エジプトの星(1)2018年03月05日 07時02分09秒

前回の記事につづいて土産物の話。
エジプトに行ったことはないですが、現地の土産物屋に行くと、こういうものを売っているらしいです。

(みずがめ座とうお座)

ハガキよりもひと回り大きいパピルス片に12星座をプリントしたものです。12星座なので、当然全部で12枚あります。これをパッと見せられたとき、西洋風の12星座をエジプトっぽく描いただけの、京都で言えば新京極あたりで売っている、キッチュな観光土産の類かと思いました。


まあ、安手のお土産であることは間違いないんですが、ただ絵柄に関しては、いい加減な創作ではなくて、本当にエジプトの遺跡に描かれた星座絵を元にしていることを知りました。(だから興味を惹かれて買う気になったのです。)

ちょうど良い折りなので、ここでエジプトと12星座の関係を整理してみます。
(以下は、ほぼ近藤二郎氏『わかってきた星座神話の起源―エジプト・ナイルの星座』(誠文堂新光社、2010)の受け売りです。この本は以前も読んだはずですが、内容が頭から抜けていたので、改めて自分用にメモしておきます。)

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自分の無知を告白すると、エジプト史の基本が頭に入っていないので、私のエジプト理解はかなり頓珍漢です。平均的日本人は、おしなべてそうかもしれませんが、私のエジプトイメージも、ピラミッドとスフィンクスとツタンカーメンの「3点セット」、あるいはそれにクレオパトラを加えた「4点セット」の域を出るものではありません。(言うなれば、「フジヤマ、ゲイシャ、サムライ」的日本イメージのエジプト版です。)

しかし、5000年前のエジプト初期王朝の成立、4500年前、古王国時代における巨大ピラミッドとギザの大スフィンクスの建造、3300年前、新王国時代のツタンカーメン王の治世、そして2000年前、プトレマイオス朝時代を生きたクレオパトラに至るまで、紀元前の世界に限っても、ずいぶん長い時間経過がそこにはあります。

もしクレオパトラが現代に生きていたら、ツタンカーメンは奈良時代の人だし、ピラミッドは縄文晩期の遺跡に相当するぐらいの時を隔てていることになります。(でも、そこにはエジプト独自の文化的アイデンティティがあったように思うので、日本の例を持ち出すよりは、清朝末期の人が隋の時代を思い浮かべたり、いにしえの周の時代をイメージするときの感じに、より近いかもしれません。)

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で、この土産物に登場する星座絵は何かということなんですが、これらは古代エジプトの掉尾を飾るプトレマイオス朝時代に描かれた12星座図がもとになっています。

(デンデラ神殿の天井にレリーフされた天体図。現在はパリのルーブル美術館蔵。

(デンデラ神殿の星座絵の例。近藤二郎氏前掲書に掲げられた線画)

(お土産のパピルスに描かれたおとめ座としし座)

プトレマイオス朝は、エジプトの王朝であると同時に、地中海世界からさらに西アジアへと拡大した、ギリシャ=ローマ文化圏に包摂された王朝だったので、当然ギリシャ由来の(さらに古くはメソポタミア由来の)黄道12星座の考えも採り入れて、それをエジプトチックにアレンジした、こういう星座絵が生まれたわけです。

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「でも、エジプトだって古代天文学が発達した土地で、独自の星座を使っていたわけだよね。それはいったいどうなったの?プトレマイオス朝になって、忽然と消えちゃったの?それに、そもそもメソポタミアって、エジプトのすぐ隣じゃない。ギリシャ経由で黄道12星座のアイデアが入ってくる前に、直接メソポタミアから伝わらなかったの?」

…というように、素朴な疑問がここでいろいろ浮かびます。
そうしたことも、この機会にちょっとメモ書きしておきます。


(この項つづく)

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▼閑語(ブログ内ブログ)

一大疑獄事件にからんで行政府による公文書の改ざん、いや偽造が公然と行われ、さらにそれを「よくあること」と官邸関係者が言い放つ―。恐るべきことです。もはやまともな神経ではありません。およそ世の中に100%の善、100%の悪というのは少ないでしょうが、これは徹頭徹尾不埒な行いで、右も左も関係なしに、怒らないといけません。

