至宝の秘密 ― 2016年11月28日 06時25分08秒
(昨日のつづき)
さらにページをめくると、冒頭の星図に続き、ひたすら美麗な図版が続きます。
「LATITVDO SATVRNI」、すなわち「土星の(天球座標上での)緯度」を計算するための回転盤…らしいのですが、詳しい使い方は不明。昨日も書いたように、本複製には別冊の解説書が付属しており、そちらを読むと、個々の図版の詳しい用法が分かると思うのですが、まだじっくり読んだことはありません。
中には、こんなふうに見開きで2つの図が並んでいるところもあります。
左側はタイトルページにも登場したドラゴン。
左側はタイトルページにも登場したドラゴン。
『誰も読まなかったコペルニクス』の中で、著者ギンガリッチ博士が、「一番複雑に組み合わされたボルベルは7層に重なり、プトレマイオス説の周転円の理論をシミュレーションして水星の経度を見つけるという、アナログコンピュータの機能をもっていた。」と書いていたのが、これだと思います。
いくつもの紙製パーツが紐でページに留めらられて、互いにクルクルと動きます。非常に手の込んだ作です。
「しかし」と、ギンガリッチ氏は続けます。
「しかし残念なことにこの本は、印刷は見事だが可動部分の組み立てがお粗末きわまりなく、ボルベルのなかには、間違ったページに取りつけられたものや、糊で貼りつけられたためにうまく動かないものがあった。私は《ジャーナル・フォー・ザ・ヒストリー・オブ・アストロノミー》誌上で、この組み立てのひどさを訴えた。すると、しばらくしてエディツイオン・ライプツィヒ社は、専門的な意見を求めて私を東ドイツに招待した。」 (邦訳p.210)
これぞ「至宝の秘密」。この複製が完璧に見えて、実は完璧でない点です。
『誰も読まなかったコペルニクス』の本文には、この箇所にさらに註がついていて、巻末の註を読むと、そこに事の顛末がこう記されていました。
『誰も読まなかったコペルニクス』の本文には、この箇所にさらに註がついていて、巻末の註を読むと、そこに事の顛末がこう記されていました。
「エディツイオン・ライプツィヒは『皇帝天文学』の修理用キットを印刷することに同意してくれたが、本を買った側に、このような改善の必要性に気づく人があまりいなかったために、このプロジェクトは取りやめになった。そのとき以来、私は中止になった修理プロジェクトのカラー校正刷りを使って、10冊以上の本を直した。1冊を修理するのに、普通で8時間近くかかった。それ以外にも、本の持ち主たちに10組以上の修理キットを配った。」 (邦訳p.352)
まめな人ですね。ギンガリッチ氏は、この修理キットをその後も長く手元に置いていたらしく、わりと最近も(2~3年前?)、希望者にこのキットを進呈する旨、メーリングリストでアナウンスしていた記憶があります。譲ってもらえばよかったかな…と思う反面、とても8時間かけて正確に修理する自信はありませんし、失敗したら元も子もありませんから、これはやめておいて正解です。
まあ、いずれにしても「至宝」は“使ってなんぼ”ではなく、恭しく拝んでこそのもの。「このような改善の必要性に気づく人があまりいなかった」のもむべなるかな、です。(アピアヌスの意気込みはそれとして、きっと献じられたカール5世だって、「ふーん」と眺めたぐらいで、この本を真面目に使ったりはしなかったんじゃないでしょうか。)
★
以下、おまけ。
前の記事で書いたように、東京三鷹の国立天文台の図書室にはこの複製本があって、開館時には誰でも閲覧できます。図書室の利用方法も含めて、以下のページにその紹介がありました。
前の記事で書いたように、東京三鷹の国立天文台の図書室にはこの複製本があって、開館時には誰でも閲覧できます。図書室の利用方法も含めて、以下のページにその紹介がありました。
コメント
_ S.U ― 2016年11月29日 07時53分17秒
_ 玉青 ― 2016年12月03日 14時05分21秒
>実用
