デ・ラ・ルーとその時代(5)2016年10月25日 06時31分47秒

問題のデ・ラ・ルーの月写真というのはこちら。


版元はロンドンのCharles Panknin と読めますが、このメーカーについては詳細不明。


さて、これをステレオビュアーで見るとどうか?
実際にやってみると、確かに丸みを帯びて立体的に見えます。

でも、ボールのような真ん丸ではなくて、卵を尖った方から眺めているような、ちょっと不思議な形に見えます(「厳密に計測すると、月はわずかにレモン型をしている」…という話も聞きますが、そういうレベルを超えて、はっきり尖って見えます)。

   ★

眺めているうちに、実際そういう奇説を唱えた人がいたのを思い出しました。
それは足穂がエッセイに書いていたことで、奇説の主は、ペーター・ハンゼン(Peter Andreas Hansen、1795-1874)。ウォレン・デ・ラ・ルー(1815-1889)から見ると、ちょっと年長の同時代人です。

 「彼はゴータ大学に教鞭を執り、ゼーベルグ天文台の台長だったが、月の運動の特異性に基いて、「月は球体に非ず」という説を立てた。お月様はむしろ玉子形である。鶏卵の尖った方が常に地球に向いている。この、巨大な山と云ってよい部分は月の気圏の上まで突出しているから、山頂に空気は無い。大気も水も裏側に廻っている。従って、月人も裏側に棲み、其の他、動物も植物も見られることに相違ないと。」
稲垣足穂 『月は球体に非ず!―月世界の近世史』


これだけだと文字通りの奇説に過ぎませんが、ハンゼンは王立天文学会のゴールドメダルや、王立協会のコプリー・メダルを受賞した、当時一流の天文学者でしたから、その影響力はずいぶん大きかったことでしょう。

となると、このステレオ写真の不思議な見え方も、ひょっとして意図的に狙ったのかなあ…という気もするのですが、確証はありません。

   ★

月の立体写真というのは、単に同じ写真を並べても――あるいは普通の立体カメラを使ったぐらいでは――両眼視差の効果が得られないので、立体には見えません。

でも、月のわずかな首ふり運動(秤動;ひょうどう)を利用して、似たような月齢で、しかも一寸違った角度を見せている写真を並べると、そこにヴァーチャルな立体感が生まれます。これを最初に思いついた人は、相当の知恵者だと思います。

(ステレオ写真の裏面)

デ・ラ・ルーの写真も、1858年5月と1859年2月に撮った、別々の2枚を並べて立体感を出しています。


1859年、今から157年前の半月。
月古きが故に貴からず。でも、そういう目で見れば、何となく古雅な感じが漂います。

   ★

月観測の功績から、デ・ラ・ルーは、今や月面地形の名称にもなっています。

(A. ルークル著『月面ウォッチング』、地人書館より)

月の「氷の海」の傍らにある、崩壊した壁平原(大型クレーターの名残の地形)がデ・ラ・ルー。


これは父親のトーマスが、ガーンジー島のパブの名前になったよりも格段にすごいことで、たとえ地元では忘れられても、ウォレンがあえて不平を唱えることはないでしょう。(でも、月面にパブが開店し、「ウォレン・デ・ラ・ルー」という看板が出たら、一層喜ぶかもしれません。)

コメント

_ S.U ― 2016年10月25日 08時43分56秒

>奇説の主は、ペーター・ハンゼン
 この人については、私にとっては足穂のご紹介作品のみがソースなのですが、それを読んで、これは真面目で科学的で優れた説ではないかと感じました。つまり、当時の天体力学で、月が常に地球に同じ面を向けながら多少の秤動をしている、月面には明るいところと暗いところの模様がある、といったことから、潮汐力と内部の比重のようなものを勘案して「卵形説」を出し、これは今日の観測や学説に照らしても大筋で間違っていないのではないかと思います。
 ただ、空気や生物までいくと行き過ぎですが、、これは当時と現在で知識のバランスが違うことによっているのでしょう。ハーシェルの「太陽人説」の系統ではないかと思います。

_ 玉青 ― 2016年10月26日 07時14分30秒

これはもうハンゼンの原著に当たるにしくはなしですね。
ハンゼンは、月の形状として、真球からどの程度のずれを予測していたのか、そこが気になります。

「月の形は一見まん丸に見えるが、本当はちょっといびつなんじゃよ。強いて言えば、そうさな、卵のような…」という「比喩としての卵型」と、「ずばり卵型」では、その意味合いや印象は随分違うと思うのですが、あるいはハンゼンは前者のつもりだったのに、同時代人は、それを後者の意味にまげて取った(さらに足穂氏がそれに尾ひれを付けた)…という可能性も少なからずあると思います。

