宇宙競争(前編)2016年09月01日 09時34分36秒



「スペースレース」と題されたカードゲーム2種。いずれも1950年代のものです。


「2種」といっても、版元は同じニューヨークのEd-U-Cards(エデュカーズ)社で、中身も一緒です。結局違うのはパッケージのデザインだけ。


カードは1から10まで、同じ絵柄が2枚ずつ含まれています(つまり2組のカードデッキが1セットになっています)。

ゲームは、2人のプレイヤーが、自分のデッキ(山札)をめくって、1番の「離陸」から10番の「地球着陸」まで、どちらが早く引き当てられるかを競うものです。(意中のカードが出なければ、ハズレカードは隣に積み上げて第2の山札とします。プレイヤーはどちらの山札をめくっても構いません。)

しかし、この旅の行程はかなり奇妙なものです。

地球を出発したプレーヤーは、まずいきなり土星に向います。それから木星→火星と引き返して、今度は一転して天王星へ。さらに海王星→金星→水星を経て、今度は一気に冥王星へ。何だか目が回りそうです。何かここには隠された秩序があるのか、ないのか…?


そしてカードデッキには、惑星カードのほかに、トラブルカードが含まれています。
モーターの故障、宇宙船の修理、燃料補給…etc.、これらのカードを引くと、相手のターンになって、今度は相手が山札を引く番になるというルールです。

   ★

この50年代チックな、微笑ましいカードゲーム。
しかし、そこにはある種の「時代相」が刻まれています。

冒頭、「違うのはパッケージデザインだけ」と書きましたが、実はこの2種類の「スペースレース」には、それ以外にも違うところが1つだけあります。

(この項つづく)

宇宙競争(後編)2016年09月02日 06時38分31秒


(画像再掲)

正確にいうと、左側のは1952年版の「スペースレース」で、右側のは1957年版です。
57年版と52年版を比べると、惑星カードはまったく同じですが、トラブルカードの方を見ると…

(1957年版「スペースレース」のカード。昨日写っていたのは1952年版です)

あ!左下に何か見慣れぬカードが。


57年版では、52年版の「宇宙海賊」と「宇宙怪獣」が、「味方の衛星」と「スプートニク」に置き換わっているのでした。さらに、単純にプレイヤーが順番交代するのではなく、「味方の衛星」を引くと、さらに2枚カードを引けるラッキー要素が、「スプートニク」を引くと、「2回休み」という罰ゲーム要素が付け加わって、ゲームに一層変化を与えています。

   ★

それにしても、宇宙怪獣(あるいは宇宙海賊)がスプートニクに変化し、更なるマガマガシサを振り撒いている…というのが、まさに時代です。

1957年は、いわゆる「スプートニク・ショック」の年で、人工衛星の打ち上げでソ連に先んじられたアメリカが、猛然と追い上げを決意した年でもあります。まだ見ぬ「味方の衛星」に夢を託し、スプートニクに敵愾心を燃やしたアメリカの少年少女も多かったのでしょう。

(ただし、前々回の「土星の頭」の話に出てきたように、「スペースエイジは新たな地球同朋の時代だ。国同士のちっぽけな争いはもうやめよう」という論もあったので、当時の子どもたちの心が、ソ連憎し一色に染まっていたわけでは、当然ありません。)

   ★

アメリカはその後、有人月着陸を成功させて、大いに溜飲を下げました。
そして、「スペースレース」ゲームも、1969年にアポロ・バージョンのパッケージに衣替えし、それを盛大に祝ったのでした(何だか執念深い話ですね)。

(69年版は持っていないので、これはeBayの商品ページから寸借。パッケージは変りましたが、中身は57年版と今度こそ本当に同じです。)


これぞ「スペースレース」、米ソの宇宙開発競争を体現したゲームだなあ…と、しみじみ思います。

秋、懐かしい級友(とも)の顔2016年09月03日 21時42分49秒

9月となり、季節は秋に。
夏の疲れがどっと出て、今日はこんこんと眠り続けました。

   ★

三省堂池袋本店のナチュラルヒストリエで7月から始まった、「博物蒐集家の応接間 避暑地の休暇」も、8月いっぱいで第1章「旅のはじまり」が終り、新たに第2章「petit musée ~ 天文と好奇心の博物館」がスタートです(第2章は10月28日まで続きます)。

博物蒐集家の応接間 避暑地の休暇
 第2章『 petit musée ~ 天文と好奇心の博物館 』

 http://ameblo.jp/salon-histoire-naturelle/entry-12196055330.html

第1章では、会場の賑やかしに私も少しご協力したのですが、会期終了とともにその物品が返却されてきて、それを見ていると今年の夏もつつがなく終ったなあ…と、しみじみ感じます。