というわけで私は相当怒っていますが、事態がこれからどんな推移をたどるか、しっかり見定めようと思います。

今日も歴史を生きる2018年03月11日 14時21分25秒

記事の更新が滞っていますが、諸事情ご賢察いただければと思います。

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今日は「閑語」の拡大版です。

「本来、報道人というのは、同僚を出し抜くこと、他社を出し抜くこと、世間を唸らせることに大いに生きがいを感じる、ケレン味の強い人たちのはずですから、これほどまでに無音状態が続いているのは、それ自体不思議なことです。そこには「寿司接待」とか「忖度」の一語で片づけられない、何か後ろ暗いことがあるんじゃないか…と、私なんかはすぐに勘ぐってしまいます。

〔…〕それでも、ジャーナリストを以て自ら任じる人には、ここらで勇壮な鬨(とき)の声を挙げてほしい。別に高邁な理想で動く必要はありません。ケレンでも十分です。

とにかく唄を忘れて後の山〔←「裏の畑」を訂正〕に棄てられる前に、美しく歌うカナリアを、鋭く高鳴きする百舌を、深い闇夜を払う「常世の長鳴鳥」を思い出して、ぜひ一声上げてほしいと思います。」

…と書いたのが2月17日のことでした。
そして、財務省による文書改ざんという一大スクープを朝日新聞がものにしたのが3月2日。まさにジャーナリストの本懐といったところでしょう。この10日間は、政権にとって最も長い10日間だったはずです。

その後の急展開には驚くばかりです。
世界も日本も絶えず動いていますね。その揺れ動く世界の中で、人々の生きざまや身の処し方を観察していると、自ずと自分のことも省みられて、いろいろな思いが去来します。そして、その中で確かに自分は生きていることを実感します。

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この時季、この状況を前に、ふと口をついて出て来るのは有名な杜甫の詩句です。

  国破れて山河在り
  城春にして草木深し…

唐の年号でいう至徳2年(757)、佞人・安禄山の乱で首都が制圧され、杜甫も賊徒に囚われの身のまま、長安で二度目の春を迎えた折の感慨を詠んだものです。
「破れて」は“敗れて”にあらずして、「すっかり破壊されて」の意。「城」は日本の“お城”ではなく「都城」、即ち首都・長安のことだと、漢文の時間に習いました。

今の場合、安倍という人物が安禄山に相当し、賊徒に恨みを飲んだ杜甫の言葉は、私自身の思いと重なります。そして現代日本の賊徒の首魁は、手負いとなりながら、いまだ抵抗を続ける構えを見せており、まさに「烽火三月に連なる」状況です。

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歴史上の安禄山は、一時「皇帝」を名乗って、空しい権勢を誇りましたが、やがてかつての寵臣に謀られて、悲惨な最期を遂げました。

早春の芽吹きや花々を前に、そんな故事を思い起こして、真の春の訪れを待つばかりです。



エジプトの星(2)…エジプトとメソポタミア2018年03月17日 16時53分42秒

あまりにも醜悪な政権にプロテストして断筆…というわけではなく、もろもろの事情の然らしむるところにより、やむなく断筆っぽい状態にありました。

そもそも、私が断筆しても、世間的には何の意味もありませんし、プロテストしたところで、後から後からプロテストしたいことがどんどん出て来るので、自分がいったい何にプロテストしていたのか、それすら失念しかねない状況です。まったくマトモな相手ではありません。

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さて、記事のほうは「エジプトの星」と題して、次のようなつぶやきとともに終わっていました。

 「でも、エジプトだって古代天文学が発達した土地で、独自の星座を使っていたわけだよね。それはいったいどうなったの?プトレマイオス朝になって、忽然と消えちゃったの?それに、そもそもメソポタミアって、エジプトのすぐ隣じゃない。ギリシャ経由で黄道12星座のアイデアが入ってくる前に、直接メソポタミアから伝わらなかったの?」

上のように呟いたときは、すぐに答えられそうな気がしたのですが、これはなかなかどうして簡単な問いではありませんでした。つまり事は星座に限らないわけで、エジプトとメソポタミアという、近接した地域で発展した古代文明相互の、文化の影響-被影響関係の実相は…という点にまで遡らないと、この問いには答えられないのでした。

