博物学と名物学(後編)2017年10月10日 06時50分14秒

名物学が博物学のルーツと称するに足る…というのは、たとえば以下の書籍に窺うことができます。


岡 元鳳(編)、橘 国雄(画)
 『毛詩品物図攷』(もうしひんぶつずこう) 全7巻(草/木鳥/獣虫魚に3合冊
 平安杏林軒・浪華五車堂、天明5年(1785)刊

『毛詩品物図攷』とは、「毛詩に登場するモノたちの絵入り解説書」といった意味。
そして「毛詩」とは、周代に成立した中国最古の詩集・『詩経』の別名です。日本でいえば万葉集みたいなものですが、中国では時の流れと共に経典扱いされて、『詩経』の名を得ました。

何せ3000年近く前に詠われた古詩ですから、その言葉遣いも、詠い込まれた事物も、後代の人にとっては難解な点が多く、だからこそ有り難味があったのかもしれません。

ともあれ、この本はその『詩経』に出てくる動・植物を、絵入りで考証した本です。
作者の岡 元鳳(おかげんぽう、1737-1787)は、江戸中期の儒学者・医師。
この本は近世の日本で成立した、日本人向けの本ですが、内容的には古来中国で編まれた『詩経』の注釈書を引用しながら、それに和名を当てる…という作業を基本にしています。

   ★


オオバコの図。『詩経』での名は「芣苢(フイ)」。
岩波の「中国詩人選集」に収められた『詩経国風 上』(吉川幸次郎注)によれば、『詩経』の原詩は以下のとおりです(四句三連から成る詩の冒頭四句)。

 采采芣苢  芣苢(ふい)を采(と)り采(と)り
 薄言采之  薄(いささ)か言(わ)れ之を采る
 采采芣苢  芣苢を采り采り
 薄言有之  薄か言れ之を有(も)つ

吉川博士の訳は「つもうよつもうよおおばこを。さあさつもうよ。つもうよつもうよおおばこを。さあさとろうよ」。

オオバコが不妊症の治療薬とされたことから、後人はいろいろ深読みしたようですが、元は農村の生活から生まれた、簡明素朴な歌なのでしょう。

挿絵の脇に記された本文を読むと、作者・元鳳は、「毛詩」の名の起こりともなった、秦末~漢初の学者・毛亨による注釈「毛伝」を引きつつ、「芣苢」とは「車前」の別名であり、日本でいう車前草(オオバコ)のことである…と説いています。

まあ、くだくだしいといえば、くだくだしいのですが、名物学とは元来そういったものです。

  ★

こんな調子で、本書にはいろいろな動植物が登場します。

(サソリ)

(左:ハリニレ、右:シダレヤナギ)

(左:クリ、右:ハシバミ)

クリの解説を読むと、先行書を引いて「日本産の栗では丹波産のものが上等とされる。鶏卵ほどに大きく、味も良い」といった、雑学的なことも書かれています。

そして、何と言っても極め付きは…


このワニの図。

おそらくモノの方は、中国に住む「ヨウスコウワニ」だと思うのですが、作者・元鳳はこれに「カアイマン」を当てています。本来のカイマンワニは南米に住み、カイマンという言葉自体、スペイン語ないしポルトガル語に由来するらしいので、これは相当ハイカラな知識です。

それにしても、古詩の注釈に、ワニの液浸標本が登場するというのが驚き。
(これは西洋式の液浸標本の、最も古い図かもしれません)。

この辺までくると、名物学が本草学と合体して、それが博物学の祖となったことが、自ずと納得されます。

コメント

_ S.U ― 2017年10月10日 20時23分18秒

 現在、「万葉集の植物」といった類いの本が出ていますが、そういうのの走りは名物学の走りにまで遡るのですね。こういう詮索は、生態学から名辞学、国際交流まで応用の幅が広く重要であると思います。

 ところで、そもそも、日本で、動植物の漢名を、楠をくすと読み、欅をけやきと読み、蒲公英をたんぽぽと、合歓をねむと、鹿をしかと、海豚をいるかと読んだのには、中には日中語で違い、国字の場合もあるんでしょうが、おおむね対応しているとすると、相当の照合の努力があったと思うのですが、こういうのは昔から日本人に専門家がいて対応作業を行ったのでしょうか。素人なら、日中産の2個体を並べて比べるくらいでないと照合できないと思いますが、素人に並べる機会がそうあったとは思えません。

