甲府の抱影(後編)2017年09月21日 05時48分22秒

(昨日のつづき)

抱影が、甲府中学校の理科室に備えられた2インチ径の望遠鏡を使って、夜ごと星を眺めていたことは、彼の随筆『星三百六十五夜』から、以前一文を引いたことがあります(http://mononoke.asablo.jp/blog/2006/10/16/)。

同旨の文章になりますが、ここでは抱影が別のところに書いた一文を、石田五郎氏の上掲書から孫引きしてみます。(原典は甲府中校友会誌第35号。原題は「星を見るまで」。引用中、「……」は石田氏による挿入。改行は管理人による。)

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 白根の頂に雲の浮ばなかった日は風のない静かな昼が静かな夜と暮れる。こういう夜僕はよく中学校へ望遠鏡で星を覗きに行ったものだ。県庁横のあの灯火の少い通りを歩きながら瑞々しくかがやいている星の中をあれかこれかと予め選んでゆくその心持は察してくれる人が少い。

……理科の機械室の戸口に立止って、錠にガチリと音をさせて戸を開けるとその途端に一種の冷い匂いが顔を打った。提灯のそぼめく光にまわりの硝子戸棚の滑かな面とその中にある多くは黄銅製の種々の器械とがぼんやりと光って、硝子戸は足音でぴりりとかすかな音を立てた。窓ぎわにほの白いカーテンの前には望遠鏡が長い三脚をふんばって突立っている。白いさらしの布で巻かれている黄銅の筒はいくど僕の手でなでられた事だろう。

……望遠鏡を抱え上げると、何かに追われるようにその部屋を出、いそいで後ろに戸をたてて提灯を吹き消し、そして太い三脚をちぢめて肩に担いだ。黄銅の筒はぐたりと縦に背にもたれかかって、町の辻に立ってチャルメラを吹く飴売りの首をぐたりと垂れたひょろ長い人形を思わせた。

……昼はテニスコートに使われる真暗な庭へ出て、柔い土へ三脚を拡げて立てた。円筒のくびをするすると伸し、その口をひき出し、口許のレンズの小さい鋼鉄の蓋を爪先で探って開けた。これまでの一切の処置が何のこだわりもなく躊躇なく進行する事にいつも満足を感じた。背を屈めて望遠鏡の口を覗くと両手の親指と人差指とで作った程の円い平たいレンズの面が筒の内部の暗黒とやや見分けのつく位の仄明るさに夜の空を映していた。そこで何時も度を合す標準に使う北斗の第二星(二重星)へ筒口をぐーっと向けて覗くとそれがぽっと大きく拡がつて見えた。右手でネジを小心に回しはじめると、筒の胴はそれに連れて伸びたり縮んだりした。その中に当の星は形を小さくまとめて強い堅い光を放った。そのすぐ側に、真黒な空間を隔てて、それに付属の星が永劫近付き難い淋しさをあきらめている様に幽かに光っていた。

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ちっぽけな望遠鏡とはいえ、明治の末、まだ日本では趣味の天体観測がほとんど行われていない時期のことですから、その経験はすこぶる貴重です。

抱影がそれを存分に楽しんだのは、一種の「役得」に他なりませんが、同じ教師仲間でそのアドバンテージを生かしたのは、ひとり抱影のみですから、これは抱影の才覚と内証の良さを褒めるべきでしょう。

ともあれ、「星の文学者」としての抱影の下地が、紙の上の知識のみならず、リアルな観測経験によっても練られたことは、その後、抱影に導かれた日本の天文趣味にとって、大いに幸いなことだったと思います。

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さて、その抱影が見た星空を、この目で見ようというのが、今回の旅の大きな楽しみのひとつで、幸い天候にも恵まれましたが、結論から言うと、星そのものは見られず、夕暮れの甲府城(舞鶴城)を散策するだけで終わりました。

以下は舞鶴城公園からの景観です。


陰々たる古城の黄昏。
甲府中学校の寄宿舎裏には、昔、小姓か腰元を切りこんで埋めたという石の六角井戸があり、抱影は生徒たちを集めて、肝試しをやったそうです。


盆地に位置する甲府は、当然ながら東西南北すべて山。
秋分間近のこの日、太陽は真西にあたる千頭星山(せんとうぼしやま)へと沈み、町は急速に暮色を深めます。(ちなみに、中央の巨大なオベリスクは、明治天皇を奉賛する城内の謝恩碑。抱影時代の甲府にはまだありませんでした。)


対する東に目を向ければ、連山の頂にうかぶ白雲が、美しい茜色に染まっています(右端は富士山)。きっと100年前も、あの雲の遠い祖先が、あそこであんなふうに浮かんでいたことでしょう。それが灰白になり、暗い闇に溶け込むとき、抱影はお城の脇を速足で歩きながら、これから始まる天体ショーに、胸を高鳴らせたのです。


北の空を見上げたところ。
抱影の天体観測は、北極星とおおぐま座からスタートするのが常でした。
地平から35.7度の位置に北極星が光り、その周囲に大熊が姿を見せるのも、もうじきです。

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さんざん煽っておきながら、いったいキミは夜は何をしていたのかね?

…と思われるかもしれませんが、夜は夜で甲州ワインを飲んだり、地鶏を食べたりで忙しかったのです。まあ、連れもいたので、全てが自分の自由にはならなかったというのもありますが、山梨の魅力はそれだけ多彩である、ということです。