Where the Past meets the Present2017年10月01日 07時45分52秒

イギリスの天文史学会(SHA;Society for the History of Astronomy)というのは、会費を払えば誰でも入会できる気さくな学会で、私もその一員に加えてもらっています。
昨日、その会誌が届いたので、パラパラ見ていました。


主要記事は、1927年にイギリスで見られた、皆既日食騒動の顛末や、SHA会員有志による今春のパリ天文史跡探訪、およびフランス天文学会(SAF;Société Astronomique de France)との交流記などなど。

パリ天文台や、フランス自然史博物館、パリ近郊のカミーユ・フラマリオンの私設天文台など、(いずれも足を運んだことはありませんが)心情的には近しい場所が、イギリスの人の目を通して紹介されるのが、ちょっと不思議な感じでした。


それにしても、時代小説を読んでいると、頭がだんだん江戸時代モードになって、突如「この推参者!」とか叫ぶように、100年も200年も前の天文史の話題を追っていると、いつの間にか、今が2017年であることを忘れてしまいます。
 

そして、「SHA図書館だより」の記事を読めば、図書館が入居している「バーミンガム&ミッドランド協会(BMI)」の煤けた赤煉瓦の建物を思い起こして、何だか1880年代を生きる天文家のような気分が、自ずと湧いてくるわけです。

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でも、その気分も長くは続きません。やっぱり今は2010年代です。


「現在BMIはポケストップになっており、当館にもポケモンの姿をした仮想訪問者がお出でになります。写真は、最近お見えになった、ズバット、コラッタ、ホーホー、マリルの皆さん。」

そうか、ポケモンかあ…。
どうもSHA司書のキャロリン・ベッドウェルさんは、最近「ポケモンGo」にはまっていて、天文古書に囲まれながら、仕事の合間にポケモンを盛んにGetしている模様。

たとえ煤けた建物に19世紀の本が山積みになっていても、やっぱり時の流れを止めることはできず、あたりには人知れずポケモンが跳梁し、ネットがなければ一切の仕事が成立しない…我々はそんな時代を生きていることを、今さらながら見せつけられる思いです。

フラマリオンの視界2017年10月02日 21時38分46秒

フランスにおける天文趣味の総元締め――日本でいえば野尻抱影と山本一清を足したような存在――である、カミーユ・フラマリオン(Camille Flammarion、1842-1925)については、これまで何度も記事にしました。

パリ南郊、ジュヴィジーの町に立つ、彼の私設天文台についても同様です。
(注: 以前の記事では「ジュヴィシー」と書きましたが、「ジュヴィジー」と濁る方が正しいらしいので、以下ジュヴィジーとします。)

古い順に挙げると以下の通りで、種々の絵葉書を通して、その偉容を眺めたのでした。

■フラマリオン天文台
■フラマリオンとジュヴィシー天文台
■昔日のジュヴィシー天文台
■ジュヴィシー、夜
でも、フラマリオンがそこで目にした星空は、果たしてどんなものだったのでしょう?

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先日、ジュヴィジーで撮られた天体写真を見つけました。
1908年に接近したモアハウス彗星(C/1908 R1)の撮影画像を、手製のステレオ写真に仕立てた、ちょっと珍しい品です。

(「Photographie Stéréoscopique de la Comète Morehouse 1908」)

モアハウス彗星は、尾が複雑に分岐し、その姿を刻々と変えたことで知られます。
暗く、動きの速い彗星を追尾したため、背景の星像が流れたのでしょうが、これはどれぐらい露出に時間をかけたものでしょうか。


消えかかっていますが、左下に「Observatoire de Juvisy」の名が見えます。


右下は撮影者、またはステレオ写真の製作者の名だと思いますが、はっきり読み取れません。少なくとも「フラマリオン」ではなく、彼の助手あたりではないかと思います。

【10月3日付記】
 コメント欄で、HN「パリの暇人」さんから、この名はフラマリオンの下、ジュヴィジーで観測を行なった天文家、Ferdinand Quénissetであることを教えていただきました。
 英語版Wikipediaの記述によれば、Quénisset(ケニセと読むのでしょうか)は、1892年~93年と1906年~51年の両度にわたって――すなわちフラマリオンの死後も引き続き――ジュヴィジーで観測に当り、多くの写真やスケッチを残しました。その功績を讃えて、現在、火星には彼の名から採ったクレーターがあるそうです。

