日本のグランドアマチュア天文家(5)2017年03月16日 22時57分18秒

萑部氏自身のことは不明ですが、萑部氏が所有していた望遠鏡(あるいは反射鏡)については、前々回も引用したように、戦後、横浜で開催された博覧会に出品された…という情報があります。

 「萑部夫妻は10吋反射(赤),6吋屈折(赤)などを持ち、〔…〕その他に18吋・リンスコット反射鏡(未組立品)を持っており,これは戦後横浜市で開かれた産業貿易博覧会に出品された。」 (『正編』、p.319)

さらに『続編』には、

 「兵庫県の萑部進は26cm反射を1933年に購入した。架台は西村のドイツ式赤道儀で、後にリンスコットの46cm反射を輸入し換装、15cmのレイの屈折が同架された。この望遠鏡は戦後初の博覧会である横浜野毛山の平和博覧会に出品され、横浜市に移管、現在は横浜学院にある。」 (『続編』、p.282-3)

とも書かれています(筆者は冨田弘一郎氏)。

後者の記述によれば、萑部氏の「六甲星見台」のメイン機材は、木辺氏が手がけた例の26cm反射鏡から、元々手元にあった46cmリンスコット製反射鏡に置き換えられたというのですが、戦況の緊迫する時期にあって、それが出来たとは到底思えないので、これは「後に…輸入し」というのと併せて、誤伝でしょう。46cm鏡は、『正編』の記述のとおり、望遠鏡未満の単品の状態で手元に留め置かれたものと思います。

   ★

その巨大な反射鏡が、戦後、横浜で開催された博覧会(正式名称は「日本貿易博覧会」。会期は、昭和24年(1949)3月15日~6月15日)に出品された…というのも、何だか茫洋とした話ですが、この件については、天文古書の販売で有名な「いるか書房」さんが、詳しく調べて記事にされています。

昭和24年 日本貿易博覧会 望遠鏡の絵葉書
 (※2020.4.7、青木茂樹氏のご教示により、リンク先を修正しました。)

ここでも諸説紛々、関係者の証言は互いに矛盾・錯綜しているものの、それらを取捨して、ある程度蓋然性のあるストーリーを組み立てると、横浜の博覧会に展示されたのは、たしかに萑部氏の望遠鏡であり、その前後の事情は以下のように想像されます。

すなわち、

○萑部氏は戦後、自機一式(26cm反射望遠鏡、同架の15cm屈折望遠鏡、西村製架台、そして46cm反射鏡)を、すべて手放すことにした。
○ちょうど博覧会の準備を進めていた横浜市が、それを購入。
○横浜市は、五藤光学に望遠鏡のレストアを依頼。
○五藤光学は46cm用鏡筒を新たに製作し、26cm望遠鏡と換装。
○こうして、旧蔵者の萑部氏が待ち焦がれた46cm望遠鏡がついに完成した。

…という筋書きです。

これは、博覧会の絵葉書に写っている望遠鏡(いるか書房さんの上記ページ参照)と、木辺氏の記事に載っている望遠鏡の架台(ピラー)の形状がよく似ていると同時に、望遠鏡本体は明らかに大型化しているという、至極単純な理由に基づく想像なので、全然違っているかもしれませんが、でも、あり得ないことではないでしょう。

   ★

この望遠鏡と、それを収めた「天文館」は、博覧会終了後も、そのまま公共天文台としてアマチュアにも開放されていたようですが、望遠鏡の方は後に横浜学園(上で引用した冨田氏は「横浜学院」と書いていますが、これは横浜学園が正しい由)に譲られ、今も同校にあるそうです。

上の推測が正しくて、戦前のグランドアマチュアの残り香が、かすかに浜風に乗って漂っているのだとしたら、ちょっと嬉しい気がします。


【付記】

いるか書房さんが引用されている諸々の記事の中には、横浜に伝わった望遠鏡を「英国トムキンス製」とするものがあります。また、萑部氏が輸入した鏡面は、同じ英国の「リンスコット製」だと伝えられます。このトムキンスにしろ、リンスコットにしろ、あまり聞き慣れないメーカーなので、以下にちょっと確認しておきます。