本文中でちらと触れた「月はレモンの形」にしても、マスコミはセンセーショナルに「月が丸く見えるのは錯覚で、本当はラグビーボールのような形(=ラグビーボールそのものの形)をしている」と、事実とは異なる報道をした形跡があって、21世紀ですらそうなのですから、ましてや19世紀にあっては、ハンゼンの真意が歪曲された可能性は大いにありそうです。

_ S.U ― 2016年10月26日 19時50分40秒

「月は球形ではない」、「それはレモンの形に近い」と別々に言えば、まあそれぞれ真なる言明と解釈できないこともないですが、これを端折って「月は球形ではなくレモンの形に近い」というと、球よりも果物のレモンの形により近いのか、という嘘とされても仕方のないような言明になりますね。今さらながら科学の記述は難しいものだと思いました。

>ハンゼンの原著
 やはりそうですか。言い出しっぺですからね・・・ 足穂の文献を見ても原著はわからないので、ネット検索すると、

Astrobiology, History, and Society [electronic resource] : Life Beyond Earth and the Impact of Discovery
by Vakoch, Douglas A; SpringerLink

https://archive.org/stream/springer_10.1007-978-3-642-35983-5/10.1007-978-3-642-35983-5_djvu.txt

という文献に、

Persons hoping for selenites found encouragement not only from observers but
also from mathematical astronomers of distinguished reputation, such as Peter
Andreas Hansen, who in 1856 published a paper arguing that a previously unac-
counted for motion of the Moon might be explained were the Moon egg-shaped,

で始まる記述がありました。これによると、月の重心は、ハンゼン説ではその形状の中心より33マイル地球よりにあるそうです。また、1856年の論文とは、

Title: Sur la Figure de la Lune
Authors: Hansen, P.
Journal: Memoirs of the Royal Astronomical Society, Vol. 24, p.29

http://ads.nao.ac.jp//full/1856MmRAS..24...29H/0000029.000.html

を指すのかもしれません。そこでは、確かに月の秤動や重心位置が膨大な量の複雑な数式と共に論じられているようですが、具体的な数値の結果や生物居住説については書かれているかわかりませんでした。まあ、真面目に難しい力学の計算していらっしゃるらしいことはわかりました。33マイルといえばほぼ50kmですから、そんなに小さくはありませんがべらぼうに大きいこともない微妙なところです。ただし、これはレモン形の長さではなく重心位置です。しかし、その後、計算はニューカムによって改善され、現在知られている対応する値は2kmであるようです。これは先駆者に良くあるパターンの「着想は悪くなかったが、数値の結果は過大であった」という例の一つのようです。

_ 玉青 ― 2016年10月27日 07時10分53秒

うわ、これは早速ありがとうございます。
となると、やはりこれは「作られた奇説」に過ぎず、ご本人は至極真っ当な主張をされていた…ということに落ち着きそうですね。
足穂氏のおかげで、日本の一般読者にトンデモ系の人と思われ、ハンゼン氏もさぞ迷惑でしょうが、既に泉下で直接クレームを付けられたことと思いますので、ここでは敢えて追及せずにおくことにしましょう。

ときに、S.Uさんが冒頭で書かれた事実。

>「月は球形ではない」、「それはレモンの形に近い」…これを端折って「月は球形ではなくレモンの形に近い」

ここでハタと膝を打ちました。
自分も無意識のうちにやっているかもしれませんが、こういう詭弁を意識して使う人もいるかもしれません。これは余程気を付けなければならないレトリックですね。

_ S.U ― 2016年10月30日 08時12分56秒

>一般読者にトンデモ系の人
 ハンゼンのような歴史に名を残しつつも、一般には広く知られていない科学者が、100年経って自分が「トンデモ系」呼ばわりされているのを知ったらどう感じるのか。

 そういう人たちの死んでからの気持ちなどもちろんわかりませんが、自分が良い仕事もしたという自負があるならば、意外とそれほど悪い気はしないのではないかと思います。あの世では、ペーター・ハンゼンさんもニコラ・テスラさんも、チャールズ・バベッジさんも余禄の勲章としてけっこう誇りに思っているかもしれないと思います。

_ 玉青 ― 2016年10月30日 11時30分53秒

ジョン・ハーシェルの月人発見騒動は、完全にアメリカ人ジャーナリストのでっち上げでしたけれど、ジョン自身それを面白がっていたそうですから、ハンゼンさんも卵の月に破顔一笑しててくれたら、周りも愉快な気分になって言うことなしですね。(^J^)

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