空の旅(7)…インドの占星スクロール2017年04月22日 13時40分35秒

イスラム世界から、さらに東方に向い、今日はインドです。


このおそらくサンスクリット語で書かれた紙片は何かといえば、

「1844年、インドで書かれた星占いのスクロール(巻物)。個人の依頼に基づいて、占星師が作成したもの。」

という説明文が傍らに見えます。
幅は約15cm、広げると長さは2メートル近くになる長い巻物です(売ってくれたのはムンバイの業者)。


1844年といえば、インドがイギリスの植民地となって久しいですが、まだイギリスの保護国という形で、イスラム系のムガル帝国が辛うじて余命を保っていました。また、北方ではシク教徒のシク王国も頑張っており、そんな古い世界の余香を漂わせる品です。

そして、古いと言えば、インドにおける占星術の歴史そのものが、まことに古いです。
解説プレートは、上の一文に続けて、

 「古代ギリシャやオリエント世界の影響を強く受けて成立したインド占星術は、西洋占星術と共通の要素を持ちながらも独自の発展を遂げ、その一部は仏典とともに日本にも移入され、平安貴族に受け入れられました。」

…と書いていますが、この話題は「宿曜経(すくようきょう、しゅくようきょう)」について取り上げたときに、やや詳しく書きました。

「宿曜経」の話(3)…プトレマイオスがやってきた!

下は、上記の記事中で引用させていただいた、矢野道雄氏の『密教占星術―宿曜道とインド占星術』(東京美術、昭和61)から採った図です。


エジプト、ギリシア、バビロニアの古代文明が融合した「ヘレニズム文化」、それを受け継ぐササン朝や、イスラム世界の文化が、複数次にわたってインドに及び、もちろんインド自体も古代文明発祥の地ですから、独自の古い文化を持ち、その上にインド占星術は開花したことが、この図には描かれています。

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インドにおける占星術の興隆こそ、「空の旅」そのものです。

西暦紀元1世紀、地中海の商人は、紅海経由でインド洋に出ると、あとは貿易風に乗ってインドの西岸まで楽々と到達できることを学び、ここに地中海世界とインドを結ぶ海洋航路の発達を見ました。

以下、矢野道雄氏の『星占いの文化交流史』(勁草書房、2004)から引用させていただきます。

 「当時の海上交通の様子は無名の水先案内人が残した『エリュトゥラー海案内記』にいきいきと描かれている。西インドの重要な港のひとつとして「バリュガザ」(現在のバローチ)があり、その後背地として「オゼーネー」がにぎわっていた。後者はサンスクリット語ではウッジャイニー(現在はウッジャイン)とよばれ、アヴァンティ地方の都であった。のちに発達したインドの数理天文学では標準子午線はこの町を通るとみなす。つまり「インドにおけるグリニッジ」の役割を果たすことになる。」 (矢野上掲書p.64-5)

(画像を調整して再掲。ペルシャ湾をゆく船。14世紀のカタラン・アトラスより)

 「地中海とインド洋の交易がインドにもたらした文物の中にギリシアの天文学と占星術があった。インドでは古くから占いが盛んであり、星占いもそのひとつではあったが、数理的性格には乏しかった。古い星占いの中心は月であり、月が宿る二七または二八の星宿〔(原文ルビ)ナクシャトラ〕と月との位置関係によって占うだけであり、惑星についてはほとんど関心が向けられていなかった。

ところが新たに西方から伝えられたホロスコープ占星術は、誕生時の惑星の位置によって運命を占うという斬新なものであった。惑星の位置を計算するためには数理天文学の知識が必要であった。こうして占星術と共に数理天文学もヘレニズム世界からインドへと伝えられたのである。」 
(同p.65。途中改行は引用者)

(上下反対に撮ってしまいましたが、光の当たり方が不自然になるので、そのまま掲載します。下の写真も同じ。)

この円を組み合わせた曼荼羅のような模様。
ホロスコープとしては、見慣れないデザインですが、外周部(文字を書き込んだ部分)は12の区画から成っており、この区画が「十二宮」や「十二位」を意味し、そこに天体の位置が記してあるのでしょう。

同じデザインの図が、上から2番目の写真に写っていますが、よく見ると、文字(天体名)の配置が異なっており、両者が別々の日時のホロスコープであることを示しています。


これも、12枚の蓮弁模様から成り、ホロスコープの一種であることを示唆しています。

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この古ぼけた紙切れにも、天文学の知識がたどってきた旅の記憶がつまっており、想像力をたくましくすれば、19世紀インドの庶民の暮らしぶりから、さらに2000年さかのぼって、遠い昔の船乗りの威勢の良い掛け声や、波しぶきの音、そして占星師の厳かな託宣の声が聞こえてくるようです。