キノコ本(2) ― 2016年11月11日 21時43分55秒
トランプ情勢を注視しつつ、キノコ本の話題を続けます。
といって、私はそっち方面に詳しいわけでは全然ありません。
先日の「きのこの思い出」では、キノコに関する思い出を、熱っぽく語りましたが、少なくともキノコ本に関しては、キノコ愛に燃えたというよりも、単に流行りに乗っただけの面が強いです。
先日の「きのこの思い出」では、キノコに関する思い出を、熱っぽく語りましたが、少なくともキノコ本に関しては、キノコ愛に燃えたというよりも、単に流行りに乗っただけの面が強いです。
★
下は「いかにも」な1冊。
■Guillaume Sicard,
Histoire Naturelle des Champignons Comestibles et Vénéneux
(食用及び有毒キノコの博物誌)
Delegrave (Paris), 1884(第2版)、判型 27.5×17.5cm、308p.
Histoire Naturelle des Champignons Comestibles et Vénéneux
(食用及び有毒キノコの博物誌)
Delegrave (Paris), 1884(第2版)、判型 27.5×17.5cm、308p.
この表紙に横溢するメッセージ性がすごいですね。
キノコはまさに「花ならぬ花」であり、花と競い合う存在だ…というわけでしょう。
キノコはまさに「花ならぬ花」であり、花と競い合う存在だ…というわけでしょう。
以前、素晴らしいルリユール(美装幀)の施された本書を目にしたことがありますが、私の手元にあるのは、傷みと染みの目立つ仮綴じ本です。
それでも、74枚もの多色石版画を収めた、この本の美質を愛でるには十分です。
この本は、キノコ本の世界では有名らしく、検索すればその画像をたくさん見ることができますが、以下サンプル的に中身を覗いておきます。
この本は、キノコ本の世界では有名らしく、検索すればその画像をたくさん見ることができますが、以下サンプル的に中身を覗いておきます。
大きいキノコに小さいキノコ。
紅、青、紫、若草…鮮明なキノコのスペクトル。
キノコは、生命が取りうる形態の驚くべき多様性を教えてくれます。
こんな姿を目にすれば、人々がキノコに魅せられるのも当然で、ましてやそこに舌の喜びや、妖しい幻覚が伴うとすれば、もはや何をかいわんや…という感じです。
こんな姿を目にすれば、人々がキノコに魅せられるのも当然で、ましてやそこに舌の喜びや、妖しい幻覚が伴うとすれば、もはや何をかいわんや…という感じです。
★
著者のギヨーム・シカールは、フランス国立図書館のデータによれば、「1830年生まれ、1886年没。植物学者。フランス植物学会会員」とありますが、本書以外の著作は、「リンゴとナシの発酵と腐敗」という雑誌論文と、フランスの薬学者、アルフォンス・シュヴァリエの評伝がある程度です。肩書も「ドクトル」ではなく「ムッシュ」ですから、おそらくはアマチュア、あるいはアマチュアに近い立場で活躍した人でしょう。
それだけに、この『キノコの博物誌』は彼畢生の代表作。その熱い思いが、本書の序文や前書きには綴られているんじゃないかと思うのですが、残念ながらフランス語なので、読み取れません。
ともあれ、私はこういう人が好きです。
きっと満ち足りた一生を送ったのだろうと、まあ本当のところは分からないですが、何となくそんな風に思い、かつ憧れます。
きっと満ち足りた一生を送ったのだろうと、まあ本当のところは分からないですが、何となくそんな風に思い、かつ憧れます。
コメント
_ S.U ― 2016年11月13日 08時51分24秒
_ 玉青 ― 2016年11月13日 13時23分48秒
「おーい、S.Uさんにお茶を差し上げて。それと栗羊羹があったろう。」(笑)
まあ、この件で私が何かものを言えるとも思えず、偽らざるところを言えば、私はまだ動物・植物の2界説(あるいは鉱物を加えて3界説)の世界に生きていて、それで日常不都合は感じないので、感覚的に「菌類」は依然として植物のままです(菌は草かんむりですしね)。
とはいえ、改めて考えると、2界説の背後に強固にあるのは、「人間中心主義」、つまり人間の眼に触れる世界、人間と相互作用する世界だけが「世界」なんだ…という、歴史的に普遍的な認識パターンだったことに気づきます。
その後、2界説がほころび、5界説が広まり、今やそれすらも否定されて、「生物」の捉え方は本当に自由になりました。その中では、ヒトも、ミミズも、タンポポも、シイタケも、アメーバも、系統樹の隅っこに押し合いへし合いして肩を並べる「ごく近縁の仲間」となって、それとは対照的に、膨大な量の細菌と古細菌が「生物のバラエティ」の大部分を占めるようになりました。(こうなると、キノコとミドリムシどころか、ヒトもネズミもひっくるめて全部「菌類」と呼んでも差し支えないぐらいの感じです。)
これこそ生物学におけるコペルニクス革命であり、もっと言えば、人類がダークマターやダークエネルギーの存在に気づいたことに匹敵する事象なのかもしれませんね。
まあ、この件で私が何かものを言えるとも思えず、偽らざるところを言えば、私はまだ動物・植物の2界説(あるいは鉱物を加えて3界説)の世界に生きていて、それで日常不都合は感じないので、感覚的に「菌類」は依然として植物のままです(菌は草かんむりですしね)。