第2章はテーマが天文なので、一見、天文古玩の出番がありそうですが、私の提供する品はすべて非売品なので、むしろこの種のイベントには不適だったりする事情もあるわけです。

それはともかく、明日はしばらくぶりで再会した品を棚に戻すので、そのついでに、今回池袋に出かけた品を一瞥しておきます。


(この項つづく)

天文古書の表情ということ2016年09月04日 13時41分16秒

(昨日のつづき)

今回、池袋に何冊か天文古書を持ち込みました。
以下はそのうちの3冊。


いずれもドイツの本です。




どれもドイツらしい、硬質な「星ごころ」に満ちた良い表情の本だと思います。


3冊を並べたところ。
池袋の展示では、特に言及しなかったので、気づかれなかった方も多いと思いますが、改めて目を凝らすとお分かりのように、実はこの3冊は同じ本です。
即ち、オットー・ウーレ(Otto Ule、1820-1876) が著した、Die Wunder der Sternenwelt(星界の驚異)

ウーレは専門の天文学者というよりも、一種の科学啓蒙家で、地理学や物理学の本も書いていますが、中でもこの『星界の驚異』は好評を博し、著者の死後も、後の人が筆を入れながら長く版を重ね、読み継がれました。

上の3冊はいずれも著者の死後に出たもので、左から1883年の第3版、1900年の第5版、そして1923年の第7版になります。さらに、今回は持参するのを忘れましたが、下が1860年に出た初版。


19世紀半ばから20世紀前半にかけて、美しい天文書がたくさん生まれましたが、こうして全く同じ本のデザインの変遷を見ていると、それぞれの時代で宇宙に寄せる思いの変化や、何をもってカッコイイと感じるかという美的感覚・造形感覚の違いを、はっきり読み取ることができます。

まさに天文書も世につれ…の感が深いです。

(この項つづく)

天文古書に時は流れる(1)…天文台と機材2016年09月06日 06時09分15秒

(前回のつづき)

一口に「天文古書」といいますが、その古さもいろいろです。
例えば200年前の本と100年前の本では、そこに100年の時代差があるので、同じ「昔」といっても、その「昔」の指し示すものはずいぶん違います。

ここでウーレの『星界の驚異』を素材に、天文古書に刻まれた時代について、ちょっと考えてみます。

   ★


前回登場した、4種の『星界の驚異』。

いちばん上の1860年版から、その下の1923年版まで、経過した時の流れは63年間。普通に考えても、結構長い時間ですが、さらに科学技術の進歩という点から考えると、この60年余りは、とても大きな変化のあった時代です。


これが1860年版のタイトルページ。
天文学を象徴するイコンを並べたのでしょうが、いかにも古風な感じがします。


こうした図像は、1883年版の表紙↑にも登場しており、そこに連続性も感じますが、イメージはともかく、両者を隔てる23年間に、天文学のハード面はずいぶん変わりました。

例えば、その最先端の現場である天文台と機材の図を見比べてみます。
以下3枚は、1860年版に描かれた天文台と“大型”機材のイメージ。




その後、1883年版になると、天文台のイメージは下のように変わります。



端的にいって、19世紀の後半は機材の大型化が目覚ましく進んだ時代で、それとともに天文学はきっちり組織化されたビッグサイエンスとなり、アマチュアとプロの差も歴然となったのでした。

すぐ上の図はウィーン天文台の内部を描いたものですが、これは1900年版にもそのまま登場します。そして1923年版になると、天文台のイメージはさらにこう変わります。


カリフォルニアのウィルソン山天文台の150cm径反射望遠鏡の雄姿。
この一枚の写真こそ、天文学の変化を雄弁に物語るものです。

即ちこの23年間に、
 天文学研究の中心は、ヨーロッパからアメリカと移り、
  大望遠鏡の主流は、屈折式から反射式になり、
   第一線の天文台は街を離れ、高山の頂に移動したのです。

(画像再掲)

雪山の上に輝く満天の星と、それを眺める孤独な男という1923年版の表紙絵も、そうした時代の変化を反映したものと思います。

   ★

そして、時代の変化は、描かれた機材に読み取れるばかりではありません。

(この項つづく)

Living Dead2016年09月12日 06時36分49秒

依然蒸し暑いですね。でも、街路のけやき並木に目をやれば、濃い緑が少し黄ばんできました。暑くても、やっぱり秋は秋です。

さて、私ぐらいの年恰好の者が、突然ウンともスンとも言わなくなると、「ひょっとして、アイツは頓死したのではないか」とか、頓死はせぬまでも、「何か良からぬことをしでかして、遁走したのではないか」と思われがちです。