そこで、積ん読本の山から『世界の歴史―古代のオリエント』というのを引っ張り出してきて読んだのですが、この一冊の入門書で、私の歴史感覚がかくも大きく変わるとは、予想だにしなかったことです。

古代オリエントの歴史の一端に触れれば、栄光の古代ギリシャといえど、オリエントの歴史絵巻の終わりの方に、ちょろっと出てくるローカルな話題に過ぎないと感じられるし、カール大帝以降のヨーロッパの歴史などは、まるで「現代史」のようです。

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以下は、素人が1冊の入門書から読み取ったことなので、間違っているかもしれませんが、とりあえずのメモとして書き付けます。

まず、一口に「古代エジプト」と言い、また「古代メソポタミア」と言いますが、両者の実態は大きく異なります。

エジプトの地では、長い年月のうちに多くの王朝の興亡がありましたが、それを担ったのは「エジプト人」という1つの民族であり、エジプトの社会は、多年にわたって相対的に純一な社会でした。

対するメソポタミアは、まさに民族の十字路といってよく、人種的にも言語的にも多様な民族が四方から流入しては、前王朝を滅ぼし、支配し、やはては滅び…ということを、100世代以上にわたって繰り返してきました。したがって「古代メソポタミア」という言葉の内実は、何かひとつの色に染まった世界では全くありません。

ただし、文化という点では、メソポタミアの地にも一定の連続性があった…という点で、やはり、「古代メソポタミア」という言葉は意味を持つのです。メソポタミア文明の創始者である、シュメール人が歴史の表舞台から消え、アッカド帝国が興り、バビロン王朝が栄え、アッシリアが巨大な帝国を築いても、新たな支配者たちは、いずれもシュメール人が生んだ文化を連綿と受け継ぎ、発展させました。

そして、多くの異民族がそこに関わったからこそ、メソポタミアの文化は普遍性を獲得し、文化的支配力・伝播力という点では、エジプトを大きく凌駕するものがありました。エジプトのヒエログリフの影響が、地理的に限定されているのに対し、楔形文字が言語系統の差を超えて、古代オリエント諸国で広く用いられたのは、その一例です。

(古代オリエントの歴史舞台。“イラク”と“クウェート”の文字の間に広がる灰褐色のパッチがメソポタミア。点々と続く疎緑地と耕地によって灰褐色に見えています。)

さらにまた、歴史を俯瞰して強調されねばならないのは、古代オリエント世界を彩ったのは、何もエジプトとメソポタミアだけではないことです。それに匹敵する古代文明のセンターだった「アナトリア」、すなわち今のトルコ地方や、それらの各文明を摂取し、それを地中海世界へと伝える上で重要な役割を果たした「レヴァント」、すなわち今のシリア・パレスチナ地方の諸王国の興亡が、古代オリエントの歴史絵巻を、華麗に、そして血なまぐさく織り上げているのです。(メソポタミアの天文知識がギリシャに伝わったのも、アナトリアやレヴァントという媒介者があったからです。)

そうした中で、エジプトとメソポタミアの両文明は、当然古くから直接・間接に接触を続けてきたのですが、エジプトの側からすると、他国の文化を自国に採り入れるモチベーションが甚だ低かった――これが、メソポタミア由来の黄道12星座が、エジプトでは長いこと用いられなかった根本的な理由ではないでしょうか。古代エジプトは、純一な社会であったがゆえに、強固な自国中心主義、一種の「エジプト中華思想」をはぐくんでいたように思います。

エジプトのこうした自国中心主義は、あのデンデラ天文図が作成された、古代エジプトの最末期、プトレマイオス朝時代にあっても健在で、あの図にはメソポタミア由来の星座以外に、カバや牛の前脚など、エジプト固有の星座も数多く描かれています。(そして、エジプト中心主義の崩壊とともに、エジプトの星座は消えていったのです。)

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ときに、メソポタミア時代の星空を偲んで、こんな品を見つけました。