(1930年代頃の米・キーストーン社製ステレオ写真)

アメリカのヤーキス天文台で撮影された写真と比べると、彗星の細部の表現や、背景の星像の振れ幅に、両天文台の機材のスペック差が出ているようで興味深いです(ジュヴィジーの主力機材は口径24cm、対するヤーキスのそれは口径101cmです)。


口径24cmは決して小さな望遠鏡ではありませんが、アメリカの巨人望遠鏡に比べれば、まるで大人と子供です。でも、フラマリオンは、それを思いのままに使える自由と、何と言っても有り余るほどの想像力に恵まれていました。

フラマリオンはやっぱり幸せな人だった…と何度でも思います。

「星座早見表」のこと(附・梶井基次郎の見た星)2017年10月04日 21時21分36秒

月さやかなり。
枝野氏の曇りなき決断を歓迎し、支持します。

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さて、本題です。
今さらですが、「星座早見」というのがありますね。あるいは「星座早見盤」とも。


その一方で「星座早見表」という言い方もあって、それを耳にする度に、「あれはどう見ても‘表’じゃないだろう」と、些細な点がこれまで気になっていました。

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「年齢早見表」とか、「料金早見表」とか、はたまた「麻雀点数早見表」とか、「○○早見表」と称するものは世間に多いので、「星座早見表」もそれに引きずられて生まれた名称だろうと思うのですが、一体いつからある言い回しなのか?…と思って、Googleの書籍検索に当ってみました。

すると、長谷川誠也(編)『新修百科大辞典:全』(博文館、1934)という、戦前の辞典にも堂々と出ているのを発見。


辞典に載るぐらいですから、これは半ば公に認められた表現といってよく、今さらやかましく「言葉とがめ」をするには及ばないと思い直しました。

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そもそも、「表」という字を漢和辞典で引くと、「形声。もと、衣と、音符毛とから成り、下着の上に着てひらひらする「うわぎ」、ひいて「おもて」「あらわす」意を表す」と書かれていました。すなわち「表」の原義は「アウターウェア」で、そこから公にする」「明白にするといった意味が生じ、さらに転じて「めじるし」「文書」の意味を持つに至った…というわけです。

どうも「表」というと、「図(Figure)」に対する「表(Table)」、すなわち数字が縦横に並んだエクセルシートのようなものをイメージするため、そこに違和感があったのですが、「表」という字は、本来もっと意味が広くて、例えば「儀表」といえば「お手本となる規則」、「時表」といえば「日時計とするために立てた石柱」の意になります。

とすれば、「星座早見表」も、「星座をすばやく見つけ出すための目印」といった程度の意味に取ればいいのかもしれません。

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ところで、グーグルの書籍検索は、上記の辞典よりも、さらに古い用例も教えてくれます。

すなわち、梶井基次郎の短編「冬の日」
昭和2年(1927)に発表された作品です。
内容は、結核で肺を病んだ青年の、暗い倦怠に彩られた心象を延々と描いた私小説風の作品です(梶井自身も結核を患っており、本作発表の5年後(昭和7年)に没しています)。

その中に、次の一節があります。

 「彼が部屋で感覚する夜は、昨夜も一昨夜もおそらくは明晩もない、病院の廊下のように長く続いた夜だった。そこでは古い生活は死のような空気のなかで停止していた。思想は書棚を埋める壁土にしか過ぎなかった。壁にかかった星座早見表は午前三時が十月二十何日に目盛をあわせたまま埃ほこりをかぶっていた。夜更けて彼が便所へ通うと、小窓の外の屋根瓦には月光のような霜が置いている。それを見るときにだけ彼の心はほーっと明るむのだった。」

そこに登場する星座早見は、主人公が病苦に侵される前の「古い生活」の象徴です。新鮮な思想に憧れ、遥かな星空を眺めた、かつての若者らしい生気は失われ、深更に目が覚めても、今や天上の星よりも、地上の霜だけが慰めだ…というのです。