   ★

まず、「英国トムキンス」というのは、誤伝ではないでしょうか。
いるか書房さんも言及されていますが、トムキンスというのは、戦前を代表する大型望遠鏡である、京大の生駒山天文台の60cm反射望遠鏡の製作者として知られ、「大型望遠鏡といえばトムキンス」というイメージから、どこかで話が混線したように思います。そもそもトムキンスはイギリスではなくアメリカの人です。

下の大阪朝日の記事は、「アメリカのアマチュア天文学徒トムキンス氏」と記しており、その伝は未詳ですが、専業メーカーではなく、当時アメリカで熱を帯びていたATM(Amateur Telescope Making)、すなわち熱心な鏡面自作マニアの一人でしょう。なお、この60cm望遠鏡は、1972年、生駒山太陽観測所の閉鎖とともに飛騨天文台に移され、今も現役です。

2017年4月8日付記: 生駒から飛騨に移設された60cm反射望遠鏡は、トムキンス望遠鏡とは別の望遠鏡であることを、コメント欄でご教示いただきました。ここに訂正しておきます。詳細はコメント欄をご覧ください。】

大阪朝日新聞 1940.5.17 (神戸大学 新聞記事文庫)

   ★

一方、リンスコットというのは、イギリスの有名な鏡面製作者ウィズ(George Henry With、1827-1904)が引退して商売をたたんだ後、その用具一式を買い取って、鏡面製作に励んだ J. Linscott のことだと思います。ドーバー海峡沿いのラムズゲートの町で、鏡面作りを商売にしたリンスコットのことは、「Journal of the British Astronomical Association」に載った下記論文の巻末註9にチラッと出ています。

■Jeremy Shears: The controversial pen of Edwin Holmes.


コメント

_ S.U ― 2017年03月17日 21時15分10秒

これはなかなかスケールの大きな話ですね。
終戦前後となりますと、46cmというのは国内最大級の大きさではないでしょうか。それをアマチュアの人が売りに出されたとなると相当希有なケースのように思います。

 戦後、国内有数の大口径を保有されていた(現在も引き続き保有されていますが)アマチュアの方といいますと、和歌山県で田阪氏が1960~70年代に50~70cm級を自作されたのが印象的でした。自作と輸入は大きく異なりますが、グランド・アマチュアの伝統は戦前からあったのですね。

_ 玉青 ― 2017年03月19日 09時43分48秒

46cmは今でも十分大きいですよね。ましてや昔は、目をむくようなサイズに感じられたことでしょう。でも、上に引用させていただいた「いるか書房」さんの記事によれば、この46cm望遠鏡は「老朽化が進み現在は使用不可能」だそうで、その点がちょっと気がかりです。ぜひ元気な姿で復活し、戦前のグランドアマチュアの息吹を、後世に伝えていってほしいと思います。

_ 通りすがり ― 2017年04月02日 18時07分05秒

飛騨天文台の60cmは、木辺鏡です。
元は花山天文台に津上製作所が設置したものです。多分1960年ごろです。その後飛騨に移設されました。
生駒天文台の60cmは、天文台閉鎖と共に「生駒宇宙科学館」に展示されておりました。その後、この科学館は、長らく廃墟となっていましたが、取り壊されました。このトムキンス鏡及び望遠鏡は、行方不明です。

_ 玉青 ― 2017年04月08日 12時44分02秒

通りすがりさま、ご教示ありがとうございました。
私は、花山天文台のサイト(https://www.kwasan.kyoto-u.ac.jp/general/history/)に、

「1968年11月 飛騨天文台設立〔…〕60cm反射望遠鏡を花山天文台より移設、開所式挙行」

と書かれているのを見て、すっかりこれはトムキンス鏡のことだと思い込んでしまったのですが、別ページ(https://www.kwasan.kyoto-u.ac.jp/general/facilities/60cm/)には、

