本邦解剖授業史(3)2017年06月11日 12時39分26秒

大正時代、特に第1次大戦後は、「児童実験」が盛んに言われた時期です。
すなわち、明治時代のように、単に絵図を見せたり、あるいは教卓上で先生が実験して見せたりするだけではなく、生徒自らが実験することの重要性が叫ばれた時代。

これが理科室の基本構造にも影響を及ぼし、4~5人で1つの机を囲み、グループ単位で先生の説明を聞きながら実験するという、現代に通じる理科室風景が誕生したのも大正時代のことです。

カエルの解剖が一般化したのも、やっぱりルーツは大正期だと思います。
この連載の1回目で、串間努氏の『まぼろし小学校』を引いて、大正4年(1915)に、「博物用解剖器」が実用新案として出願されたと書きましたが、それも1つの傍証になります。

もちろん、解剖実習はそれ以前から方々で行われていましたから、解剖器が大正4年に突如登場したわけではないでしょうけれど、「博物用」と銘打って、小・中学校用の教材として商品化されたのが、この前後だろうと思います(この「博物」は「物理・化学」と対になる語で、動・植・鉱物について学ぶ科目を指します)。

下は昭和に入ってからの例ですが、島津と並ぶ代表的理科教材メーカー、前川合名会社(後に「前川科学」→「マリス」と社名変更)が出した、昭和13年(1938)のカタログの一ページ。これを見ると、当時、さまざまなタイプの解剖器が作られ、学校に売り込みが図られていたことが分かります。まさに“需要のあるところに供給あり”というわけでしょう。

(昭和13(1938)、前川合名会社発行『理化学器械 博物学標本目録』より。5点セット・レザーサック入りの80銭から、17点セット木箱入りの最高級品20円まで、多様なラインナップ)

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さらに、いっそう直接的な証拠としては、大正時代の後半になって、ずばりカエルの解剖をテーマにした理科教育書が出版されていることを挙げることができます。


■宮崎三郎(著)
 『蛙を教材としたる人体生理解剖実験室』
 中文館書店、大正12年(1923)

この本は、序文に説くように、「小学並に中学に於ける人体生理解剖学教授上の一参考」として書かれたものです。そして、この本を書くに至った著者の思いが、序に続く「緒言」(pp.4-10)に、こう記されています(引用にあたって、一部読点を補いました)。

 「世界大戦争の勃発後は、四囲の情況に影響されて、我国にては在来余り顧みらるゝこと少かった理科教育が、盛に奨励さるゝに至った。かゝる機運に促されて、中学、小学に於ける物理、化学の設備は其面目を一新し、実験といふことが大に重ぜらるゝ様になった。然しながら、之を動植物学の方面に見るに、如何なる状態であらうか。更に之を医学(人体生理、解剖、衛生)の方面に見るに如何?尚従来の教科書と掛図による説明の域を脱しないではないか。」

著者である宮崎の見る所、理科における「児童実験」ブームは、物理・化学に限られ、生物分野には依然として及んでいなかったというのです。「これではいかん」というのが、宮崎の問題意識であり、その主な原因は「その教材を得ること難きと、之が実験方法の困難なるべしと思惟さるゝ為」だというのが、彼の意見でした。

たとえば心臓の動きについて学ぶのでも、「生体解剖を人体に行ふわけにも行くまい」し、「模型といふものはどんなに上手に出来てゐてもやはり『模型』だ」。そこで、比較解剖学や比較生理学の考えを援用して、「私は蛙及蝦蟇〔がま〕を採らるゝことを御奨めしたいのである」と、宮崎は主張します。

 「蛙ならば材料を得るにも容易である。田舎ならば裏の泥田に鳴いてゐる。都会ならば実験用の蛙を売る商人がゐて、頼めば幾十匹でも揃へる。
 更に蛙は小さい故に、他試験動物に比してその取扱ひ極て簡単であり、〔…〕所謂生体解剖をやったとて、流血の惨を見ること少く、蛙ならば惨酷なといふ感じも起すこと少いであらう。」

当時でも、「惨(残)酷」という観点を、まったく顧慮しなかったわけではありませんが、相対的に罪が軽いと思われたようです。さらに続けて、宮崎は下のように書くのですが、これも当時の意識のありようを伺わせる内容で、興味深いです。

 「動物愛護の声の高い英国では、学者の研究室での実験にも、試験動物は必ず麻酔をかけることに規定されてゐる。時々其筋の役人が見廻りに来るとの事である。その英国ですら蛙の実験には麻酔を用ひないでよいことになってゐる。これは蛙は大脳の発達幼稚にして、疼痛を感じないからとの理由であるそうな。」

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カエルの解剖は、その終焉がぼやけているのと同様、その始まりの時期も一寸はっきりしないところがあります。少なくとも、ある年を境に、全国でパッと行われるようになったわけではなく、大正時代いっぱいを通じて、各地の理科教師が研鑚を重ねる中、徐々に普及していったのが実態だろうと思います。


(次回、宮崎の本の中身をもう少し見てみます。この項つづく)