分かるような気もします。でも、いかにも切ないですね。
当時、いかに多くの若者が、結核という国民病で斃れたかを思い起こすと、改めて慄然とします(その後、さらに多くの若者が戦で命を落としたことについても又然り)。


10月20何日、午前3時。


かつて作者・梶井基次郎が見たであろう星空。

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上の写真は、いずれも三省堂版「星座早見」(日本天文学会編)の一部。
明治40年(1907)に出た後、昭和に至るまで版を重ねたロングセラーで、当時商品化されていた星座早見は、三省堂版のみですから、梶井が見たのもきっとこれでしょう。

和本の世界、過ぎゆく世界2017年10月05日 21時42分51秒

昨日、一通の封書が届きました。
F書房…と、イニシャルでお呼びする必要は、もはやないでしょう。その筋では有名な「ふくべ書房」さんが、このたび営業を終えられたというご案内でした。


ふくべ書房さんは、理系・博物系古書の専門店として、長く神保町に門戸を張り、その恐るべき質と量の在庫によって、マニアを眩惑し続けたお店です。

昨年、在庫整理のバーゲンセールがあり、さらに神保町から埼玉に移転されると伺ったときも、よもや完全に営業を終えられるとは思っていなかったので、この通知には少なからず衝撃を受けました。


定期刊行のカタログには、毎号「江戸の自然あります」の文字が―。

一口に「古書」と言っても、その範囲は広いですが、ふくべ書房さんは、江戸~明治の和綴じ本が主力商品で、和本というのは、現代日本人にとっては非常に遠い――ある意味、洋古書よりも遠い――存在ですから、その品揃えを眺めるだけで、一種エキゾチックなムードを感じたのでした。


ふくべ書房さんで注文した本が届いたとき、そこには常に喜びと驚きがありました。
本の中身は言うまでもありません。さらに、その外見がまた驚きを誘うものでした。
…といって、それらの本が、格別特異な風采だったわけではありません。和本には往々にして付き物の、古風な帙にくるまれていただけのことです。

でも、ある時、その帙が元からのものではなく、ふくべ書房さんが一つひとつに誂えたものと知って、店主の奥村氏がどれほど古書を大事にされているか、その古書に寄せる思いの深さを知って、驚いたわけです。

(明治版の 岩崎潅園著 『本草図譜(山草・芳草部)』。わりと廉価な本ですが、こうして帙にくるめば保存に便利だし、古書としての表情も華やぎます。)

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何だか、いかにも上得意のような顔をして書いていますね。
でも、あけすけに言えば、私は上客でも何でもなくて、同店の商品ラインナップからすると、最も安価な部類の品を、時々思い出したように買わせていただいただけです。
しかし、そんな零細な客に対しても、自筆のお礼状を一通一通出されているところに、店主の御人柄がしのばれ、心に温かいものが通います。

閉店を惜しむ気持ちはもちろんあります。でも、それは言っても詮無いことでしょう。
今はその思いをこうして語ることで、滋味豊かな古書の世界が、これからも永く続くことを祈るばかりです。

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書きながら、以前台湾で営業されていた胡蝶書房さんのことを、「ある書肆との惜別」と題して書き記したことを思い出しました。

たしかに美しい世界も無限には続きません。でも、陳腐な言い方になりますけれど、その美しい世界は記憶の中にこうして生き続けており、のみならず、そこでいっそう美しく輝くものです。

明治の動・植物実習図を眺める(前編)2017年10月07日 10時58分29秒

ふくべ書房さんのことを話題にしたので、以前宿題にしていたことを書きます。
それは今年6月にカエルの解剖について触れたときのことです。

本邦解剖授業史(2)

上のリンク先を含む前後の記事は、日本における解剖(特にカエル)の授業についてまとめたもので、その中にこんな記述が挟まっていました(画像も含めて再掲)。



 上の画像は、おそらく大学における動物学実習のために準備された講義ノートの一部で、明治30年代のものです(この美しい彩色手稿については、描き手のことも含めて、いずれじっくり書きます)。