 それから、江戸時代の文献ということで平賀源内を思いつきました。彼は、本草学の出身で、物産展に力を入れ、「東都薬品会」(1762年)は、多くが舶載であった薬石等について、対応する国産品を収集するという名目で開いています。

http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/bunko08/bunko08_b0176/

これを、名物学的観点とし、源内は、本草、物産、名物と三拍子揃っていたと言えないでしょうか。 一般人は源内を高く評価し、研究者においてはそれほどでもないという傾向があるようですが、やはり博物学の本質は早くつかんでいたのではないかと思います。

(余談の疑問)
 「旨い物なし」と言われた名物にも、最近はたいへん美味な物が多く現れ、名古屋で味噌カツを食べ歩き、広島でもみじ饅頭を買いあさり、宇都宮、浜松で餃子の発展普及史を探るような「名物学」もあってよいものと思いますが、こういうのは何と呼べばよいのでしょうか。

_ 玉青 ― 2017年10月11日 20時02分04秒

これは興味深いですね。
中国の文字をどう訓ずるか、どこにでも生えてる松や梅や稲なんかは良いとして、無数にある動・植物の名前について、その一つ一つに訓を当てようと思ったら、後世の分類学的厳密さは求めないにしても、ある程度、本邦産の動・植物の知識がないと、訓を当てようにも当てようがないですよね。

となると、そうした訓読み成立の過程で、「プロト博物学」みたいなものが先ずあったと想像されます。そして、それを担った「プロト博物学者」こそ、昔の辞書編纂者だったんじゃないでしょうか。

中国に目をやれば、中国の博学の士だって、動・植物万般に通じていたとは思えませんから、結構あいまいなところは多かったはずです。さらには地方名も多かったでしょう。それでも、徐々に物と名の一致が進んだのは、辞書という形で、知識の統一化が図られたからに他なりません。

日本でも事情はまったく同じで、中国から舶載された辞書をお手本に、特に平安期には本朝独自の辞書がいろいろ作られましたが、その過程で中国の辞書に載っているモノを、何と訓ずるべきか、辞書編纂者はあらゆるツールやソースを使って、日本での対応物探しに躍起になったことでしょう。その作業は平安時代だけで終わらず、漢名に標準的な訓みを当てる努力は、近世の考証家(ないし本物の博物学者)にまで営々と引き継がれましたから、本当に先人の努力には頭が下がります。

   +

ときに源内はプロデュースがうまいですね。
ああいったイベントが、近代の博覧会の祖であり、それが常設化して博物館ができた…という見方もあって、それはそれでスゴイですが、それだけにとどまらず、全国の博物オタクを動員して一種の「祝祭空間」を作り上げた手口に、現代の「博物ふぇすてぃばる」(および他の類似イベント)に通じる斬新さを感じます。

ともあれ源内の営みは、本草学・物産学に名物学的要素をも取り入れて、近世博物学の幅を大いに広げたものと言えそうです。(名物学の例として記事で取り上げた本は、源内よりもさらに後のものですから、素材こそ中国の古典ですが、本来の名物学より一層博物学寄りというか、自然科学志向が強い立ち位置にあるかもしれません。)

   +

(余談の回答) そうですねえ…名物と物産の間をとって「名産学」が無難でしょうか。
でも、流行りの言い方だと「ご当地グルメ学」ですね。

_ S.U ― 2017年10月11日 21時06分47秒

>「プロト博物学者」
 ご考察ありがとうございます。「プロト博物学者」=「辞書編纂者」説ですね。辞書を作る時には、動植物の対応がわからないと困ったでしょうね。問題は、動植物の鑑定ができる人が、日常言葉も含めて言葉を集積する仕事に長けていたかどうかということです。人の性格としてはどうなんでしょう。
 私は、動植物学者の遣唐使がいたとか、日本に来て日本の自然の見て故郷を懐かしがってばかりいる渡来中国人が頑張ったとかいう説を考えましたが、そんなのはないでしょうか。

