スピッツ式プラネタリウム vs. 日本の中学生2017年05月31日 21時35分35秒

ニューヨークにほど近い、アメリカ北東部の都市、スタンフォード(コネチカット州)。
そこに1936年にオープンした「スタンフォード・ミュージアム&ネイチャー・センター」は、児童を対象とした理科学習の聖地として構想された施設で、天文学もその主要なテーマでした。

同館にプラネタリウムが整備されたのは1958年。
そして、天文台が完成したのは1960年(メイン機材である22インチ望遠鏡の設置は1965年)のことです。

そのプラネタリウムの絵葉書が以下。


ここで注目すべきは、見目麗しいプラネタリアンではなく、彼女が操作している投影機本体です。特徴的な正12面体のフォルムこそ、米スピッツ社が手がけた「スピッツA型」のそれ。


独・ツァイス社のいかめしい機械に比べると、ちょっと素朴な感じを受けますが、この素朴さこそ、「誰でも、どこでも買える」廉価なプラネタリウムを追求した、スピッツ式プラネタリウムの真骨頂。

アーマンド・スピッツ氏による第1号機は1947年に完成し、その後1949年には会社組織となって量産体制を整えましたが、1950年代以降、米ソの宇宙開発競争が始まると、政府の科学教育振興策を追い風に、アメリカ全土の学校や地方都市に大いに普及したのでした。

   ★

この絵葉書を思い出したのは、先日コメントを頂戴した「ふーさん」のサイトで、驚くべき記事を拝読したからです。

そこには、中学生時代のふーさんが、卓越した技巧で完成させた自作プラネタリウムの思い出が、写真とともに紹介されていました。

ふーさんの「天文とビデオと音楽と」:自作プラネタリウム

それは昭和35年(1960)に完成し、全国学生科学賞でも賞を得た堂々たる機械なので、ぜひリンク先をご覧いただきたいですが、時代的にはまさにスタンフォード・ミュージアム(とアメリカ中の町々)に、スピッツ式プラネタリウムが設置されたのと同じ時期です。

当時は日本でも、理科教育振興の声が高まっていた頃で、もちろん日米の経済格差は大きかったですが、太平洋を挟んで登場したふたつの正12面体こそ、まさに「時代の子」と呼ぶべきもの。その余香は、私の子供時代にも及んでおり、当時の科学館の匂いや、学習百科事典の紙面レイアウトなんかに、私は手放しの郷愁を感じます。


【参考】
伊東昌市(著)『地上に星空を―プラネタリウムの歴史と技術』、裳華房、1998
(スピッツ式プラネタリウムについては同書 pp.81-97を参照)

【2017.6.1付記】
文中、「正20面体」は「正12面体」の誤記ですので、訂正しました。

コメント

_ Nakamori ― 2017年06月04日 09時02分32秒

小学生の頃、名古屋市科学館で見たプラネタリウムを思い出しました。ご紹介いただいた「ふーさん」のサイトにも昔の投影機が紹介されていて、そうそうこんな奴だったなあ、と思い出しました。当時のプログラムで(今もそうかも知れませんが)、昼間からだんだん空が暗くなっていく時間帯の、特に地平線すれすれの街の様子は臨場感があり、ワクワクしたことを覚えています。

世界最大級のドームを体験したくなりました。

_ 玉青 ― 2017年06月04日 10時15分35秒

名古屋市科学館は今も生解説で上映してくれるのが嬉しいですね。
まあトーキーもいいですが、弁士が語るサイレントの味わいはまた格別です。
私も最近行ってないのであれですが、夕暮れの演出は今もやっていたような気がします。
ぜひ大きな円天井で、ひとときの星の旅をお楽しみください。

_ ふーさん ― 2017年06月04日 10時32分03秒

ふーさんです
あのプラネは、金子式のコロネットという小型ピンホールプラネとスピッツの融合みたいなものです。

コロネットは、昔パンフレットを持っていたのですが、先日明石プラネで本物を見ました。直径30cmほどの多面体です。

正12角形をトタン板で作るのは、至難の業でした。内部をハンダ付けしてますが、最初のほうは簡単ですが、折れ曲がってくると、非常にやりつらいのです。

また穴開けも大変でした。球面を12角形の立体に変える訳ですので、具体的方法は忘れましたが、苦心した思い出が残っています。
ハンドドリルの刃先をどれだけ折ったことか。

足の部分の形は、ツアイスの型です。ラワン棒で作っています。

自宅から学生科学賞の会場(有名な大火災で焼失した大阪千日前デパートの催し会場)まで父親の会社のトラックの荷台に積んで、ふーさんも荷台で倒れないように乗って行った記憶があります。

高城武夫さんの「プラネタリウムの話」という著書の写真も載せていますすが、この本の中で、和歌山の桐蔭高校で、戦後間もない頃に、歯車を組み合わせたプラネの製作記事が載っています。

今でこそ家庭用プラネなど、簡単に入手できますが、当時はとても高価だった記憶です。スピッツか500ドルプラネといっても、当時1ドル360円の時代で、当時の物価を考えると、とんでもない価格です。