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問題の明治時代の講義ノートは、やはり帙にくるまれて、ふくべ書房さんから届きました。


中身は『動植物実習図』と題された、手製の図画集で、大きさは37×28cmと、B4よりもさらに大きいサイズです。中には30枚の図版が綴じられており(各葉とも裏面は空白)、そのうち26枚に手彩色が施されています。

(以下、雨模様で光量が乏しいため、暗い写真になりました)

冒頭の第一図。図には講義用のアンチョコらしい説明文が貼付されており、それをめくると…


下から可憐なツユクサの図が現れます。

リアルな全体図と部分図、花の細部スケッチと花式図、さらに顕微鏡で観察した花粉や蕊の細胞(これは別種であるムラサキツユクサの雄蕊の毛の細胞をスケッチしたもの)等が、きっちり1枚の図に収まっています。



それにしても、これは相当巧い絵ですね。職業画家の巧さとはまた違うのでしょうが、繊細さと科学的正確さを兼ね備えた、真面目な絵だと感じます。


ペンで書かれた「アンチョコ」の文字も、描き手の几帳面さを感じさせます。

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この勢いで他の図も見てみたいのですが、その前に本図譜の素性を考えてみます。

この図譜は、もちろん「動植物実習」のために作成されたものです。用いられたのは、明治33年(1900)の9月から、明治34年(1901)の6月まで。当時の大学は9月に始まり、翌年6月までを学校年度とし、これを3学期に分けて授業を行ったので、ちょうどそれに対応しています。

担当教員は「上野」先生だと、表紙の文字は教えてくれます。
これが仮に東京帝大に関係したものとすれば、当時の教員は以下の資料で確認できますから、それが誰かは簡単に分かります。

■東京帝国大学一覧. 明治33-34年

当時の帝大理学部や農学部(正確には理科大学、農科大学)に、上野姓の教員はただ一人です。すなわち、農科大学に在籍した、上野英三郎(うえの ひでさぶろう、1872-1935)。上野博士は、たぶん御本人よりもペットの方が有名で、あの忠犬ハチ公の飼い主だった人です(当時はまだ博士ではなく、ハチ公も飼っていませんでしたが)。

(左から5人目に上野の名が見える)

もちろん、これが東京帝大以外の、たとえば京都帝大や旧制高校、あるいは師範学校に所属する、別の上野先生のものだった可能性もあるので、うっかり断定はできませんが、この点は、おそらく上野博士の筆跡が分かればはっきりするでしょう。

以下、これが上野博士のものとして、話を進めます。

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上野博士は農業土木の大家で、もちろん動・植物の解剖学が専門ではありません。
しかし、彼が「大家」になるのは、しばらく後の話で、彼はちょうどこの年(明治33年)の7月に大学院を終えて、同年8月に農科大学講師に任じられたばかりでした。

彼が所属したのは、田中節三郎助教授率いる「農学第二講座」で、彼は田中助教授の下で、「農学第二講座に属する職務分担」を担当していました。何のこっちゃ…という感じですが、他の先輩教師のように、「家畜生理学」とか「農芸化学」といった具体的な担当科目が記されていないので、要は何でもやらされたのでしょう。

当時の農科大学は3年制です。そのうち農学科では、第1学年と第2学年で、「植物学実験」と「動物学実験」が必修でした。また農科大学には、そうした本科の他に、旧制中学卒業生等を対象とした、「実科」というのがあって、こちらは農業実務者養成を目的としたコースのようです(実科の入学者の半数は、「田畠五町歩若クハ未墾地十五町歩以上ヲ所有スル者又ハ其子弟ヨリ選抜ス」と規則で定められていました)。そして、そちらにも当然、動・植物学の講義はありましたから、そういう基礎クラス向けの手間のかかる実習を、新米講師が担当させられた…というのは、何となくありがちなことという気がします。

(以下、図譜の続きを眺めます。この項つづく)

明治の動・植物実習図を眺める(後編)2017年10月08日 08時36分58秒

19世紀最後の年、1900年。そして20世紀最初の年、1901年。
世紀をまたいで講じられた、動・植物実習の講義用図譜の中身とは?