まあ、こうして無事生きているのですが、しかし遁走ならぬ遁世の志が胸にきざすぐらい、このところ身辺がバタバタして、盆もなければ正月もなく、さらには土曜も日曜もなしに昼夜兼行で走り続けるような仕儀におちいっていました(多少大げさに言っています)。

そんなわけで、いろいろ不義理を重ねていますが、もうちょっとしたら、またノンビリ記事を再開できると思います。というか、早くそうなって欲しいです。

天文古書に時は流れる(2)…印刷技術のはなし2016年09月14日 06時39分31秒

話の腰がすっかり折れましたが、ひとまず前々回のつづきです。

   ★

1860年、1883年、1900年、1923年。
およそ20年間隔で並んだ4冊の「同じ」本。
そこには、本づくりの基本である印刷技術において、目立った違いがあります。

   ★

1860年というと、日本はまだ江戸時代の安政7年で、桜田門外の変により、大老・井伊直弼が斃れた年…と聞くと、ずいぶん昔のような気がしますが、実際そうに違いありません。

1860年版の『星界の驚異』を開いた印象も、「古風」の一語に尽きます。
その「古風」の正体を一言で述べれば、「黒々している」ということで、まあ黒々していることにかけては、後のエディションもそうなのですが、こと1860年版に関していうと、徹頭徹尾黒いです。

たとえば巻末の天球図。

(1860年版)

これを後の版と比べると、その「黒さが違う」ことの意味がお分かりいただけるでしょう。

(1923年版。この天球図は1883年版以降共通です)

そしてこの黒さは、即ち「版画の黒さ」です。

1860年版の特徴は、まだ挿絵に石版が登場していないことで、すべて金属版――銅版ないし鋼版――か、木口(こぐち)木版です。

木口木版は、金属版と違って凸版ですが(だから活字と同じページに組んで、同時に刷ることができます)、目の詰んだ堅木をビュランで彫ったその線の質感は、普通の木版(板目木版)よりも、むしろ金属版に近いものがあります。



よくインクの乗った、黒々とした月面図。
その濃淡は線の疎密で表現されており、これは「線の芸術」と呼ぶべきものです。

   ★

(1883年版表紙)

これが1883年版になるとどうか?(ついでに言えば、1883年は明治16年で、鹿鳴館がオープンした年だそうです。)

そこに登場したイノベーションが、「石版」と「写真」です。


上は、最初期の天体写真家である、イギリスのウォレン・デ・ラ・ルー(Warren De la Rue 、1815-1889)による月面写真。もっとも、デ・ラ・ルーの写真自体は、1860年の時点ですでに存在したのですが、当時はまだ写真のテクスチャーを、そのまま印刷で表現する術がありませんでした。1880年代に入ると、それが石版によって可能になったわけです。

そして、石版が本の世界にもたらした“革命”が、多色図版の大量印刷です。
それまでカラー図版といえば手彩色に頼っていた本の世界に、石版は鮮やかな「色の世界」をもたらし、その印象を一変させました。


1883年版の口絵。
天文台の上空をかすめる火球を、淡い青緑の色調で描いた図です。

図の右下に見えるように、この絵はフランスのギユマンの『Le Ciel(天空)』からの転載で、こういう繊細な絵柄と技法が、フランス生まれの新趣向として、当時のドイツで大いにもてはやされたのでしょう。


あるいは第3版が出る前年の1882年に観測された日食の図。
キャプションには「5月15日」とありますが、これは5月17日が正しく、傍らに見えるのは1882年のグレート・コメット(C/1882 R1)で、彼がまだ真の大彗星になる前の姿です。

こうした多色図版の登場が、どれほど当時の人の目を喜ばせたか、そして本の世界を一変させたかは、想像に難くありません。

ちょうど1993年と2016年の文化状況がひどく違うように、1860年と1883年の出版文化も、大いに様相を異にしていた…と言えると思います。


(この項、ふたたび間をあけてつづく)

【付記: 文中、なぜか1883年と1880年を取り違えている箇所があったので、修正しました。】

天文古書に時は流れる(3)…天体写真と宇宙のイメージ2016年09月18日 15時14分00秒

何だか、ひさしぶりの休みのような気がします。

記事の方も、こう間延びすると何を書こうとしていたのか忘れてしまいがちです。
予定では、印刷技術の面から、1883年版に続いて、1900年版と1923年版の特徴を挙げようと思ったのですが、あまり上手く書けそうにないので、要点だけメモ書きしておきます。