(背景は近藤二郎氏の『星座神話の起源―古代メソポタミアの星座』)

紀元前700~800年頃、アッシリア帝国時代の円筒印章の印影レプリカ。
円筒形の印章に陰刻された図柄を、粘土板上で転がして転写したものです。


中央は古代メソポタミアで愛と豊饒の神として崇敬された女神イシュタル
彼女は金星によってシンボライズされる存在で、後のヴィーナスのルーツでもあります。その冠の頂部で金星が光を放ち、その身の周囲を多くの星が取り囲んでいます。

そして、イシュタルと向き合う人物の頭上に浮かぶ六連星は、プレアデス
さらにその右手には、奇怪な「さそり男」の姿が見えます。彼は太陽神シャマシュが出入りする、昼と夜の境の門を開閉する役目を負っており、その頭上に浮かぶのが「有翼の太陽」です。


古代エジプトでは、野生の動物を神として崇める動物崇拝が盛んでした。
一方メソポタミアでは、天空の星を神々と崇め、エジプト人よりも一層熱心に夜空を観察しました。メソポタミアで天文学と占星術が生まれたのは、その意味では必然だったのでしょう。


(あまり話が深まりませんでしたが、この項一応おわり)

ザ・エフェメラ2018年03月18日 13時57分13秒

エフェメラ、すなわち「消え物」。

日本語で「消え物」というと、お土産や贈り物を選ぶときに、消費すればなくなるお菓子なんかをイメージして、「まあ、消え物がいいんじゃないの」…とか言うときに、もっぱら使うのかもしれません。

でも、古物業界では、チラシやパンフレットのように、本来その場限りで消えてなくなる紙モノの類を「エフェメラ」と呼び、意味はずばり「消え物」です。エフェメラはエフェメラルな存在であるがゆえに珍重され、そういう品を熱心に収集するコレクターがいます。

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では、こんな品はどうでしょう?

(紙面サイズは約5×12cm)

黒板に残された講義のあと。
この写真を撮ったあと、すぐにも消されてしまったであろう、数式たち。
人間の思念が外部に実体化した白墨のアート。
そこで展開された口舌の技。

――その残り香が、ここには感じられます。そして、これこそエフェメラ中のエフェメラじゃないでしょうか。

なぜ、わざわざ板書の写真が撮られたかといえば、これを書いたのが相当な傑物だったからです。すなわち、天体物理学者のフレッド・ホイル(Sir Fred Hoyle, 1915-2001)


写真裏のメモには、「ホイルによる講義(コロキウム)終了後の黒板。ケンブリッジ天文台にて。1959年5月」と書かれています。

ホイルはビッグバンによる宇宙開闢を否定し、その考えを否定する立場から、この「ビッグバン(大ぼら)」という用語を最初に使い始めた人として、何となく不名誉な形で、その名を知られていますが、ホイルが傑物であることに変わりはなく、その主たる業績は、恒星内部での元素合成の理論にかかるものです。

彼は1945年から73年まで、ケンブリッジで研究生活を送り、この写真が撮影された前の年、1958年には、同大学の天文分野における一番の顕職である「プリュミアン教授」に任命されています(1704年にトーマス・プリュームという人の発願でできた、一種の冠講座です)。

肝心の数式の意味が分からないのは、かえすがえすも残念ですが、それでも宇宙の真理を探るべく奮闘した、時代の傑物の体温が、そこからじんわり伝わってくるようです。

なお、この写真はケンブリッジ天文台の内外を写した、他の数枚のスナップ写真とセットで売られていました。売り主のお父さんは、ホイルと共に働いた同天文台のスタッフだそうですが、その名は聞き漏らしました。


【おまけ】

今日の記事のタイトルは、正確を期せば「ジ・エフェメラ」でしょうか。
「ephemera」は集合名詞の仲間で、複数形しかとらないそうですが、この語の本義である「カゲロウ(昆虫)」の意味では、立派な単数形があって、「一匹のカゲロウ」は「an ephemeron」になることを、さっき知りました。 