それを昨日に続けて見てみたいのですが、その前に訂正です。
昨日は、第1図をツユクサと書きましたが、ツユクサの前に「サルスベリ」の図があるのを見落としていました。結局、図譜の総枚数は31枚で、彩色図は27枚です。

(こちらが本当の第1図、サルスベリ(部分))

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さて、この実習で目に付くのは、かなり植物重視の教程になっていることです。
まず、冒頭のサルスベリから始まって、ツユクサ、シュウカイドウ、クサギ、ソバ…と身近な植物(昔風にいえば「顕花植物」)の構造と分類の講義が続きます。

(クサギ)

(サンシチソウ)

その後、顕微鏡の構造と取り扱いの学習があって、そこからはノキシノブ、サンショウモ、キノコ類、ヒジキ…といった「隠花植物」の講義と、各種植物細胞(でんぷんや根・茎・葉の組織)の観察が続きます。

(顕微鏡の図)

(カビと根粒菌の観察)

(ネギを素材にした、各種染色法による細胞の観察)

ここまでで全31枚中、23枚の図版が費やされています。
そして、残りの8枚が「動物篇」ということになるのですが、そこに登場するのはヒルとカエルのみです。この図譜が前回推測したように、上野英三郎氏による農科大学の講義ノートとすれば、以上の教程も納得がいきます。(ヒルとカエルの選択も、無脊椎動物と脊椎動物の代表ということでしょうが、いかにも農の営みを感じさせます。)

(ヒルとその解剖)

カエルについては、全部で7図を費やして、内臓から筋肉の構造、神経系や循環系、そして最後に骨格の観察に至ります。

(前回の写真は色が濃く出過ぎています。今日の方が見た目に近いです。)




おそらく仕上げとして、カエルの骨格標本を作って、学生たちは1年間の実習の思い出として各自持ち帰ったのでしょう。

東大のインターメディアテクには、今も古いカエルの骨格標本がたくさん並んでいて、あれは理学部・動物学教室に由来する明治10年代のものだそうですが、その頃から、学生たちはせっせとカエルの解剖に励んでいたんじゃないでしょうか。

(西野嘉章編、「インターメディアテク―東京大学学術標本コレクション」、2013より)

博物学と名物学(前編)2017年10月09日 09時57分23秒

博物の話題が出たので、この頃気になっていることを、少しメモ書きしておきます。

それは日本における博物学のルーツは何か…という問題です。
「もちろん、本草学でしょう」――以前の私なら、そう即答したはずです。

博物学は本草学、すなわち薬草を主とする生薬の学に発し、江戸後期になると、そこから実利を離れた、純然たる自然物への興味が育ち、蘭学・洋学の影響も受けて、多くの動・植物図譜が編まれた。そこで蓄積された知識は、さらに伊藤圭介(1803-1901)らを通して、近代へバトンタッチされ、新時代の動・植学発展の礎ともなった。

…というような図式的理解をしていたわけです。

ウィキペディアの「博物学」の項も、似たような構図で記述していますから、まあ常識的な理解でもあるのでしょう。しかし、上の理解は間違いではないにしろ、事柄の半面に過ぎないことを最近知りました。

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それは、中国文学者の青木正児(あおきまさる、1887-1964)氏の著書に教えられたことです。先日、氏の『中華名物考』(平凡社・東洋文庫、1988/初版は春秋社、1959)を開いたら、その巻頭に以下の記述がありました(強調は引用者)。

 かつて白井光太郎博士の『本草学論考』を読むに、大正二年四月、貝原益軒先生二百年紀念祭における講演「博物学者としての貝原益軒」の速記がある。中にいう、「今日の博物学と先生の時代の博物学とは違つてゐる。其の代りに本草学・名物学・物産学と云ふ此の三つの科目が有つた。この三つを合したものを先づ博物学と云うたのである。…名物学と云ふのは物の名と実物とを対照して調べる、歴史とかいろいろの書物に出て居る所の禽獣草木其外物品の名実を弁明する、此の学問が矢張必要であります。書物などにいろいろの品物が書いてあつても、実物が何う云ふものであると云ふことが分らなくては、真に書物が分つたのではない。名物学と云ふのは昔も必要であつたが、今も必要であると思ふ」云々と。


