このブログのこと ― 2018年02月04日 07時21分52秒
13年目に踏み込んだ今思うのは、このブログの行く末です。
「最近はどうもくたびれた」と言うと、「そんなにくたびれるなら、サッサとやめればいいじゃないの」と思われるかもしれません。実際、アクセス数も低落傾向にあるので、この辺が止め時かな…と自分でも思います。(読む人が少ないのは、端的に言って内容がつまらないからでしょう。)
とはいえ、そうあっさり止められない理由が、いくつかあります。
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1つには、この「天文古玩」は、自分用の備忘を兼ねている部分があります。いろいろ手にした品の素性をネットに上げておけば、いつでも参照できて便利だし、仮に私が頓死しても、残された家族が「訳の分からないガラクタ」を前に途方に暮れる苦労が、少しは軽減されると思うのです。つまり、コレクションのアーカイヴ化を狙っているわけです。
2つ目は、ブログそのものは万人に開かれているにせよ、文章を綴る時、私の場合、特定の人の顔を思い浮かべて書いているときが、少なからずあります。いわばブログの形をとった隠されたメッセージですね。その人たちが今どうされているのか、そもそも存命されているのか、それすらも不明ですが、いつか彼ら/彼女らの目に触れる可能性があるうちは、書くのを止めたくはないのです。他人から見ればどうでもよいことでしょうが、個人的には決して小さくない理由です。
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あるいは、ブログという古い革袋を脱ぎ捨てて、他のネット媒体に移行する手もあるのかもしれません。でも、いろいろ考えると、私の書くものは、やっぱりブログという形式しか採り得ないと思います。
ツイッターやインスタグラムでは、もちろん無理です。
昔ながらの文字文化に親しんでいる人は、Facebookを利用することが多いのかもしれませんが、両者は書き手の心持ちにおいて、ちょっと違う気がします。Facebookは、人とつながることに主眼があって、文章を書くことは、それに従属している印象があります。したがって、そこで綴られる文章は、常に人の目を意識した文章です。
それに対して、ブログは自他を突き放したところがあります。
実際、ブログはSNSと違って、読み手が自発的に訪れない限り、他者の目に触れることはありませんから、書きたいように書き、読みたい人が読めばよいという、ある種の潔さがあります。そこでは、文章を書くこと自体が目的であり、人とのつながりは副次的な要素です。少なくとも、2018年現在のブログは、そういうものになっています(ここでは、「アフィリエイトで小遣い稼ぎ」のような行為は、切り離して考えてください)。
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畢竟、ブログとは自分のために書くものでしょう。
では、それをわざわざネットに上げる意味は?と言えば、ちょうど家で勉強するよりも図書館で勉強するほうがはかどるように、他者の<存在>を意識するだけでも、ちょっと背筋が伸びて、文章も締まるからだ…と自分では思います。
なんだかんだ言って、身辺のごたごたを整理するため、私はブログを書くという行為を必要としているのです。ですから、くたびれつつも、もう少し「天文古玩」は続きます。
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