   ★


1883年版には石版の月写真が登場しました(前回の記事参照)。
それに続く印刷技術の大きな変革がハーフトーン(網点)の出現です。1900年版に載っている、この↑月面写真もハーフトーン印刷ですが、これによって天文古書は、我々が見慣れた表情にぐっと近づいてきます。


そして、1923年版↑となれば、天体写真の技術も大いに進歩し、星団や星雲など被写体にも事欠かず、印刷メディアを通して、宇宙の名所は多くの人にとって身近な存在になる…という変化をたどります。

このような天体写真の一般化と、印刷による複製技術の進歩は、我々の「宇宙」イメージを前代とは大いに異なるものとし、『銀河鉄道の夜』に出てくる次の一節も、そうした背景の中で生まれたのだ…ということは、以前も書きました。

 「けれどもいつかジョバンニの眼のなかには涙がいっぱいになりました。そうだ僕は知っていたのだ、勿論カムパネルラも知っている、それはいつかカムパネルラのお父さんの博士のうちでカムパネルラといっしょに読んだ雑誌のなかにあったのだ。それどこでなくカムパネルラは、その雑誌を読むと、すぐお父さんの書斎から巨きな本をもってきて、ぎんがというところをひろげ、まっ黒な頁いっぱいに白い点々のある美しい写真を二人でいつまでも見たのでした。」

このジョバンニの経験は、ある程度まで宮沢賢治(1896-1933)自身の経験でもあるのでしょう。彼が、もし「まっ黒な頁いっぱいに白い点々のある美しい」銀河の写真を、多感な時期に目にしなければ、あの作品は生まれなかったかもしれません。

   ★

印刷技術という点で言うと、1900年版と1923年版には同じ原版に拠った、りょうけん座の子持ち銀河(M51)の写真が、共通して載っています。

(1900年版)

(1923年版)

しかし、両者を見比べると、1900年版のホワイトノイズが乗ったような、ザラザラした灰色っぽい写真に比べて、1923年版では漆黒といってよい宇宙空間が表現されており、印刷術の進歩による表現力の向上を、そこにはっきり見て取ることができます。

(この項、竜頭蛇尾気味に一応終わり)

濁りと飽和2016年09月19日 09時39分06秒

透明な水に青い粒をひとつ落とせば、美しい青の水になり、
そこに緑の粒を落とせば、美しい青緑の水になる。

…と、ここまでは良いのです。
でも問題は、さらに調子に乗って、紅い粒や、黄色い粒や、紫の粒を投下して、さてどんな美しい色が出現するかと見守っても、期待した色は現れず、どんどん汚く濁った色になることです。

惚れ惚れするような美しい粒を見つけて、「さすがにこんな綺麗な色を投じたら、この濁った水もたちどころに美しさを取り戻し、再び輝き出すだろう」と期待しても、やっぱりだめです。

そもそも、これぐらい濁ってしまうと、いかなる色を投下しても、その色合いや透明度が変わることはなく、入れる前と入れた後で、何の変化も生じません。

   ★

何の話かといえば、部屋の印象と、そこに置かれたモノの関係についてです。

なんぼ私でも、無分別にモノを買っているわけではなくて、「これは素敵だ。こんな素敵なものが身近にあったら、必ずや部屋に身を置く喜びが増すだろう」と思えるものを、選んで買っているのですが、現実はそうは行きません。

「変だなあ…こんな筈ではないのに」と、思案して分かったことは、「世の中には、混ぜてはいけない要素がある」ということです。少なくとも、多くの人の感性になじまない取り合わせがあるのは確かです。

   ★

…と、ここまで書いたのを読み直して、我ながら正しいことを言っている気がするのですが、「まあ待て待て。もうちょっと違う要素もあるぞ」という内なる声が聞こえます。

それは色合いの話とは別に、「溶液の飽和」ということで、たとえば「俺は塩辛いのが好きだから、うんと濃い塩水を作ってやる」と張り切っても、塩水というのは、ある程度以上の濃さにはなりません。飽和状態に達してしまえば、あとはどんなに塩を投下しても、溶け残って底にたまるばかりです。

モノについても、ある一定の量を超えると、部屋に溶け込むことができなくなって、沈殿が始まります。具体的には、床に積み上がります。これは大層見苦しいもので、いくらキレイな沈殿であってもゲンナリします。それに第一じゃまです。

