工された命のないものであった、あるいは現物から型取りして、巧みに樹脂で再現されたものであった、さらにまた海洋堂の職人が全て人為で作り上げたものであった…とした場合、物理的な形象は全く同じであっても、果たして同様の美を感じ得るだろうか?といえば、やっぱり自ずと違うような気がします。

私見によれば、天然の植物は、それが巨大な自然の一部と認識される限りにおいて、「完璧な美」のイメージを喚起するのだと思います。つまり、そこに感じられる「完璧な美」は、実は個々の植物よりも、その奥にある「大自然」の観念と一層結びついているのではないか…というのが、私の想像です。虫に喰われても、はらはらと落葉しても、そこに不変の美が感じ取れるというのも、眼前の対象が「大自然」の観念と結びついているからこそでしょう。

さらに論をふくらますと、「大自然」(無垢な自然と言い換えてもいいですが)と「美」の強固な結びつきは、わりと近代の所産といいますか、18世紀から19世紀にかけてのロマン主義思潮に発しているのではないかなあ…という気もします。もちろん人々は大昔から植物を芸術のモチーフとしてきましたが、昔々の人は、「自然の花は美しい」というよりも、むしろ「花は描かれることによって美しくなる」と思っていた節があります。

したがって、S.Uさんが述べられた後段、「人間は自然の成り行きでできた形を美しいと認識するよう刷り込まれている」というのは、若干留保が必要かもしれません。畢竟、S.Uさんも、ご友人も、そして私も「近代の所産」たることを免れないのでしょう。

    +

何だか、苦沙弥先生と美学者・迷亭のやりとりみたいになってきたので、この辺で話を切り上げますが、ちょっと関連する話題として、虫を恐れたり、蛇を恐れたりするのと同じように、樹木を恐れる「樹木恐怖症」というのがあるらしいです(以下は英語版wikipediaの解説)。

■Hylophobia https://en.wikipedia.org/wiki/Hylophobia

植物が情動を喚起するのでも、その喚起の向きがプラスマイナス反対になることもあるみたいですね。

_ S.U ― 2016年09月01日 18時24分23秒

 これは、詳しい解説をありがとうございました。

 文化によって育まれた美的感覚というものが人間の心にあるのはよいとして(それは間違いなくあるでしょう)、それが植物に「投影」され、植物がそれを「受け止めてくれる」という考え方には思いも及びませんでした。これは、私にはかなり斬新な考えです。

 人間の心の「美のイデア」が植物に投影が出来たからといって、自然の植物に対応する美のイデアがあるかどうかはまったくわからない、というのは、現象論的な心理学に立つと、そういうことになるのでしょう。

 私は、ギリシア哲学や儒学とは違うのですが、「理学原理主義」というような見方に染まっているのかもしれません。自然の根底にある美の原理は(これも確かにあるでしょう)、人間の遺伝子に刻まれているはずと仮定しておりました。実は、これも保証はまったくないです。

>畢竟、S.Uさんも、ご友人も、そして私も「近代の所産」たることを免れないのでしょう。

 さて、近代以来の自然感に我々が染まっているのかどうかは、日本画家の感覚の関連でいうならば、西洋近代の写実主義以前の日本の植物の写実絵画を見ればよいのかもしれません。そうなると江戸時代前期の長谷川等伯、尾形光琳、狩野探幽あたりを見よとなるのでしょうが、彼等の描く植物をどうご覧になりますでしょうか。私が見ますに、自然を写しているようではありますが、人為的なアンバランスやリズム感を感じます。円山応挙以降とはだいぶ違うように思います。応挙が西洋近代の影響を受けていたかは別問題ですが、かつての芸術家には別の美的精神構造があったといえそうに思います。西洋では、北方ルネサンスの頃を境に明瞭に違いますね。
 
 残念ながら、私は、いま直ちにその友人にこの疑問をぶつける方法を持たないのですが、(実際に会って飲みに誘うくらいの手続きが必要です)彼がデューラーが好きだと言っていたことを思い出しました。デューラーは近代の初めにおいて、何か関係することを言っていたでしょうか。
 どうやら玉青さんの見方が正しそうですね。

_ 玉青 ― 2016年09月02日 07時03分32秒

思えば「土星の頭」から、話が深いところに行きましたね。(^J^)

まあ、私は何でも「投影」の一語で片付けるきらいがあるので、話の方は半分の半分ぐらいに聞いておいてください。

デューラーというと、Das große Rasenstückという、草叢を描いた水彩画が有名ですが、ご友人もあの絵を思い浮かべつつ、件の発言をされたのかなあ…とボンヤリ想像するぐらいで、今はそこから論を発展させる備えがありません。この辺のことは、植物画の話題が出た際に、また考えることにいたしましょう。

_ S.U ― 2016年09月02日 18時36分33秒

>「土星の頭」から、話が深いところに

 まいどまいどの脱線ですみません。
 今回は、話四半分とは言え「投影」という考え方に初めて馴染めてよかったです。「観察」と「投影」ではだいぶ方向が違うようですが、また両者の関連について考えてみます。
 実は、ここで量子力学の観測問題ででてくる「射影測定」というのを思い出しました。この射影(projection)は数学用語ですが、観測者からの投影(projection)とも理解可能で、関連があるかもしれないのですが、脱線が過ぎるので次の機会とさせていただきます。

 以上だけでも十分な収穫でしたが、今回は、懐かしい友人の芸術感覚を30年越しくらいでかなり理解できたように思えたことは、さらに嬉しいことでした。「土星の頭」の御利益には計りしれないものがあります。

_ 玉青 ― 2016年09月03日 21時49分12秒

人は生物進化の脱線から生まれた存在であり、最初から脱線するようにできているのでしょう。そして人生とは目的のない旅であってみれば、生きるとはそれ自体が脱線なのかもしれませんね。また脱線を楽しみつつ、お付き合いを願います。(^J^)

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