思うに16世紀には(前世紀に比べて大いに一般化したとえはいえ)まだまだ、本はおしなべて高価な物であり、(安手で下直な)「実用書」という観念は生まれてなかったかもしれないですね。ましてや単なる紙束ではない、細工を凝らした本となれば、一層価値を持ち得た…ということかもしれません。
正多面体が5種類しかないのは、いってみれば我々が住む宇宙の性質に由来する「偶然」に過ぎないと、素人の感想としては思いますけれど、「偶然」にしても随分厳然とした偶然ですよね。何せたった5つしか存在できないのですから、相当きつい縛りです。こうなると、何か「必然」の香りがしてきて、神様を持ち出したり、人間原理を担ぎ出したり…ということになるのでしょうね。
おそらく、ここから先は「偶然」とか「必然」という概念を鍛え直さないと、なかなか議論も難しくなってくるでしょうが、こういうのは物理学徒のように「生身」の対象を相手にする学問だから悩むのであって、数学者の方とかは、あまりそういう悩みを抱かずに済むものなのでしょうか。でも、数の世界にもいろいろ不思議な偶然があるようですから、数学者も「なぜ?」を問いたくなったり、ときには数の神様を祀ったり、人間原理に類する主張を唱えたりしたくなることもあるのかなあ…と、例によって要領を得ませんが、いろいろ思い悩みます。
思うに16世紀には(前世紀に比べて大いに一般化したとえはいえ)まだまだ、本はおしなべて高価な物であり、(安手で下直な)「実用書」という観念は生まれてなかったかもしれないですね。ましてや単なる紙束ではない、細工を凝らした本となれば、一層価値を持ち得た…ということかもしれません。
正多面体が5種類しかないのは、いってみれば我々が住む宇宙の性質に由来する「偶然」に過ぎないと、素人の感想としては思いますけれど、「偶然」にしても随分厳然とした偶然ですよね。何せたった5つしか存在できないのですから、相当きつい縛りです。こうなると、何か「必然」の香りがしてきて、神様を持ち出したり、人間原理を担ぎ出したり…ということになるのでしょうね。
おそらく、ここから先は「偶然」とか「必然」という概念を鍛え直さないと、なかなか議論も難しくなってくるでしょうが、こういうのは物理学徒のように「生身」の対象を相手にする学問だから悩むのであって、数学者の方とかは、あまりそういう悩みを抱かずに済むものなのでしょうか。でも、数の世界にもいろいろ不思議な偶然があるようですから、数学者も「なぜ?」を問いたくなったり、ときには数の神様を祀ったり、人間原理に類する主張を唱えたりしたくなることもあるのかなあ…と、例によって要領を得ませんが、いろいろ思い悩みます。
_ S.U ― 2016年12月04日 08時17分37秒
>思うに16世紀には~まだまだ、本はおしなべて高価な物
あぁ、そうでしょうね。これは現代の視点に拘りすぎたかもしれません。当時は本自体がそもそも本質的に装飾品、贅沢品だったでしょう。例えば、暦書、工学書などの実用書を携えることは長期の航海では必須になったでしょうが(陸路の旅では本を読みながらという余裕もなかったでしょう)、16世紀の航海はまだ冒険の時代であったが17世紀以降は実用書を携えるビジネス旅行の時代になったと言え、実用書もそれに沿って生じたといえるかもしれないと思います。
>「偶然」とか「必然」という概念を鍛え直さないと、・・・
以下は私の乏しい経験からの個人的な感想ですが、これからの(素粒子・宇宙)物理学の成果を評価するには、こういうことは必須のように思います。我々は、現在、必然的に唯一無二の帰趨を導く法則を追求しているのか、それとも偶然の産物の状況を記述しているのか、によって学問の本質はさておいても気持ち的には「神学」と「博物学」くらいの差が生じるように思います。
「偶然」、「必然」というのは、現代では数学になじむ概念で、情報量で定義できそうに思います。「必然」というのはより本質的に少ない情報量(法則を記述する文字数)で複雑な事象が演繹できることを意味し、「偶然」とはその現象を記述するのと同等の情報量をもって初めてその現象の由縁を説明できるような現象(いわゆる「カオス」の結果)と言えるのではないかと思います。例えば、真空中での砲弾の運動はニュートンの法則を含む十数行程度の計算機プログラムで再現できますが、空気中の紙片の運動や天気予報のシミュレーションにおいては、スーパーコンピュータに膨大なメモリーをアロケートしてプログラムに何億回というループを回すことが要求されるでしょう。