とはいえ、改めて考えると、2界説の背後に強固にあるのは、「人間中心主義」、つまり人間の眼に触れる世界、人間と相互作用する世界だけが「世界」なんだ…という、歴史的に普遍的な認識パターンだったことに気づきます。
その後、2界説がほころび、5界説が広まり、今やそれすらも否定されて、「生物」の捉え方は本当に自由になりました。その中では、ヒトも、ミミズも、タンポポも、シイタケも、アメーバも、系統樹の隅っこに押し合いへし合いして肩を並べる「ごく近縁の仲間」となって、それとは対照的に、膨大な量の細菌と古細菌が「生物のバラエティ」の大部分を占めるようになりました。(こうなると、キノコとミドリムシどころか、ヒトもネズミもひっくるめて全部「菌類」と呼んでも差し支えないぐらいの感じです。)
これこそ生物学におけるコペルニクス革命であり、もっと言えば、人類がダークマターやダークエネルギーの存在に気づいたことに匹敵する事象なのかもしれませんね。
_ S.U ― 2016年11月14日 21時47分48秒
ご教示たいへんありがとうございました。それから好物の栗羊羹まで・・・(笑)
実は私も植物図鑑でキノコを見た子どもの頃の2界説から進歩しておらず、しかも、その図鑑には細菌類(バクテリア)も載っていましたので、菌類と細菌類は近い(かつどちらも植物)のかな、と勝手に思っていた次第です。そろそろ5界説を学ばねばならないかと思っておったのですが、もはやこれも古いとは・・・いやはや、手間が省けてありがたいばかりです。
ヒトもネズミもほぼ菌類というのは味気ないようではありますが、本質的には真理なのかもしれません。そういやタルホ先生も人間を魚臭い一夜茸に喩えていました(鉱物との比較での上のことですが)。
生物分類学でも素粒子物理学でも、世界の中の目に見えない部分が全世界を量的に圧倒しているということを知ることは、おっしゃるように画期的な人類の進歩であると思います。実に良いことです。人間の立つエリアが狭くなり、また、最近見つかった広い世界が何の役に立つのだ、と言われて答えに窮しますが、おそらくはこれらの見えない世界が宇宙の初めから現代に至るまでの間のどこかで今日の人間の発生~存在に決定的に寄与したことは間違いないでしょう。それを尋ねることができるようになったのはどれほど有意義なことかしれません。
実は私も植物図鑑でキノコを見た子どもの頃の2界説から進歩しておらず、しかも、その図鑑には細菌類(バクテリア)も載っていましたので、菌類と細菌類は近い(かつどちらも植物)のかな、と勝手に思っていた次第です。そろそろ5界説を学ばねばならないかと思っておったのですが、もはやこれも古いとは・・・いやはや、手間が省けてありがたいばかりです。
ヒトもネズミもほぼ菌類というのは味気ないようではありますが、本質的には真理なのかもしれません。そういやタルホ先生も人間を魚臭い一夜茸に喩えていました(鉱物との比較での上のことですが)。
生物分類学でも素粒子物理学でも、世界の中の目に見えない部分が全世界を量的に圧倒しているということを知ることは、おっしゃるように画期的な人類の進歩であると思います。実に良いことです。人間の立つエリアが狭くなり、また、最近見つかった広い世界が何の役に立つのだ、と言われて答えに窮しますが、おそらくはこれらの見えない世界が宇宙の初めから現代に至るまでの間のどこかで今日の人間の発生~存在に決定的に寄与したことは間違いないでしょう。それを尋ねることができるようになったのはどれほど有意義なことかしれません。
_ 玉青 ― 2016年11月15日 20時40分47秒
科学の歴史は、認識の相対化の歴史ともいえますね。
これはある意味、仏の悟道とパラレルなものと思いますが、科学による相対化の道は、我々をどんな世界に導いてくれるのでしょう。最後に相対化しきれない何かが残るのか、それとも全ては空無…ということになるのか。その帰趨を見届けられないのが、いかにも残念です。
これはある意味、仏の悟道とパラレルなものと思いますが、科学による相対化の道は、我々をどんな世界に導いてくれるのでしょう。最後に相対化しきれない何かが残るのか、それとも全ては空無…ということになるのか。その帰趨を見届けられないのが、いかにも残念です。
_ S.U ― 2016年11月16日 18時30分19秒
現代科学がいずれ「悟道」の極致に達することができるかどうかはわかりませんが、当面は「求道」と「布教」を楽しむことにいたしたいと思います。
コメントをどうぞ
※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。
また「菌類」と言っても「細菌類」(バクテリア)とは違うものだということも聞きます。でも、菌類たる所以の胞子とキノコの対応は、単細胞で機能し、かつ集団でも機能する原生生物(プランクトンなど)を経てバクテリアにつながっているように思います。でも、なぜか中間のプランクトンは菌類と呼ばないのは不思議です。これら全体を菌類と名乗らせて悪いのでしょうか。
このへんのモヤモヤは遺伝学や分子生物学だけでは解明できず、「文化的生物分類学」の観点に基づくものでしょうが、ひと言でモヤモヤを片付けようとするとどういうことになるのでしょうか。(いつも妙な質問でご迷惑をおかけします。玉青さんほど広い公平な立場からお答えをいただける人はいないと思っていますのでご容赦下さい。)