>源内はプロデュース
 源内は、玄白に「非常の人」と呼ばれたくらいですから、同時代には、いろんな立場の人に高く評価されていたと思います。研究者としての評価は今一つなのですが、今後は、日本における科学精神の創始者の一人として、真面目に見直す必要があろうかと思います。

>「名産学」
 「名産学」が真面目でいいのですが、「ご当地グルメ学」のほうがピンと来るのが、困ったものです。

_ 玉青 ― 2017年10月13日 07時01分09秒

現存する最古の漢和辞典と聞いて、平安時代前期の『新撰字鏡』をちらっと見てみたのですが、既にかなり細かい言い分けがされていて、生物種の訓はすでに当時かなり完成段階にあったことを知りました。その知識が、平安後期の『和名類聚抄』なんかに受け継がれて、知識階級に急速に広まっていったのでしょう。

ただ、『和名類聚抄』を眺めて思ったんですが、あれはモノを既に知っている人ならば、説明を読んで「ははーん」と思ったでしょうが、あの簡単な説明だけで、モノを特定できた人は皆無だと思います(編者の源順自身、分かっていなかった疑いが濃いです)。

まあ、都人士にとって、細かい動・植物名の言い分けは些細なことで、もちろん馬を鹿と取り違えたり、柳桜をこきまぜるような態度は愚とされたでしょうが、それ以上のことはあまり気にしていなかった気がします。これは和名の区別もそうですし、漢名の正確な同定についても同様で、たとえ詩文に登場する動・植物の名を取り違えても、多少頓珍漢な結果にはなりますが、特に実害はないので、それで良しとされたんじゃないでしょうか。(名称の取り違えが起きて困るのは、薬草の同定とか、交易の場面ぐらいでしょう。)

よく知られた例では、「鮎」は本来「ナマズ」を意味する字ですが、日本では古くから「アユ」のこととされ、それで特に不都合はありませんでした。あるいは、「柏」は柏槇(ビャクシン)の称が示すように、本来針葉樹の仲間ですが、日本では全く別の「カシワ」が当てられ、これまた今に至るまで訂正されずに来ています。

辞書のユーザーの側もそんな塩梅ですから、辞書編纂者の方も、己の無知をとがめられる心配なしに、存分に鋏と糊の仕事に専念できたのでしょう。

要は、唐土は知らず日本では、欅、楡、橅、橡…違った漢字に違った訓が当てられ、それらを正しく読めることこそが重要であり、ほぼそれだけが重要なことであった――極論すればそう言えるのではないでしょうか(現代でも、普通の人にとっては似たようなものでしょう。ケヤキ、ニレ、ブナ…とすらすら読める人でも、樹種の区別がついているかは大いに疑問です)。

   +

ここで話を最初に戻して、そもそも『新撰字鏡』を編んだ僧侶は、どこからその訓を持って来たのかという問題があります。

これまた本当のことは分からないのですが、もちろんS.Uさんが推測されるように、彼我の人的交流の中で、直接モノを目にして名称を確認することもあったでしょう。あるいは、地方官僚は、貢租の関係で山民・漁民・農民と接する機会が多かったですから、土地土地の有用動植物について、彼らの採録した名称(多くは地方名)が、地方→中央のパイプを通じて伝わることも多かったでしょう。そうした断片的な知識を、苦労して類纂した奇特な人が、昔の辞書編纂者だったのではないか…というのが、そもそも私が考えたことでした(言うなれば、彼らは「元祖百科全書派」ですね)。

   +

ときに、『和名類聚抄』を眺めて、心底不思議に思ったのは、「象」に「きさ」(象潟の‘きさ’)の和名があることです。注釈には「獣の名。水牛に似て耳大きく鼻長く目細し。牙の長き者なり」と解説されているので、まさにゾウのことなんですが、なんで誰も見たことのない動物に、立派な和名があるのか? 訓読みの謎はまことに深いと思いました。

