空の旅(8)…モンゴルの暦書2017年04月24日 21時33分38秒

「空の旅」を続けます。
インドからさらに東へ、そして北へと向かい、今日はモンゴルです。

   ★

ところで、モンゴルとインドの地理関係がぱっと思い描けますか?

インドはヒマラヤとカラコルムの大山脈で、アジアの中央と隔てられており、この「世界の屋根」を越えたところがチベットです。今は大部分が中国領チベット自治区。
そこから道を西北にとれば、タクラマカン砂漠を越え、新疆ウイグル自治区を経て、モンゴルへ。あるいはチベットから道を東北にとれば、青海省を抜け、ゴビの砂漠を越え、内モンゴル自治区を経て、やっぱりモンゴルへ―。

今もさまざまな民族が住み、かつてはさらに多くの民族が往還した、この山岳と高原と砂漠の果てしない広がり。中世にはそれを精強な蒙古軍が呑み込み、広大なモンゴル帝国が築かれました。

そんなわけで、インドから見れば遠いようで近い、でもやっぱり遥かなのがモンゴル。

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モンゴルは、今もチベット仏教との結びつきが濃いそうです。
天文学とどこまで結びつくのか、若干疑問なしとしませんが、そんなモンゴルの「星事情」の一端を示すのが下の品。例によって解説文も書き起こしておきます。


モンゴルの暦書」 「チベット仏教の影響が強いモンゴルで作られた木版の暦書。モンゴルで宗教弾圧が激化した1930年代以前のものと思われます。日の吉凶や運勢が細かく記された十二支図や暦の背後に、インドや中国の暦学・天文学の影響を窺うことができます。」

何だかもっともらしいですが、上の解説文はほとんど何も語ってないに等しいです。
そもそも、「インドや中国の暦学・天文学の影響」とは何を指すのか、漠然とし過ぎて、書いている方もよく分からず書いていることが明瞭です。まあ、「さっぱり分からないけど、きっと影響があるのだろうなあ」…というぐらいに思ってください。


「暦書」と書きましたが、これは綴じられた本の形態はとらず、横長の紙片の束になっています。冒頭の十二支占いの絵柄が愛らしい。

(撮影の向きが上下反対ですが、そのまま表示)

この辺が吉凶を示す暦らしく、カラフルな赤・黄・紫・緑のマス目は、きっと運勢の良し悪しを塗り分けてあるのでしょう。


こちらはさらに細かいマス目。上は7段12列を基本に、12列をさらに二分し(前半と後半?)、都合24列になっています。この数字は、七曜と12カ月(あるいは十二支または十二宮)と対応していることを想像させますが、詳細は不明。


文脈を考えれば、おそらく医占星術的な図でしょうか。
身体各部と十二宮を対応させて、星回りによって身体の健康を占う術は、これまたヘレニズム経由でインドに到達したものです。

(最後の頁に捺された朱印)

   ★

モンゴルの平原では、いかにも星がきれいに見えそうです。
でも、星にまつわる物語は意外に少なくて、いつもお世話になる出雲晶子さんの『星の文化史事典』に採録されているのは、わずかに2つだけ。その1つが「テングリ」の伝説です。

テングリ/モンゴルの天の神で創造神。運命を決める神で、モンゴルでは流星は天の裂け目から来て、その瞬間は天に願いごとをすることができるとされた。」 (出雲上掲書p.268)。

「流れ星に願い事をする」のは、汎世界的な民俗でしょうが、考えてみればずいぶん不思議な共通性です。ともあれ、モンゴルの星物語が、広い世界の中で他と関連しながら存在していることは確かで、その一部は仏教よりもさらに古い、人類の遠い記憶に由来するものかもしれません。


(ここでいったん西洋に話を戻し、この項もう少し続く)

コメント

_ S.U ― 2017年04月25日 06時56分21秒

 ご掲載の資料を拝見しますと、素人目にはインドともチベットとも区別がつかないように思います。占星術というとアジアの広い範囲でこういうものだったのでしょうか。これを世界観、宇宙観という意味で捉えて、モンゴルとチベットの人で同じだったのか違ったのか想像してみると、これまた違うような同じようなでわけがわかりません。(今日はどうもこういうわからんことが多いです(笑))

 モンゴルというと思い出されるのはやはり元朝時代で、井上靖の「蒼き狼」に書かれていた当時のモンゴルの信仰が風習に感銘を受けたものですが、その後読んでいないので忘れてしまいました。
 それから、天文学では郭守敬です。この人は河北省の出身でモンゴル人ではないようですが、授時暦はそれまでの中国暦と比べると傑出したもので、こういう学者を採用したということは、世界帝国の建設と合わせて、当時のモンゴル民族の上層部には、優れた科学的、合理的精神があったものと感じます。

_ 玉青 ― 2017年04月26日 23時10分33秒

私も分からずに書いていますが、チベット仏教(昔風に言えばラマ教ですね)は、モンゴル族以外にも、清朝を建てた満州族をはじめ、漢族以外の北方諸民族の間でなかなかの人気を誇ったようです。

で、モンゴルにおけるチベット仏教は、チベット本土のそれとほとんど変わらず、「チベット仏教のモンゴル的展開」なんていうのは無いんだ、とウィキペディア氏は教えてくれました。したがって、一見して区別がつかないのも道理で、そもそも区別がないみたいですね。

もちろんモンゴルにも、チベット仏教伝来以前、土着のシャーマニズム的信仰体系はあったはずですが、元来あまり抽象思考に重きを置かない集団のようなので、旧来の文化にはこだわらず、何となく良さそうなものがあれば、そちらを採り、それで不都合がなければ良しとする「硬派」な気風があったのでしょう。郭守敬の件についても、そんな匂いを感じます。

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