ケンブリッジ春秋2018年03月20日 22時36分08秒



前回の写真は、もちろんあれ1枚ではなくて、他にも7枚の写真とセットで売られていました。ついでなので、そちらも見ておきます。

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手回し式計算機と、紙束が無造作に置かれた研究者のデスク。
光が斜めに差しているのが、画面に静謐な印象を与えています。
写真の裏面には「ケンブリッジ、1959年」としか書かれていないので、このデスクの主は不明ですが、こうしてわざわざ写真に撮るということは、やっぱり主は傑物なのでしょう。これもホイルかもしれません。

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裏面のメモには「太陽トンネル(Solar Tunnel)、ケンブリッジ天文台、1957年」とあります。写っているのは、太陽観測装置の一部を構成するヘリオスタット(太陽を追尾して、常に一定方向に光を反射する装置)で、同じ機材を写した写真がケンブリッジのサイトにも掲載されていました。

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「はて、この木箱は何だろう?」と思って裏面を見ると、


「1959年の日食のため、(Atafu?)への発送準備が整った(Van Klüber?)の装置」と書かれています。でも、( )内はちょっと難読で、読みが間違っているかもしれません。そこで、もういっぺん表の写真に目を凝らすと、


「Dehesa de Jandia」とか「Fuerteventura」という文字が見えます。検索すると、これはアフリカ大陸の左肩、大西洋に浮かぶカナリア諸島の地名で、ここでは確かに1959年10月2日に、皆既日食が観測されており、そのための遠征機材だと分かります。でも、「Van Klüber」は依然として謎。

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雪のケンブリッジ天文台(1957年)。白いドームに白い雪がよく映えています。
こんな風に嬉々として雪景色を撮影して回ったのは、おそらくイングランド南部では総じて積雪が稀だからでしょう。


そしていつか雪も消え、大地に緑が戻り、ケンブリッジに新しい春がめぐってきます。

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あれから60年経った日本の片隅にも、春は忘れずにやってきます。
地球の公転と自転が、いささかもぶれてない証拠でしょう。

今日は桜が開花しました。

エミルトン氏の驚異の部屋2018年03月22日 18時51分31秒

バルセロナでは、毎年5月に「OFFF」というアート&デザインの大規模な国際フェスティバルが催されます。その第1回は2001年のことで、今年の「OFFF Barcelona 2018」で早18回を数えます(ちなみに“OFFF”とは“Online-flash-film-festiva”の略だそうです)。

YouTubeを見ていて、今から5年前、2013年のOFFFのために作られた1本の映像作品を目にしました。


■OFFF 2013: Mr. Emilton's Cabinet of Curiosities


映像は、絶滅したドードーの版画とともに始まり、博物趣味にあふれた部屋の様子を切り取りながら、机に向かって一心に手紙を書き綴る男の独白でストーリーは進行します。

彼は子供のころから自然に憧れ、学校を出ると同時に、驚異を求めて世界のあらゆる地方を旅し、そこで見つけた不思議なモノたちを持ち帰っては、部屋を満たしました。
その半生を振り返りながら、彼は手紙を書き続けます。


彼が長い旅の果てに気付いたこと、そして何よりも手紙に託したかったこと―。
それは、この世界を驚異に満ちたものとしていたのは、他でもない自分自身のイマジネーションだったという事実です。

「世界を発見(あるいは再発見)し、新たな世界の創造を可能にするのは、人間の想像力であり、19世紀の博物学者と21世紀のクリエイターは、この点において共通する」…というのが、この作品のメッセージのようです。

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胸に響く話です。そして、これはたしかに一面の真理を突いています。
でも、<モノ>や<世界>は、時として人間のイマジネーションを超える…という事実も、同時に心に留めておく必要があるように思います。

アンティーク天球儀の似姿を求める2018年03月24日 20時52分20秒

さて、エミルトン氏の部屋を後にして、自分自身の部屋に戻ります。
この「驚異の小部屋」で、最近少なからず存在感を発揮している(小部屋を圧迫している)のが、この天球儀です。


どうです、なかなか立派でしょう。


ニス塗りの加減も、古風な淡彩も、真に迫っています。


もちろん、これは本物のアンティークではなしに現代の複製品で、イギリスの作り手から買いました(彼はこういう品を一人でコツコツ作っているようでした)。印刷も精細で、これぐらい間近で見ても、破たんがありません。廉価なわりには、よくできています。


