空の旅(5)…イスラムの暦術書2017年04月18日 23時02分49秒

さて、これまでのところは、カタラン・アトラスから始まって、天文石板、アストロラーベと、みんな複製品でした。天文アンティークも、時代をさかのぼるとなかなか本物を手にすることは困難です。

簡単に手に入るのは、ここでもやっぱり紙物で、今回はこんなものも並べました。

(紙片のサイズは約22.5×18cm)

傍らのプレートの説明は、以下の通り。

 「イスラム暦術書の零葉 「1725年、北アフリカのイスラム世界で編纂された暦書の一頁。太陽・月・惑星の位置を計算するためのパラメーターをまとめたもの。こうした天文表の歴史は非常に長く、イスラム以前のササン朝ペルシアの頃から、各種作られてきました。」

何となくもっともらしく書いていますが、これは売り手(フロリダの写本専門業者)の説明と、ネット情報を切り貼りした、完全な知ったかぶりに過ぎません。
私にその当否を知る術はなく、そもそも写真の上下の向きがこれで合っているのか、それすらも自信がありません。それでも、これが天文表の一部であることは、その体裁から明らかでしょう。

(裏面も同様の表が続きます)

この種の天文表を、イスラム世界では「Zij」――この名称は織物の「縦糸と横糸」に由来する由――と称し、説明プレートにも書いたように、これまで多くのZijが作られてきました…というのも、さっき英語版wikipediaの「Zij」の項を見て知ったことです(https://en.wikipedia.org/wiki/Zij)。

(インクには膠(にかわ)質の成分がまざっているのか、角度によりポッテリと光って見えます)

18世紀といえば、すでに西洋の天文学が、近代科学として確立した後の時代ですから、今さらイスラム天文学の出番でもなかろうとも思うのですが、ちょっと想像力を働かせれば、この1枚の紙片の向うに、古のイスラム科学の黄金時代が鮮やかに浮かび上がる…ような気がしなくもありません。

(ページの隅に圧された刻印が、いかにもイスラム風)


(この項つづく)


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▼閑語(ブログ内ブログ)

ふと、今は幕末の世なのか…と思うことがあります。
その独断的な強権姿勢が、井伊直弼の姿を彷彿とさせるからです。
でも、眼前に見る奢り高ぶりや、浅ましい腐敗の横行を見ると、むしろ古の平清盛や、鎌倉を滅亡に導いた北条高時に、一層近いものを感じることもあります。

いずれにしても、勝手専横な振舞いや、強権腐敗は道義の退廃を招き、阿諛追従のみの愚かな取り巻き連中は、その主を守る力や気概を急速に失い、そうなると政権が自壊するのも時間の問題だ…というのが、歴史の教えるところです。

安倍氏も、せめて晩節だけは汚さぬよう、そして過去の権力者たちのような悲惨な最期を遂げぬよう(清盛は異常な高熱に斃れ、高時は自刃し、直弼は桜田門外の雪を朱に染めました)、よろしく身を処していただきたいと切に思います。

コメント

_ S.U ― 2017年04月19日 07時45分09秒

>イスラム暦術書
 イスラムの暦術についてはほとんど知識がなく、ものの本を読んでもほとんど目にすることはないのですが、こういういわゆるアラビアの天文学や化学は、商用などの実用のものだったのか、それとも彼らの自然哲学に基づくものだったのか、どうなのでしょうか。私の感覚では、イスラム教はどちらかというと科学にはニュートラルであって、案外、日本に近い(自然のすべてを自然一般として捉える)コンテクストで考えてよいのかなという気もしますが、どのようにお考えになりますか。

>幕末の世
 幕末と現代と違うのは、現代は、幕末にあった頽廃芸術や狂熱的騒動への民衆の支持がさかんでないことですね。この点からすると、1960代後半~70年代前半(昭和40年代)のほうが幕末的であったと思います。また、その時代には、汚職がさかんで冷戦の変遷があり高度成長も止まりましたが、日本が滅びることはありませんでした。現代の民衆はもっと大人しいですので、危ないです。

 確かに、現代の人たちは、為政者の腐敗に関してあきらめているのかもしれません。どうせ政治家はみな腐敗しているものなら、隠れて汚職するよりも、いっそ腐敗を積極的に利用し宣伝して活躍する政治家がマシであろう、という論理も成り立つかもしれません。辞任や自壊の時を待つのも一つの手ではありますが、時間がかかると諸方への迷惑限りないことになりますので、ここはひとつ民衆の手で引導を渡してやるのが賢策と愚考いたします。

_ 玉青 ― 2017年04月20日 07時09分31秒

私も全然くわしくないので、トンチンカンなお答になりますが…

イスラム世界における科学の在り様も、時代と国によって様々でしょうし、いつの世にも原理主義的な人はいると思いますが、総じていえばイスラムの方が、経験科学には寛容で、キリスト教の方がむしろ教条的な様相を帯びていた時期が長かったかもしれませんね。
神への信仰は、科学によって脅かされるようなヤワなものではない…と、腹が坐っていたとしたら、それは一つの見識であり、立派なものだと思います。

   +

今の人は羊のようにおとなしく、若い世代にそれは顕著ですが、こういうのは時とともに移ろうものですから、そのこと自体はあまり心配していません。たぶん、今の若い人が社会の中核に来たとき、その下のさらに若い人たちは、また別の価値観や行動様式を示すことでしょう。

ともあれ、今の自分は心の声にしたがって、思うところを為すのみです。

_ S.U ― 2017年04月20日 20時28分05秒

ありがとうございます。

 イスラム教信者には、お祈りの時刻や方角を示す「科学的」な道具や計算機アプリがあるそうで、そういう意味では信仰と科学は同居しているようです。お互い良いところにばかり目を向けるように努力すれば特に対立するものではないのかもしれません。(対立させようとすれば、対立するでしょう)

>自分は心の声にしたがって
 老人に喩えると失礼とは存じますが、頑固になって意を貫くのが老人の特権であり、長所であると言えるかもしれません。私は最近そうなってきました。だんだん嫌われることでしょう(笑)。

_ 玉青 ― 2017年04月22日 13時58分39秒

あはは。本当ですね。でも齢を重ねると、有難いことに、だんだん嫌われることも気にならなくなってくるので、私も大いに意を貫こうと思います。

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