濁りと飽和2016年09月19日 09時39分06秒

透明な水に青い粒をひとつ落とせば、美しい青の水になり、
そこに緑の粒を落とせば、美しい青緑の水になる。

…と、ここまでは良いのです。
でも問題は、さらに調子に乗って、紅い粒や、黄色い粒や、紫の粒を投下して、さてどんな美しい色が出現するかと見守っても、期待した色は現れず、どんどん汚く濁った色になることです。

惚れ惚れするような美しい粒を見つけて、「さすがにこんな綺麗な色を投じたら、この濁った水もたちどころに美しさを取り戻し、再び輝き出すだろう」と期待しても、やっぱりだめです。

そもそも、これぐらい濁ってしまうと、いかなる色を投下しても、その色合いや透明度が変わることはなく、入れる前と入れた後で、何の変化も生じません。

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何の話かといえば、部屋の印象と、そこに置かれたモノの関係についてです。

なんぼ私でも、無分別にモノを買っているわけではなくて、「これは素敵だ。こんな素敵なものが身近にあったら、必ずや部屋に身を置く喜びが増すだろう」と思えるものを、選んで買っているのですが、現実はそうは行きません。

「変だなあ…こんな筈ではないのに」と、思案して分かったことは、「世の中には、混ぜてはいけない要素がある」ということです。少なくとも、多くの人の感性になじまない取り合わせがあるのは確かです。

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…と、ここまで書いたのを読み直して、我ながら正しいことを言っている気がするのですが、「まあ待て待て。もうちょっと違う要素もあるぞ」という内なる声が聞こえます。

それは色合いの話とは別に、「溶液の飽和」ということで、たとえば「俺は塩辛いのが好きだから、うんと濃い塩水を作ってやる」と張り切っても、塩水というのは、ある程度以上の濃さにはなりません。飽和状態に達してしまえば、あとはどんなに塩を投下しても、溶け残って底にたまるばかりです。

モノについても、ある一定の量を超えると、部屋に溶け込むことができなくなって、沈殿が始まります。具体的には、床に積み上がります。これは大層見苦しいもので、いくらキレイな沈殿であってもゲンナリします。それに第一じゃまです。

飽和の問題」は上記の「濁りの問題」よりも単純で、広い部屋に移ればいいのですが、単純だから簡単に解決できるとも限らないわけで、むしろこれは難しい問題に属します。

それに、いくらより多くの塩が溶けたとしても、水の方も増えたら、同じ濃さの塩水が増えるだけのことで、「もっと鹹(から)さを!」と願う、塩好きの期待に応えることはできません。

残された道は、水の温度を上げて、同じ量の水により多くの塩を溶かしてやることですが、部屋とモノの関係について見た場合、「温度を上げる」というのが何を意味するのか、ちょっと俄かに答が見つかりません。

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あれ、何か既視感があるぞ…と思ったら、既に4年前に「モノの濃度」ということについて、似たようなことを考えていました。

二廃人、懲りずにオメデタイ話を繰り返す
 http://mononoke.asablo.jp/blog/2012/03/01/

まったく成長がないようですが、やはり4年の経験は伊達ではありません。
4年前の自分の肩をポンと叩いて、「キミはまだモノとの本当の付き合い方を知らんな」とか言いながら、ニヤッとしてみたいですが、すると4年後の自分に肩を叩かれて、ニヤッとされそうです。