_ S.U ― 2017年10月13日 18時22分18秒

いろいろなレベルがあって、細かい違いはどうでもよい都人、詳細が気になる材料の職人、その間を取り持つ辞書編纂人といろいろいたということですね。
 
 ところで、私は、こういう状況では、どうしてもいつの時代でもあったであろう小間物屋の訪問販売が気になりまして、シーンが浮かんできます。

「さすがご主人、お目が高い、恐れ入りましてござります。はい、舶来のものは、見た目は同じでございますが、使い込んでもコシがおとろえず、長年お使いいただくには結局お得でございます。同じ○○ですのに妙なものでございます。それでも、向こうのものは、多少、種類が違うのか、顔が四角く、こちらのものより目つきなども厳しいと申します。もっともこれは聞いた話で、首のついたものは、わたくしも、問屋でも職人のところでもついぞ見たことがございません。」

 歴史小説の読み過ぎでしょうか。

+ + + + +

えぇっ-、「きさ」は、ゾウの和名だったのですか。私は、何となくですが、「象」のもうひとつの意味である「かたち」に関連して、何か見た目が際立ったいるようすのことばかなと思っていました。もっとも、ゾウの見た目が際立ったいることは間違いないです。

 ほかに、虎とか鰐とかありますね。もっとも鰐はもとはサメの一種だそうですが、虎はどうなんでしょうか。清正以前にも毛皮が輸入されていたでしょうが、製品の輸入品に和名がつくとは思えないので、虎にしても(象にしても!?)一定数の生きた個体が原始日本人の身近(大陸でかもわかりません)にいたのではないかと思います。

_ 玉青 ― 2017年10月13日 20時33分23秒

どうも頑張って書いたわりに、読み返すと文意が我ながらはっきりしないのですが、今の私にはあれで精いっぱいなので、どうぞご容赦ください。

>歴史小説の読み過ぎでしょうか

「あはは、読み過ぎでしょう」
…と笑いかけたときに、小間物屋でピンときました。

トラは朝鮮半島にもいましたから、言葉としての「トラ」も、朝鮮語に由来する可能性が高いですが、それが一般的な語彙にまでなったのは、実際、昔の人が虎に接する機会があったからでしょう。ただし、それは生きたトラではなくて、工芸品としての「虎の皮」だったと思います。つまり、舶載された虎の皮とともに、「トラ」という言葉も入って来たという説で、自分でいうのも何ですが、これはかなり蓋然性が高いです。

「すると…。ははーん、なるほど」…というわけで、「キサ」もきっとそれだと思います。
つまり、生きた象に接する前から、日本人は舶載された工芸品(工芸素材)としての象牙に親しんでいたので、「キサ」とは元々象牙のことであり、後に象牙の持ち主であるゾウそれ自体も「キサ」と呼ぶようになったんじゃないでしょうか。

下の国学院のサイトでは、「キサ」とは木目模様を意味する古語であり、象牙に見られる木目模様を捉えて「キサ」と称するのだ、という説を挙げています。
http://k-amc.kokugakuin.ac.jp/DM/detail.do?class_name=col_dsg&data_id=68492

_ S.U ― 2017年10月13日 22時40分45秒

>言葉としての「トラ」も、朝鮮語に由来する可能性が高い~舶載された虎の皮とともに
 おぉ、その可能性はありますね。
 でも、朝鮮語で虎をトラと言わないことは確認済みで、「ホランイ」と言います。調べて見ますと、この「ホランイ」がトラになったという説がありますが、朝鮮語は子音の種別があるので、朝鮮語に接している日本人が、ホラをトラと聞き間違えることはないでしょう。皮もトラとは関係ないし・・・ 縞(模様)はチュルですが、これがトラかもしれません。もちろん朝鮮人がトラ皮のことを縞と呼ぶことはないでしょうが、日本人の小間物屋が、トラ皮に「チュル皮」という商品名を付けたかもしれません。「縞皮」という意味なのに、チュルが虎のことと思われたという説です(話半分です、話半分)。

_ 玉青 ― 2017年10月14日 11時20分34秒

現代韓国語の「ホランイ(虎)」は、古語で「ホーラ」となることは、S.Uさんも既に関連ページでご覧になったと思います。ここに1つカラクリがあって、日本と最も交流の深かった半島西南部の上代方言では、/h/の音が硬口蓋化して、しばしば/h/→/c/の音韻変化が生じたため、「ホーラ」が「チョーラ」と聞こえた可能性があるのだそうです。
…というのは全部嘘です(今日の記事につづきます)。

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