鉱物学のあけぼの…『金石学教授法』を読む(2) ― 2018年02月24日 11時19分28秒
前回、本書は松川半山の遺稿を元に、大槻如電が増補改訂したものと記しました。
ただし、如電は一方で、半山が書き残したのは「僅ニ金石ノ色形等ヲ抄記セシノミ」に過ぎず、「余ノ増補スル所ハ十ノ八九ニ居レリ」とも書いています(「例言」)。
如電はドイツ帰りの化学者、熊沢善庵(1845-1906)の力を借りながら、自らの勉強も兼ねて、精力的にこの改訂作業に当たりました。その努力は多とすべきでしょう。
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さて、本の中身ですが、一読して感じるのは、その博物誌的スタイルです。
鉱物学の解説書といえば、まず鉱物をいかに理解するか、鉱物学の基礎概念を述べる総論的な記述があって、その後に個々の鉱物を、その体系に沿って叙述する各論的記述に進むのが常道と思いますが、本書では総論はほんの付けたりで、大半が各論に費やされています。
具体的には、例えばこんな具合です(原文は漢字カナ交じりですが、地の文のカナをかなに改めました。また右ルビはカナ、左ルビはかなで表記)。
「黄玉石(ワウギョクセキ)は洋名を「トパース」と云ふ 其色は淡黄(タムワウ/うすき)の者多し 故に此名あり 其晶形は斜方柱状なり ○ 此石も古は本邦の産(さん)なかりしが近来始て近江栗本(クリモト)郡より発見(ハッケン/みつけだす)して無色(ムショク)淡緑(タムリョク)茶褐(チャカツ)の三種を出す 其無色透明の者は清水の如し 其品淡緑の者と共に六七分の小顆(セウクワ)のみ 茶褐色の者は其色単純(タンジュン)ならず且不透明なれば寸以上の者を獲ると雖ども亦砕きて磨砂となすべきのみ 黄玉鋼玉は共に装飾(サウショク/かざり)の用に供せり」
あるいは瑪瑙であれば、
「瑪瑙(メノウ〔原文ママ〕)は通常赤色にして光輝あり 其状は馬(ムマ)の脳髄(ナウズヰ)の如くなりとて此名ありと云ふ 又各種の者あり其斑紋(ハンモン/もやう)の層(ソウ/かさね)を成して渦状(クワジャウ/うづ)を現はす者を縞瑪瑙(シマメナウ)と云ふ 又他石(タセキ/ほかいし)と混交(コンカウ)して雲様(ウンヤウ/くも)葉様(エウヤウ/このは)を含む者を苔瑪瑙(コケメナナ〔原文ママ〕)と云ふ 又白色にして玲瓏(レイロウ/ひかりとほる)」たる者を珂石(カセキ)白瑪瑙(シロメナウ)と称し或は星状(セイヂャウ/ほし)の小粒(セウリフ)を含(フク)みて数種の石質相交(マジハ)る者を血星石(ケッセイセキ)と呼ふ ○ 此水晶瑪瑙は古より服飾(フクショク/きものかざり)其他の器玩(キクワン/うつはもてあそび)に製して世人の常に賞美(シャウビ)する所の者たり」
いずれも名称の由来、色・形、産地や産状、用途等が列記されています。
これは図鑑や図譜の類の解説もそうですし、特に異とするには足りませんけれど、でもこれが図鑑ではなくて、『金石学教授法』を名乗る書物であることを考えれば、やっぱりその博物誌的な(あるいは文学的な、あるいは雑学的な)叙述スタイルが、嫌でも目につきます。(何となく『歳時記』の季語の解説を読んでいるような気分です。)
この本を読んだ人は、石の名称や珍奇なエピソードは記憶に残っても、学問としての<鉱物学>については、おそらく何も知らないままでしょう。何せ「発見」に「みつけだす」とルビを振らないと意味が通りにくかった時代ですから、それも止むをえません。それに、ここに書かれた内容こそ、当時の人々の関心の在り処を示すものに他ならないのでしょう。
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他方、本書で「総論」に当たる部分は、冒頭のわずか5ページのみですが、現代の我々の関心を引くのは、むしろこちらです。
そこでは、石には金石(今いうところの「鉱物」)と岩石の区別があること、鉱物には6つの晶系があること、その堅度(同じく「硬度」)は10段階に区分されること、種類に応じてその比重が異なること、鉱物の基準色は、「白・黝(ユウ)・黒・青・緑・黄・赤・褐」の8色であること、そして吹管や薬品による成分分析を経て、鉱物は「石類・鹵(ろ)類・燃鉱・金鉱」の4種に区分されることを略述しています。(最後の四分法については、過去記事を参照)
現代の鉱物趣味に通じる、「理の美しさ」の萌芽がここに見て取れます。
そして、そこに掲げられた晶系図は、国内では最も古いものの1つでしょうし、
鉱物の基準色を示す図は、まさに我が国最初の「彩色鉱物画」だと思います(違っていたらごめんなさい)。
この図は、同時代の海外の鉱物書を参考にしたらしく、手彩色を施した上に、光沢を出すためのゴム引きがされており、なかなか凝っています。
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本書が出版されたのは、明治17年(1884)。
こうして蒔かれた鉱物趣味の種が芽を吹き、12年後には「元祖石っ子」の宮沢賢治が、岩手に生まれることになります。
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▼閑語(ブログ内ブログ)
朝鮮総連銃撃事件を耳にして、ただちに連想したのは、ナチズムに抵抗したマルティン・ニーメラーの有名なメッセージです(※)。
最初、彼らは共産主義者に矛先を向けた
だが、私は声を上げなかった
私は共産主義者ではなかったから
次いでユダヤ人に矛先が向いた
だが、私は声を上げなかった
私はユダヤ人ではなかったから
それから労働組合員に矛先が向いた