この天球儀で特徴的なのは、うしかい座がよく見るギリシャ風の半裸ではなくて、やけにあったかそうな北方衣装を着込んでいることです。その辺を手掛かりに調べてみると、大元はオランダのヨドクス・ホンディウス父子(父子ともに同名のJodocus Hondius。父は1563-1612、息子は1594/5-1629)が、1601年に制作した天球儀で、それをさらにイタリアのジュゼッペ・デ・ロッシ(Giuseppe de Rossi、生没年未詳。17世紀前半の人)がコピーした製品を複製したもののようです。

ロッシは商才にたけた人で、ホンディウスのオリジナルが、今やきわめて稀なのに対して、ロッシのコピー版は大量に売れたおかげで、アンティーク市場にも定期的に現れる…ということが、E. Dekker & P. van der Krogt の『Globes:From the Western World』(1993)に書かれていました。


天球儀本体はそういう次第として、ちょっと気になったのは、この架台です。一応それらしく時代付けしてありますが、どうもデザインが19世紀っぽくて、17世紀の天球儀には合わないような気がしました。でも、これもデッカーとクロフトの上掲書を見たら、下のような写真が載っていて、当時、既にこういう一本足(というか、台輪を1本のピラーで支える方式)の架台があったようです。

(ロッシが1610年代に売り出した地球儀・天球儀。中央のものが、ちょうど手元の品と同じ図像を貼り込んだ天球儀です)

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博物館のガラス越しにホンモノを眺めて溜息をつくよりは、よくできたリプロを手元に置いてクルクル回す方がまさる…かどうかは、個人の価値観によるでしょう。ただ、いかにロッシの天球儀の現存数が多くても、17世紀の本物となれば、やっぱり百万円単位の世界になってしまうので、実際にクルクルしようと思えば、こうしてリプロに頼る他ありません。残念といえば残念ですが、ここぞ人間のイマジネーションの使いどころかもしれませんね。

現代の古地図(前編)2018年03月25日 21時49分46秒

昨日はアンティーク天球儀の話をしました。
ああいうアンティークは、300年も400年も前の品だからアンティークなわけですが、そこに表現されている星空自体は、そう現代と変わるわけではありません。

もちろん、地軸のブレ(歳差運動)によって、星図を作るときの座標原点は次第に移ろっていきますし、天球上に「固定された星(fixed star)」であるはずの恒星にしても、それぞれ固有運動をしているので、長年月のうちには、相互の位置関係も微妙に変わってきます。

それでも、400年の時を隔てた2枚の星図の違いは、極論すればデザイン感覚の違いのみだ…と言ってもよいぐらい、今昔の人々が描こうとした対象は、互いに似通っています。(星座絵の有無で、印象はずいぶん違いますが、星図で重要なのはあくまでも星そのものであり、これは昔も今も変わりません。)

(1603年のBayerの『Uranometria』と、1998年のTirion & Sinnotの『Sky Atlas 2000.0』に描かれたカシオペヤ座)

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一方、古星図ならぬ古地図に関しては、かなり事情が異なります。

たしかに、400年前の地形と今の地形だって、地球規模で見れば、物理的にそう大きな違いはないでしょう。しかし、人々が地図によって表現しようとした対象、すなわち集積されたデータの中身が、今昔では全く異なります。

昔の人が利用できたのは、不確かな測量、伝聞に基づく推測や憶測のみで、頼るべきデータが欠落した巨大な空白も同時に存在しました。工夫次第で、いつでも星の位置測定ができる星図作りと、遥かな大地や海洋を超えていかなければ、具体的データが得られない地図作りの、最大の違いはそこです。

(メルカトルが1585年に作成し、ホンディウスが1602年に後刷りを出したアジア地図。出典:国土地理院ウェブサイト(https://kochizu.gsi.go.jp/items/214))

裏返せば、古地図を見れば、当時の人が利用できたデータの質と量が、ただちに分かるわけで、古地図には<地理的=空間的>データと、<歴史的=時間的>データが重ね合わされていると言えます。