数学は、いずれにしても「演繹」と「帰納」で他からのインプットなしにおしなべて片付くはずですが、「偶然」「必然」の差がある対象を人間が筋道を建てて糾明していく以上、数学者においても神学的な過程もあれば博物学的な過程もあり、神様を祀ることもあれば、人間原理に逃げることもあるのではないでしょうか。
あぁ、そうでしょうね。これは現代の視点に拘りすぎたかもしれません。当時は本自体がそもそも本質的に装飾品、贅沢品だったでしょう。例えば、暦書、工学書などの実用書を携えることは長期の航海では必須になったでしょうが(陸路の旅では本を読みながらという余裕もなかったでしょう)、16世紀の航海はまだ冒険の時代であったが17世紀以降は実用書を携えるビジネス旅行の時代になったと言え、実用書もそれに沿って生じたといえるかもしれないと思います。
>「偶然」とか「必然」という概念を鍛え直さないと、・・・
以下は私の乏しい経験からの個人的な感想ですが、これからの(素粒子・宇宙)物理学の成果を評価するには、こういうことは必須のように思います。我々は、現在、必然的に唯一無二の帰趨を導く法則を追求しているのか、それとも偶然の産物の状況を記述しているのか、によって学問の本質はさておいても気持ち的には「神学」と「博物学」くらいの差が生じるように思います。
「偶然」、「必然」というのは、現代では数学になじむ概念で、情報量で定義できそうに思います。「必然」というのはより本質的に少ない情報量(法則を記述する文字数)で複雑な事象が演繹できることを意味し、「偶然」とはその現象を記述するのと同等の情報量をもって初めてその現象の由縁を説明できるような現象(いわゆる「カオス」の結果)と言えるのではないかと思います。例えば、真空中での砲弾の運動はニュートンの法則を含む十数行程度の計算機プログラムで再現できますが、空気中の紙片の運動や天気予報のシミュレーションにおいては、スーパーコンピュータに膨大なメモリーをアロケートしてプログラムに何億回というループを回すことが要求されるでしょう。
数学は、いずれにしても「演繹」と「帰納」で他からのインプットなしにおしなべて片付くはずですが、「偶然」「必然」の差がある対象を人間が筋道を建てて糾明していく以上、数学者においても神学的な過程もあれば博物学的な過程もあり、神様を祀ることもあれば、人間原理に逃げることもあるのではないでしょうか。
_ 玉青 ― 2016年12月04日 10時57分20秒
「必然」と「偶然」の区別は、結局、定義の問題さ…という人もきっといると思うんですが(そしてまた事実その通りなのでしょうけれど)、でも人の心は、それだけでは満足できないものが残りますよね。神様の出番がなかなかなくならい所以でしょう。
ときに数の世界については、一つ思い出があって、「数学セミナー」の1982年に出た増刊号のタイトルが「数の世界」でした。そこに収められた論説のうち、冒頭の2つのタイトルがそれぞれ「数とは何か」と「数はほんとうに「ある」のか」というもので、この冊子を手にした私は浪人生だったはずですが、受験勉強の手を休めて、しばし空を睨んだのでした(睨んだだけで終わりましたが・笑)。
「数の世界は人がいなくても存在するのか」とか、「数の世界は「どこ」にあるのか」とか、そういう答のない問い(あえて言えば無意味な問い)に、私は今でもしばしば立ち返ります。そして数の世界のみならず、この現実の物理世界や、人の心の世界についても同じことを時々考えます。まあ金もかかりませんし、余暇の過ごし方としては罪のない部類だろうと思っています。(そんなことに、その筋の専門家であるS.Uさんにお付き合いいただき、有難いような、勿体ないような気がしています。どうぞ適当にあしらってください。)
