彗星の記事帖(4) ― 2017年05月15日 19時04分09秒
記事の中身を見る前に、ちょっと考えてみたいのですが、彗星と地上の災異の間には、何か関係がありうるでしょうか?
「そりゃ昔からそう言われているなら、何かそれなりの根拠があるんだろうよ」と、素朴に考える人もいるかもしれません。「彗星なんて毎年出現するし、天災だって毎年起こる。そこに何か関係があるように思うのは、迷信以外の何物でもないよ」と思う人もいるでしょう。
「そもそも、遠い天体が地上のことに影響するなんて非科学的だ」と思う人もいれば、「いや、太陽活動と地球の気象変動に関係があるのは事実だ。彗星が地球上の現象に影響を及ぼさないと、ろくに調べもせずに即断する方が、よっぽど非科学的だ」と思う人もきっといるはずです。
★
こうした論点は、編集子も十分承知していました。
編集子の出発点も、まずは予断を持たずに過去の記録を調べてみよう、そこから何か見えてくるものがあるかもしれない…というところでした。
これはアプローチとしては穏当なものでしょう。
(連載第7回、文徳~清和天皇の間の記述)
ただ、編集子がしくじったのは、彼はまず過去の記録を調べた上で、一定の見通しを持って記事を書くべきだったのに、フライングで連載をスタートさせてしまったことです。そのため、記述が平安朝の初期まで進んだところで、手に余るものを感じ始め、連載第9回の冒頭は、少なからず言い訳めいた文章になっています。
「本篇は最初、歴代の順序により彗星出現の年に起りし事変は細大となく、其略を列挙する考へなりしも、右は余りに繁雑なるを以て、其幾分は節減する方針を取れり。而も尚ほ普通の予定にては数十回を要するにより、茲(ここ)に大斧鉞(ふえつ)を加へて、大抵の類は皆な之を除去し、単に古今有数の出来事のみを採り、夫(それ)に多少の説明を加へて其完結をはやめんことを期せり」
「こりゃ勝手が違ったなあ」という、編集子の当惑ぶりがよく分かります。
最初にあらましを決めずに、勢いで書き始めると、得てしてこうなりがちです。
このブログでもちょくちょくあることで、100年前の編集子に大いに共感できます(大新聞の記事としては、ちょっとどうなの…と思わなくもありませんが)。
★
このあと編集子は記述を大幅にはしょり、それでも相当苦労しつつ、平安、鎌倉、室町、戦国を経て、ついに幕末の孝明天皇の代まで、延々と記事を書き続けます。
(連載第16回冒頭。室町時代の後花園~後土御門天皇の間の記述)
その労は多とせねばなりませんが、この間の叙述は正直かなり退屈なものです。
ここは私も大いに斧鉞を加え、連載最終回の結論部だけ挙げておきます。
「▲余論 本篇は以上にて尽きたれば、茲に筆を擱(おか)んとするに当り、尚ほ一言す可き要件あり。幵(そ)は彗星の出現と災異とは必ず一致す可きものなりや否やの問題なり。」
あれ? そもそもそれが目的じゃなかったの?…と思いますが、手段と目的を取り違えるほど、編集子も混乱していたのでしょう。
「今、古来の実例に徴するに、其多くの場合は何等かの災異相伴ふと雖も、然らざる例も亦数多(あまた)あり。殊に悲惨の大を極めたる分のみを採れば、或は彗星出現の歳以外に生ぜし分多きやも知れず。故に古来の迷信は素より成立せずと雖(いえど)も、若し統計外に観察を下せば、略々(ほぼ)記述の如くなるを以て、世俗の信念を高むるは恠(あやし)むに足らず。
吾人は敢て旧来の俗説に雷同するにあらざれども、有史以来数千歳の間、未だ二者の対照を試みたる人なきを遺憾として、遂に本篇を草せり。読者幸ひに之を以て無益の談となすこと勿れ。」
「彗星が災異を伴うというのは迷信だけれど、実際、伴う場合もあるので、人々が迷信にとらわれるのも無理はない。ともかく、これまでこういう試みをした人はいないのだから、それだけでも価値を認めてほしい」…というのは、確かにその通りで、「無益の談」とは決して思わないのですが、何となく「労多くして…」の感が濃いです。
★
さて、いちばん気になるのは、この連載に対する大友翁の感想です。
ただ、残念ながら冒頭部(と表紙)を除けば、このスクラップ帖に大友翁の書き込みは一切ありません。それでも、毎回記事を丁寧に切り抜き、それをこうして一冊のスクラップ帖にまとめたということは、大友翁自身そうすることに、少なからず意味を感じていたはずです。
遠い過去に現れた彗星と、往時の世の混乱。
特に、連載の末尾に登場する、嘉永6年(1853)、安政5年(1858)、文久2年(1862)の彗星は、翁の少年期に出現したもので、そこに書かれた相次ぐ大火、地震、コレラの発生なども、身近に感じられたことでしょう。
そして、一連の記事を読んで、「うむ、確かに迷信には違いなかろうさ。じゃがのう…」と、翁は何か言葉にならぬ思いを抱いて、黙って夜空をふり仰いだ…かもしれません。
私だって、混迷せる現今の世相を背景に、大彗星を空に目撃したら、古人の迷信に大いにシンパシーを感じたと思います。
まあ、人間長く生きていると、ふと「天命」というようなことを感じたりするものです。
(この項おわり)
最近のコメント