白井光太郎(しらいみつたろう、1863-1932)は、やっぱり本草学の流れを汲む植物学者で、白井博士曰く、博物学のルーツは本草学ばかりでなく、名物学と物産学もそうなのだ…という指摘です。

このうち「物産学」は、本草学の弟分のようなもので、動植物の分布や天然資源の産出状況など、各種自然物の地理的分布に係る学問です。

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それに対して「名物学」とは、「物の名と実物とを対照して調べる学問」のこと。
つまり、ここでいう「名物」とは、「名物に旨い物なし」というときの「名物」ではなくて、「名と物」の意です。

そして、その名物学に、中国文学者の青木氏が注目したのは、中国伝来の名物学は、自然を研究する学問ではなく、古典のテクスト研究の一分科として、訓詁学と並ぶ存在だったからです。

中国の人々はなべて古典を重んじましたが、時と所を隔てると、古典に登場する動植物や器物の名が、中国の人にもだんだんはっきりしなくなってきます。それを研究して、果たしてその正体が何であるのか、それは今言う所の何に当るのか、それを明らかにするのが名物学です。日本だと、有職故実の「故実」に押し込められていた知識が、漢土では本格的な学問として重んぜられたのでしょう。

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今では全く流行らない名物学(の日本的展開)が、確かに博物学のルーツであったことを理解するために、その具体例を見てみます。

(この項つづく)

博物学と名物学(後編)2017年10月10日 06時50分14秒

名物学が博物学のルーツと称するに足る…というのは、たとえば以下の書籍に窺うことができます。


岡 元鳳(編)、橘 国雄(画)
 『毛詩品物図攷』(もうしひんぶつずこう) 全7巻(草/木鳥/獣虫魚に3合冊
 平安杏林軒・浪華五車堂、天明5年(1785)刊

『毛詩品物図攷』とは、「毛詩に登場するモノたちの絵入り解説書」といった意味。
そして「毛詩」とは、周代に成立した中国最古の詩集・『詩経』の別名です。日本でいえば万葉集みたいなものですが、中国では時の流れと共に経典扱いされて、『詩経』の名を得ました。

何せ3000年近く前に詠われた古詩ですから、その言葉遣いも、詠い込まれた事物も、後代の人にとっては難解な点が多く、だからこそ有り難味があったのかもしれません。

ともあれ、この本はその『詩経』に出てくる動・植物を、絵入りで考証した本です。
作者の岡 元鳳(おかげんぽう、1737-1787)は、江戸中期の儒学者・医師。
この本は近世の日本で成立した、日本人向けの本ですが、内容的には古来中国で編まれた『詩経』の注釈書を引用しながら、それに和名を当てる…という作業を基本にしています。

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オオバコの図。『詩経』での名は「芣苢(フイ)」。
岩波の「中国詩人選集」に収められた『詩経国風 上』(吉川幸次郎注)によれば、『詩経』の原詩は以下のとおりです(四句三連から成る詩の冒頭四句)。

 采采芣苢  芣苢(ふい)を采(と)り采(と)り
 薄言采之  薄(いささ)か言(わ)れ之を采る
 采采芣苢  芣苢を采り采り
 薄言有之  薄か言れ之を有(も)つ

吉川博士の訳は「つもうよつもうよおおばこを。さあさつもうよ。つもうよつもうよおおばこを。さあさとろうよ」。

オオバコが不妊症の治療薬とされたことから、後人はいろいろ深読みしたようですが、元は農村の生活から生まれた、簡明素朴な歌なのでしょう。

挿絵の脇に記された本文を読むと、作者・元鳳は、「毛詩」の名の起こりともなった、秦末~漢初の学者・毛亨による注釈「毛伝」を引きつつ、「芣苢」とは「車前」の別名であり、日本でいう車前草(オオバコ)のことである…と説いています。