だが、私は声を上げなかった
私は労働組合員ではなかったから
さらに矛先はカトリック教徒に向いた
だが、私は声を上げなかった
私はプロテスタントだったから
ついに矛先は私に向いた
そして、声を上げる者はもはや誰も残っていなかった
だが、私は声を上げなかった
私は共産主義者ではなかったから
次いでユダヤ人に矛先が向いた
だが、私は声を上げなかった
私はユダヤ人ではなかったから
それから労働組合員に矛先が向いた
だが、私は声を上げなかった
私は労働組合員ではなかったから
さらに矛先はカトリック教徒に向いた
だが、私は声を上げなかった
私はプロテスタントだったから
ついに矛先は私に向いた
そして、声を上げる者はもはや誰も残っていなかった
排外と全体主義。理性の消失と言論の無化。
最近の閉塞的な状況を前に、声を上げることの重要性を痛感しています。
(※このメッセージは、書かれた詩句として発表されたものではないので、いろいろなバージョンが存在します。上に挙げたのは、ニューイングランド・ホロコースト記念館に掲げられた英語版の私訳です。)
コメント
_ S.U ― 2018年02月24日 15時15分24秒
_ 玉青 ― 2018年02月25日 10時11分08秒
どうなんでしょうね、漱石の『猫』に出て来る迷亭の叔父さんのように、明治の後半に入っても「江戸の残党」みたいな人はいたと思いますし、江戸との連続性の中で営まれた庶民生活もあったと思うのですが、開化の学問を世に問おうとする人は、むしろ前代との違いを際立たせることに力を注いだのではないでしょうか。庶民向けに、方便として陰陽説を用いた著者は依然いたでしょうが、生意気な書生連からすれば、それは既に嗤うべき迷妄と化していたような気もします。(ちょっと話を単純化し過ぎたかもしれません。実態はもっと多面的だったかも。)
_ S.U ― 2018年02月25日 12時19分06秒
洋学が優勢になった幕末以後は、古くさい題目の叙文は完全に建前だけのものになったと思いますが、そういう考えは平均的な読書の心の深層にには、明治になっても残っていたと思います。また、西洋科学が入ってきたといっても陰陽説の説く万物の根源が明らかになったわけではない、と見抜いた知識人もきっといたことでしょう。建前が先に消えたか、後から消えたかという問題ですね。
そんなに資料もないのですが、早稲田大学古典籍データベースで10冊程度広い意味での自然科学書を見てみましたところ、だいたい幕末の土壇場のころには、漢文の叙文はあっても、学問の概要が説明されていて、建前の原理のお題目のようなことはほとんど書かれていませんでした。(明瞭に西洋書のの翻訳とうたっている本はその確率が高くて当然なので除いています)。おっしゃるように、著者が、自分は西洋開明派であると明瞭にしたものなのでしょう。分野にもよるでしょうが、開国の頃、案外、早々と衰えていったのかもしれません。逆に後代まで迷妄が残っているような名著を探すのがおもしろいかもしれません。
そんなに資料もないのですが、早稲田大学古典籍データベースで10冊程度広い意味での自然科学書を見てみましたところ、だいたい幕末の土壇場のころには、漢文の叙文はあっても、学問の概要が説明されていて、建前の原理のお題目のようなことはほとんど書かれていませんでした。(明瞭に西洋書のの翻訳とうたっている本はその確率が高くて当然なので除いています)。おっしゃるように、著者が、自分は西洋開明派であると明瞭にしたものなのでしょう。分野にもよるでしょうが、開国の頃、案外、早々と衰えていったのかもしれません。逆に後代まで迷妄が残っているような名著を探すのがおもしろいかもしれません。
_ 玉青 ― 2018年02月27日 07時13分45秒
まあ、私がここでこれ以上想像で語っても益はありませんから、ここはぜひS.Uさんの実証的探索を期待したいです。(…でも、益がないと言ったそばからなんですが、明治20年代後半、日清戦争の前後に、節句飾りのような旧来の習俗が俄かに息を吹き返した時期があったらしく、維新直後よりも、むしろそうした「保守反動」の時代に、陰陽説を力説する人が再出現したかもしれませんね。)
_ S.U ― 2018年02月27日 09時19分50秒
節句飾りと言えば、例えば旧正月、中国、韓国では春節がありますが、日本では廃れてしまいました。また、日本でも、廃れた時期は地方で大きな差があり、大正以前に廃れたところもあれば、高度経済成長期まで残っていたところもあります。「保守反動」で復活することも含めて、日本では、制度で消えても心の深層にはしぶとく残っている、または、逆に深層に残っていても制度上はアッサリ消える、という傾向が強いのだと思います。中国や韓国では、深層にあるものは外交ですら消えないのとえらい違いです。
あまり益のある議論はできず、上面の検索で片付く問題ではないことがわかりました。この鉱物学、結晶学の軽視の問題も、「物質科学普及民俗学」の関連として心に留めておきたいと思います。
あまり益のある議論はできず、上面の検索で片付く問題ではないことがわかりました。この鉱物学、結晶学の軽視の問題も、「物質科学普及民俗学」の関連として心に留めておきたいと思います。
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江戸時代の和本には、漢文で書かれた叙文があって、自然科学書であっても、書の由縁とともに、「夫万物根元者陰陽也・・・」とかなんとか東洋哲学の実用性のないお題目から始まっているものですが、こういう叙文は、明治のいつ頃まであったのでしょうか。これが消えた頃から、西洋科学的になってきたのではないかと想像します。