「閑語」のサルベージ2017年05月27日 05時12分37秒

政治向きの話で恐縮です。
でも、こうやって恐縮するぐらい、「天文古玩」で政治向きの話をするのは、不似合いだという自覚はあります。

美しい天文アンティークや、古き良き理科室を語る場に、生々しい政治の話は不向きだし、それを期待して、このブログを訪問する人もいないでしょう。それに、半可通なことを言って、ひんしゅくを買うのも恥ずかしい気がします。

そんなわけで、政治向きのことで何かおぼしきことがあっても、下書きのみで思いとどまったことは、これまで頻々とありました。

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しかし、ですよ。

安倍さんの例の「そもそも」の語義をめぐる珍答について、「政府は26日の閣議で〔…〕安倍晋三首相が引用した「そもそも」の語意について『首相が自ら辞書を引いて意味を調べたものではない』とする答弁書を決定した。」…というニュースに接したら、いったいどんな顔をすればいいのか?

もちろん、政権側は「野党から質問があったので、私どもは誠実に回答したまでです」と、薄ら笑いを浮かべて答えるつもりでしょうけれど、その「誠実さ」が、森友や加計の問題でどれだけ示されたのか、まったく馬鹿も休み休み言えと、怒り心頭です。

(そもそも辞書で調べてもいないのに、「辞書で調べたら…」と1人称で語ることが許されることかどうか。まずは「ごめんなさい、辞書で調べたと言ったのはウソでした」と謝るのが先じゃないかと思うんですが、安倍さんには、そんな気もないようです。)

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さらに、ここ2~3日の政治面を見ていて、ちょっと気にかかることがあるので、お蔵入りしていた「閑語」の下書きを、ここで少し引っ張り出します。

以下は、今年の3月下旬に、中学武道の種目に「銃剣道」が追加されたことを受けて書いたもの。

--------------------(下書き引用①ここから)--------------------------

▼閑語(ブログ内ブログ)

それにしても、「天文古玩」を書きにくい世の中ですね。

私は基本的に竹林の奥とか、瓢箪の中とか、そいう世間から離れた場所でボンヤリするのが好きで、別に(ドン!)と机を叩くのが好きなわけではないのです。
それなのに、最近は「どうぞ叩いてくれ」と言わんばかりの出来事が多くて、なかなかボンヤリしている暇がありません。

今日も今日とて、いったい文科省の中で何が起きているのか、思わず天を仰ぎました。

先日の天下り問題については、「けしからん!」と誰もが思ったでしょうが、不思議なのは、同じような問題は他省庁にもあるはずなのに、そちらには飛び火せず、完全に文科省をピンポイントで狙った放火の格好で終わったことでした。

そして、ここに来て道徳問題、教育勅語問題、銃剣道問題と、文科省から珍妙な方針が続けざまに打ち出されています。

普通に考えれば、天下り問題は政権側のリークであり、「ちょっと文科省の連中を締め上げたろか」という、後ろ暗い「工作」の気配が濃厚です。その後の奇妙な反動路線は、文科省の上層部が「工作」に屈した証拠なのかな?とも思うのですが、どうもその辺がボンヤリしています。あるいは、森友問題の逆風が吹く今のタイミングに合わせて、文科省にアドバルーンを上げさせて、世間の風向きを読んでいる…ということでしょうか。

まあ、あんまり深読みしてもよくないですが、でもそんなことを考えたくなるぐらい、あまりにも変なことが多いです。

--------------------(下書き引用①ここまで)--------------------------

今にして思えば、このころすでに加計問題が大きな火種となっていたことが明瞭です。
リアルタイムでは分からなくても、後で振り返ると、全体の構図がよく見えることは多々ありますが、これもその一例でしょう。

さらに返す刀で、もうひとつ下書きを復活させます。
これを書いた時も、相当腹に据えかねましたが、ぐっと抑えました。でも、抑えなければならない必然性もないので、開陳します。いつ書いた文章かはっきりしませんが、批判としては時間を超えて有効と思います。

--------------------(下書き引用②ここから)--------------------------

▼閑語(ブログ内ブログ)

「私はそんなことしてませんよ。」
「私がしてないことの証明はね、『悪魔の証明』と言って、そんなことは出来ないんですよ」
「私がやったと言うなら、その立証責任はあなたにある」

現首相の安倍氏は、しょっちゅうそう大見得を切ります。
確かにこれは論理的に正しい発言です。でも、論理的に正しくても、それが社会的に認容されるかどうかは別の問題です。

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「この薬に重大な副作用なんてありませんよ。」
「副作用がないことの証明はね、『悪魔の証明』と言って、そんなことは出来ないんですよ。」
「副作用があるというなら、その立証責任はあなたにある。」

これも論理的には正しいです。
でも、同時に「正しいけれども正しくない」主張です。

なぜなら、ここで求められているのは、「副作用がゼロであることの論理学的証明」なぞではなくて、「副作用の危険性は、ほぼ無いと言えるか。それを裏付けるデータはあるか」であり、それは動物実験とか、人体への治験とか、その後の疫学調査とかによって、十分提出可能だからです。

ここで関係者に求められるのは、「副作用の有無」という単純なレベルにとどまらず、「想定される副作用のリスク」と「薬が持つプラスの効果」とを比べて、どこまでリスクを認容できるかという、プラクティカルな判断であったり、あるいは実際に副作用で問題が発生した場合、どのように対応すべきかという実際的な問題なのです。「悪魔の証明」というフレーズを無邪気に持ち出して事足れりとしていいシチュエーションでは全くありません。

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そしてまた、論理というのは誰が誰に向って言っても同様に妥当するはずですが、仮にこの発言を、以下の文脈に置いてみたらどうでしょう?

 ①製薬会社が厚生労働省に言った場合
 ②製薬会社が患者に言った場合
 ③厚生労働省が患者に言った場合

すべて等しく容認されるかどうか?
いかなる立場を取るにせよ、少なくとも①の場合、その発言が容認されると考える人はいないでしょう。論理的に正しくても認められないことや、むしろ認めないことが正当な場合もあることは、この例からも分かるでしょう。

安倍氏の場合、「悪魔の証明」という、印象的なフレーズを使ってみたくてしょうがない幼児性を強く感じます。でも、立派な格言を引用するなら、「Absence of evidence is not evidence of absence(証拠の不在は、不在の証拠にはならない)」という、よりポピュラーなフレーズも念頭に置いてほしいものです。

--------------------(下書き引用②ここまで)--------------------------

腹立ちまぎれに感情をぶちまけるのは、はしたないことだと思います。
でも、それも場合によりけりです。
今は怒ってもよいときだと、私の中の冷静な自分が告げています。