まあ、くだくだしいといえば、くだくだしいのですが、名物学とは元来そういったものです。

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こんな調子で、本書にはいろいろな動植物が登場します。

(サソリ)

(左:ハリニレ、右:シダレヤナギ)

(左:クリ、右:ハシバミ)

クリの解説を読むと、先行書を引いて「日本産の栗では丹波産のものが上等とされる。鶏卵ほどに大きく、味も良い」といった、雑学的なことも書かれています。

そして、何と言っても極め付きは…


このワニの図。

おそらくモノの方は、中国に住む「ヨウスコウワニ」だと思うのですが、作者・元鳳はこれに「カアイマン」を当てています。本来のカイマンワニは南米に住み、カイマンという言葉自体、スペイン語ないしポルトガル語に由来するらしいので、これは相当ハイカラな知識です。

それにしても、古詩の注釈に、ワニの液浸標本が登場するというのが驚き。
(これは西洋式の液浸標本の、最も古い図かもしれません)。

この辺までくると、名物学が本草学と合体して、それが博物学の祖となったことが、自ずと納得されます。

小さな星座早見盤2017年10月11日 18時52分47秒

ドイツ南部、スイスとの国境・ボーデン湖に近いところに、ラーベンスブルクの町があります。この小さな町で、主に児童書を手がけていたのが、「オットー・マイヤー社」。

同社は今も健在で、最近はボード・ゲームやパズルが主力商品だそうですが、そのかわいらしい旧社屋は、現在「ラーベンスブルク博物館」に改装されています。

(オットー・マイヤー社・旧社屋。独語版wikipediaより)

この小さな町の、小さな出版社が出した、小さな星座早見盤を見つけました。

(使用説明書と、早見盤が入った外袋)


袋の中には縦長の早見盤本体が入っています。
なぜ縦長かといえば、この小さな星座早見を、いっそう小さくするために、本体が二つ折りになっているからです。


(広げたサイズは、約12.5cm四方)


星図は4等星まで表示。作られたのは1880年代と思います。

当時、こんな星座早見をポケットにしのばせた小さな天文家が、あちこちで星を眺め、夢と想像力だけは大きく――無限に大きく――膨らませていたのでしょう。
そう思うと、この早見盤がいっそう愛らしく、いとしく思われます。

飛べ、スペース・パトロール2017年10月13日 06時52分33秒

くるくる回るのは星座早見のみにあらず。


1950年代のルーレット式スピン玩具。アメリカから里帰りした日本製です。


紙製の筒箱の脇から突き出た黒いボタンをプッシュすると、


スペースパトロールの乗った宇宙船が、クルクルクル…と高速回転し、やがてピタッと目的の星を指し示します。

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初の人工衛星、ソ連のスプートニク1号が飛んだのが1957年。
それに対抗して、アメリカがエクスプローラー1号を打ち上げたのが1958年。

ここに米ソの熾烈な宇宙開発競争が始まり、わずか12年後(1969年)には、有人月面探査という格段の難仕事を成し遂げるまでになりました。

こうした現実の技術開発を背景として、更にその先に予見された「宇宙旅行」「宇宙探検」に胸を躍らせ、SFチックな「宇宙ヒーロー」に喝采を送ったのが、1950~60年代、いわゆるスペース・エイジの子どもたちでした。

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上の玩具を作ったのは、もちろん子どもではなく大人ですが、そこはかとなく当時の子どもたちの気分を代弁しているかなあ…と思えるのが、「惑星の偉さの序列」です。

まずいちばん偉いのは何と言っても火星で、火星は100点満点。
今でも火星は人々の興味を引く天体でしょうが、この火星の突出した偉さというか、崇めたてまつる感じが、まさに時代の気分だと思います。

火星に次いで偉いのは、太陽系最大の惑星・木星80点、そして土星50点。
金星はややロマンに欠けるのか40点どまり。
さらに、ごく身近なは30点で、地球はなんと0点です。

スペース・エイジの子どもたちの憧れが、どこに向いていたかを窺うに足る数字です。と同時に、当時の「宇宙」イメージが、いかにコンパクトだったかも分かります。