一番工夫したのは、地平線以下の星を、いかに消すかです。そのため内部は鉛を底に入れた、コップのようなものに電球を入れています。

審査員の前で、12面体の上11面(これが底を残して外せるようにしたいました)外して、その構造を見せたら、先生方が「なるほど~~」と拍手してもらった記憶があります

ツアイスのように、水銀を使って水平を保つなんて、子供にはとてもとても、できるものではありませんでした。

_ 玉青 ― 2017年06月05日 22時43分18秒

記事で勝手にお名前を出させていただき恐縮です。
ここに改めてお礼と賛嘆の念を申し述べたく思います。

>金子式のコロネット
>高橋武雄さん

上の記事では正十二面体のフォルムにだけ注目しましたが、ふーさんのプラネタリウムには、他にもいろいろなアイデアが盛り込まれていたのですね。

恥ずかしながら。金子式のことは、まったく知らずにいました。(上記の参考書を見返したら、金子氏のお名前が1か所チラッと出てきますが、コロネットのことには触れられていませんでした。でも、そこには金子氏が昭和33年に、高橋武雄氏の私設プラネタリウム「和歌山天文館」に自作品を納入されたことが書かれており、草創期のプラネタリウム界の濃密な人的つながりが実感できました。)

それにしても、作品の完成度もさることながら、その製作過程で発揮された創意工夫と努力。汗をぬぐいながら奮闘する中学生の姿を思い浮かべると、本当に胸が熱くなります。できることなら、中学生時代の自分に戻って、中学生時代のふーさんを訪ね、言葉を交わして見たかったです。…でも、こうして気安くふーさんなどとお呼びしながら、多少の年代差も忘れて、フラットにお話しできるのですから、あえて中学生に戻る必要もないかもしれませんね。(^J^)

_ ふーさん ― 2017年06月08日 16時34分56秒

実はコロネットの現物を見たのは、今年明石で初めてです。ものすごく小さいので、ビックリものです。

他にもっと苦労したのは、小さいサイズのフィラメントの豆電球が少なかったということ。

どういうことかというと、針穴写真機ですから、もろにフィラメントの形がドームに写ります。ずっと後になって発売された五藤なんかのピンホールプラネは専用の電球があったほど。

一時、鉛筆の芯を2本とがらせて、その先で放電させて点光源を作るというアイデアがあったのですが、危険だし、光が安定しない。

ですからフィラメントの端が南にくるようにすれば、南天の星が点になることで、我慢しました。今ならものすごい小さい点光源的なLEDライトがあるのですがね。

私が大阪の旧電気科学館に通ってころ、信岡さんという町のモータースのおじさんが良く来られたました。ものすごく器用な方で、解説の先生はが、たとえば「太陽系の回転している投影機が欲しい」というと、1週間ほどで作ってこられました。今、新しい大阪市立科学館には、この方の作られた投影機「日食、月食投影機」が展示されています。

この方こそ後に千代田光学に入って、国産プラネを作った方です。後のコニカミノルタです。

_ ふーさん ― 2017年06月08日 16時42分20秒

今年、立て続けで、金子式を和歌山、名古屋、明石で見て、なんだか涙が出てしかたがありませんでした。現物を見て、昔の金子式へのあこがれや、14歳の自分に戻って感傷的になったのでしょうね。一度スピッツの現物を見てみたいと思っています。あの正12面体の現物を・・・

_ 玉青 ― 2017年06月08日 21時41分34秒

またも貴重なお話をありがとうございます。
ふーさんのお話を伺っていると、まるで自分も日本のプラネタリウム史を、親しく経験したかのような気分になります。でも、ふーさんご自身、確実にその1ページを彩られた方のわけですから、それもあえて故無しとしません。
信岡氏のお名前を拝見し、もしやと思い、再び『地上に星空を』を読み返したら、ちょうど金子氏に先行する箇所で、それもかなりの紙幅を割いて、氏のことが紹介されていました。信岡氏とミノルタの歴史は、いわば和製プラネタリウムのアメリカ進出史でもあり、これぞ一種の「ジャパニーズ・ドリーム」かもしれませんね。

_ ふーさん ― 2017年06月09日 12時05分49秒

信岡さんは小柄な方でした。大阪のプラネタリウムは1920年代だったと思います。私が生まれるずっと前ですが、東京が戦災出焼けて、大阪しかなかった機械ですから、色々なマニアが集まったのですね。

ミノルタのプラネタリウムを最初に見たのは、大阪国際見本市でしたよ。星が「瞬き」するのが新鮮でした。

プラネタリウムの先生に聞いた話なんですが、プラネタリウムには特許がなかった。こんなものドイツの技術しか出来ないと。

そこで日本人が、俄然ファイトを出したのですね。大阪弁でいうと
「よっしゃ、それやったら作ったる」

アメリカも怒った。スピッツ、モリソンなど開発合戦となったのでしょうね

_ 玉青 ― 2017年06月09日 21時58分29秒

しみじみとする、実に良い話です。
その心意気が今後どうなるか、それが今最も問われているところなのでしょうね。

コメントをどうぞ

※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。

名前:
メールアドレス:
URL:
コメント:

トラックバック