ときに数の世界については、一つ思い出があって、「数学セミナー」の1982年に出た増刊号のタイトルが「数の世界」でした。そこに収められた論説のうち、冒頭の2つのタイトルがそれぞれ「数とは何か」と「数はほんとうに「ある」のか」というもので、この冊子を手にした私は浪人生だったはずですが、受験勉強の手を休めて、しばし空を睨んだのでした(睨んだだけで終わりましたが・笑)。
「数の世界は人がいなくても存在するのか」とか、「数の世界は「どこ」にあるのか」とか、そういう答のない問い(あえて言えば無意味な問い)に、私は今でもしばしば立ち返ります。そして数の世界のみならず、この現実の物理世界や、人の心の世界についても同じことを時々考えます。まあ金もかかりませんし、余暇の過ごし方としては罪のない部類だろうと思っています。(そんなことに、その筋の専門家であるS.Uさんにお付き合いいただき、有難いような、勿体ないような気がしています。どうぞ適当にあしらってください。)
_ S.U ― 2016年12月04日 17時09分26秒
>数はほんとうに「ある」のか
どうなんでしょうね。自然数は宇宙の中にあるが、複素数は観念のうちにしかなく自然界に投影されているにすぎない、という考えを取る人もあるでしょうから、明瞭な答えを得るのは難しく、さりとてまったく意味のない問いであるともいえないように思います。
>その筋の専門家
大した専門家でもないのですが、日本語、日本の文化、歴史や日本人の心理・心情についての論評は日本人を何十年かやってきた人にとっては誰にでも一家言があって人文学者の専売でないように、宇宙や数の本質についても誰もが一家言を披露して下さるようになれば専門家にとってもすばらしい環境になるように思います。
どうなんでしょうね。自然数は宇宙の中にあるが、複素数は観念のうちにしかなく自然界に投影されているにすぎない、という考えを取る人もあるでしょうから、明瞭な答えを得るのは難しく、さりとてまったく意味のない問いであるともいえないように思います。
>その筋の専門家
大した専門家でもないのですが、日本語、日本の文化、歴史や日本人の心理・心情についての論評は日本人を何十年かやってきた人にとっては誰にでも一家言があって人文学者の専売でないように、宇宙や数の本質についても誰もが一家言を披露して下さるようになれば専門家にとってもすばらしい環境になるように思います。
_ 玉青 ― 2016年12月06日 11時59分36秒
これはありがたいお言葉。
それではこれまでにも増して、一家言も二家言も開陳させていただくことにしましょう。引き続きどうぞよろしくお願いいたします。(^J^)
それではこれまでにも増して、一家言も二家言も開陳させていただくことにしましょう。引き続きどうぞよろしくお願いいたします。(^J^)
コメントをどうぞ
※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。
こういう美麗な装飾的な本で、実用的な可動部分があるというのはどういうことなんでしょうか。現代的に考えると、装飾的な本と実用的な本は造りを変えて別冊子にするのが合理的なのだと思いますが、当時はもっと深い考えがあって、とにかく実用価値はさておき「動く」という機能自体が装飾の付加価値だったのでしょうか。
ここで、ちょっと、前回以前に登場しました「多面体」の話題に脱線いたします。
以前にも書いたことがあるかもしれませんが、この本にもイラストが出てくる昔の天文学における「多面体」は、宇宙を相対化した後の究極の根元のパラメータを純粋な数学に突き詰めるための努力の走りであると思います。今日の素粒子理論における群論の利用と同じようなものと言えるでしょう。(将来の素粒子理論が自由なパラメータを排除できるようになるかどうかはわかりませんが)。
しかし、それでも、多面体が何種類あるというのは、空間が3次元であるからこそ言えることで、3次元でない空間まで許すとどえらいややこしい話になります。現代の素粒子論も、結局は、現実の宇宙に合う数学的構造を後から選んでいるだけとも言えると思います。なぜ現実の空間が3次元なのかと問われると、その根拠の説明はなかなかとっかかりすら困難で、ついつい人間原理に逃げてしまいそうです。