飽和の問題」は上記の「濁りの問題」よりも単純で、広い部屋に移ればいいのですが、単純だから簡単に解決できるとも限らないわけで、むしろこれは難しい問題に属します。

それに、いくらより多くの塩が溶けたとしても、水の方も増えたら、同じ濃さの塩水が増えるだけのことで、「もっと鹹(から)さを!」と願う、塩好きの期待に応えることはできません。

残された道は、水の温度を上げて、同じ量の水により多くの塩を溶かしてやることですが、部屋とモノの関係について見た場合、「温度を上げる」というのが何を意味するのか、ちょっと俄かに答が見つかりません。

   ★

あれ、何か既視感があるぞ…と思ったら、既に4年前に「モノの濃度」ということについて、似たようなことを考えていました。

二廃人、懲りずにオメデタイ話を繰り返す
 http://mononoke.asablo.jp/blog/2012/03/01/

まったく成長がないようですが、やはり4年の経験は伊達ではありません。
4年前の自分の肩をポンと叩いて、「キミはまだモノとの本当の付き合い方を知らんな」とか言いながら、ニヤッとしてみたいですが、すると4年後の自分に肩を叩かれて、ニヤッとされそうです。


銀河草紙(前編)2016年09月21日 06時39分49秒

台風一過。
彼岸の中日を前に、秋冷の気が辺りに満ちています。

おととい耳にしたツクツクボウシが、おそらく今年最後の蝉でしょう。はたして彼は伴侶を得ることができたのかどうか。伴侶どころか、彼は自分以外の蝉の存在をまったく知らずに、一生を終えたかもしれません。思えば何と孤独な生でしょう。

   ★

さて、話題を星に戻して続けます。

『銀河草紙』 ―― そんな美しいタイトルの本があることをご存知でしたか?
それは正真正銘の江戸時代の本で、しかも黄表紙や洒落本なんぞでなく、七夕習俗について真面目に綴った本なのですから、興味深いことこの上ないです。

著者は池田東籬(いけだとうり、1788-1857)、画工は菱川清春(1808-1877)。京都の書肆・大文字屋得五郎らが版元となって、天保6年(1835)に出た本です。

この本の存在を知ったのは、つい最近のことです。
でも検索したら、大阪市立科学館では、2011年から七夕関連のプラネタリウム番組の中でこの本を紹介しており、現物の展示も行われている由。

第45回 七夕にまつわる新発見(2011年6月12日)
 http://www.sci-museum.jp/staff/?p=22

   ★

気になるその内容ですが、幸いなことに、この本は国会図書館のデジタルコレクションで、全頁カラー画像で見ることができます(http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2608095)。


今、巻ごとの章題を挙げれば、上巻は、「二星(じせい)相値(あひあふ)の説」、「乞巧奠の条」。中巻は、「天の川の条」、「鵲(かささぎ)の橋の条」、「梶の葉の条」、「願の糸の条」、「芋の葉の露の条」、「笹流しの条」。そして下巻は、「七夕といえる条」、「七日佳節の条」、「素麺を祝ふ条」、「星に小袖をかすといふ条」…となっています。

天文趣味の観点からは、中巻の「天の川の条」が、真っ先に気になるところです。
では、と目を凝らすと、

 「天の川は水気の精とも、金気の集まる処にして秋の気であるとも〔※〕、あるいは『遠望鏡(えんぼうきょう)』とかいうもので覗くと、小さな星が集まっているのが鮮やかに見えるともいう」

…という記述があって、当時すでに「天の川は星の集まりだ」という知識が、かなり行き渡っていたらしいのが、目を惹きます。(※なお、中国古来の五行説では、「木火土金水(もっかどこんすい)」の五要素を四季と関連付けて、「金」を秋に当てました。)

とはいえ、著者・東籬は、

 「自分は『天の学び』〔天文学の意?〕に暗いので、どれが正しいのかは分からないが、天の川は夏の終わりごろから見え始め、冬になると見えなくなってしまうことからすると、『秋気の集まったもの』という説が、もっとも妥当ではなかろうか…」

と自説を述べており、江戸の平均的知識人の理解の限界も、同時に示しています。

   ★

ときに、この素敵な本はかなりの稀本です。
全3巻を所蔵するのは、国会図書館と京都府立総合資料館のみで、あとは京大に1冊(上巻のみ)あるそうですが、他は皆目わかりません。

まあ、鮮明な画像をいつでも見られるので、現物はなくてもいいようなものですが、モノ好きとしてはそれでは物足りません。いくら部屋が濁ろうが、飽和しようが、やっぱりこれは探す価値がある…という辺りの顛末を記します。

(この項つづく)