「60cm反射望遠鏡は昭和35年(1960年)に完成しました。当初は花山天文台に設置されていましたが、昭和43年(1968年)に飛騨天文台の開台とともに、飛騨天文台の最初の望遠鏡として移設されました。」

と明記されていました。サイズは同じでも、両者はまったく別物だったのですね。取り急ぎ、本文にも注記しました。

今後ともどうぞよろしくお願いいたします。

_ 通りすがりことふーさん ― 2017年04月15日 23時33分37秒

最近「ふーさんの天文日記」というブログを解説しました。
検索で出て来ます。
チョット古い情報を掲載しております。「花山の木辺鏡」の初代の写真や昔のクック30cm屈折など、載せています。
古い天文マニアです

_ 玉青 ― 2017年04月16日 18時08分42秒

ご紹介ありがとうございます。
「ふーさんの天文日記」拝見しました。
ふーさんは、あれらの光景をすべてリアルタイムでご覧になったのですね!
戦後の天文趣味の歴史のうち、私が実際に見聞したのは、その端っこの方だけで、あとは文字を通じて知るだけですから、何となく遠い憧れの世界のように感じます。それを今こうしてネット上で、同時代の証言として読めるというのが嬉しくもあり、同時にとても不思議な感じがします。貴重なお話を伺えるのを、今後も楽しみにしております。

_ ふーさん ― 2017年04月17日 21時41分09秒

玉青さん
今ブログ制作にはまっています。古希を過ぎて、体力も落ちて来ています。昔のように遠征して星を見たりは、なかかかできません。
このブログの写真は、殆どが自身で撮って現像(これも死語ですが)した写真です。記憶が次々蘇って、まだボケてない・・・と思っています。
まだまだ色々な場所や写真が有りますので、たまにはブログを見てください。でも改めて、昔の写真を見ると、よくぞ色々な所へ行ったものだと思います。もちろん子供でしたので、電車バスを乗り継いでの行動でした。

今は無くなってしまった設備など、自身懐かしい思いです

_ 玉青 ― 2017年04月18日 23時14分40秒

ありがとうございます。
私も最近は目の衰えが著しく、星を見る楽しみからすっかり遠ざかってしまっていますが、かつて目に焼付けた星の姿は、今も記憶の中に鮮やかです。記憶とは本当に不思議なものですね。
素敵なエピソードを拝読しに、今後も「天文日記」を、ぜひ訪問させていただきます。(今しがたも再訪し、自作プラネタリウムの記事に一瞬声を失いました。すごい!これは、いずれ拙ブログでもご紹介いたしたく、どうぞよろしくお願いいたします。)

_ くろがね ― 2017年10月07日 13時18分19秒

横浜市から委託を受けて 五藤光学で整備完了試運転中の
写真が、天文と気象 昭和24年5月号に出ております。
脇を走る玉電の電車もちょっぴり写ってます^^

村山定男先生も鏡を見せてもらったことがあったそうですが、
口径の割に薄い鏡だったと言われてました。

_ 玉青 ― 2017年10月08日 08時48分30秒

ご教示ありがとうございます。
「天文と気象」と聞いて、すぐに手元の古い号を見てみたのですが、あにはからんや、昭和24年分は「3・4月合併号」の次はすぐ8月号に飛んでいて、見ることができませんでした。まことに残念。。。でも、村山先生のお名前を目にして、例の鏡が一層身近に感じられて嬉しかったです。

_ ガラクマ ― 2017年12月07日 07時25分25秒

 お久しぶりです。実は現物を最近拝見したことがございます。
埃の中に埋もれながら、重錘式ドライブ装置もそのまま、西村なら銘板があるかと探しましたがございませんでした。

_ 玉青 ― 2017年12月07日 22時21分29秒

さすがは…と申すもさらなりという感じですが、実物をご覧になったのですね!
文字の向こうの歴史と眼前の現実がつながったような感じを、たった今味わいました。

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