古地図は古版画芸術であると同時に、人類の世界認識の変遷を教えてくれる、この上なく貴重な史資料でもあります。

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…と、大きく振りかぶりましたが、そもそも話題にしたかったのは、現代でも「古地図」は絶えず生まれているよ、ということなのでした。それが何かは、一寸もったいぶって、次回に回します。

(この項つづく)

現代の古地図(後編)2018年03月26日 22時55分53秒

かつて、夏から秋へと季節が移るころ、2隻の船が相次いで故郷の港を後にしました。
その姿は、彼らがこれから越えようとする大洋の広さにくらべれば、あまりにも小さく、かよわく、今にも波濤に呑み込まれそうに見えました。

しかし、彼らは常に勇敢に、賢くふるまいました。彼らは声を掛け合い、互いに前後しながら、長い長い船旅を続け、ついに故郷の港を出てから3年後に、それまで名前しか知られていなかった或る島へと上陸することに成功します。その島の驚くべき素顔といったら!

後の人は、彼らが残した貴重な記録をもとに、その島の不思議な地図を描き上げ、2隻の船の名前とともに、永く伝えることにしたのでした…

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勇気と智慧に富んだ2隻の船。それは、ずばり「航海者」という名前を負った、惑星探査機の「ボイジャー1号、2号」です。

1号は1977年9月5日に、2号は同年8月20日に、ともにフロリダのケープカナベラルから船出しました。途中で1号が2号を追い抜き、1号は1980年11月に、2号は1981年8月に土星に到達。(したがって、正確を期せば、2号の方は3年ではなく、4年を要したことになります。)

そして、彼らは上陸こそしませんでしたが、土星のそばに浮かぶ「島」の脇を通り、その謎に包まれていた素顔を我々に教えてくれたのでした。その「島」とは、土星の第一衛星・ミマスです。

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この時のデータを使って、1992年にアメリカ地質調査所(U.S. Geological Survey)が出版したミマスの地図は、確かに「現代の古地図」と呼ばれる資格十分です。


例によって狭い机の上では広げることもままなりませんが、全体はこんな感じです(紙面サイズは約67.5×74cm)。地図は、北緯57度から南緯57度までを描いた方形地図(200万分の1・メルカトル図法)と、南極を中心とした円形地図(122万3千分の1・極ステレオ図法)の組み合わせからできています。


多数のクレーターで覆われた地表面は、何となくおぼろで鮮明さを欠き、データの欠落が巨大な空白として残されています。


そんな茫洋とした風景の中に突如浮かび上がる奇地形が、他を圧する超巨大クレーター「ハーシェル」です。

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ボイジャーがミマスを訪れてから四半世紀近く経った2004年。
別の新造船が土星を訪れ、10年間の長期にわたって土星観測を続けました。
それが惑星探査機「カッシーニ」です。

このとき、ミマスについても一層詳細な調査が行われ、2014年には下のように精確な地図が作られました。

(ウィキペディア「ミマス」の項より)

解像度も高く、空白もないこの新たな地図を手にした今、ボイジャーがもたらした地図は価値を失ったのか…といえば、そんなことはありません。昨日の自分は、こんなことを書きました。

「古地図を見れば、当時の人が利用できたデータの質と量が分かる仕組みで、古地図には<地理的=空間的>データと、<歴史的=時間的>データが重ね合わされていると言えます。〔…〕古地図は古版画芸術であると同時に、人類の世界認識の変遷を教えてくれる、貴重な史資料でもあります。」

ボイジャーのミマス地図についても、まったく同じことが言えます。
繰り返しになりますが、これこそ「現代の大航海時代」が生んだ、「現代の古地図」なのです。(ボイジャーの地図は紙でできている…というのが、また古地図の風格を帯びているではありませんか。)

青い星座絵ハガキ(前編)2018年03月28日 07時09分54秒

ゆうべ空を見上げていました。
最近はしょっちゅうボンヤリしているので、空ばかり見ている気がします。
空というのは、そこに浮かんでいる雲とか星とかもいいのですが、空自体も不思議な色合いで、私の心を惹きつけます。

昨日見たのは、ちょうど一番星がちらちら光り出し、まだ二番星は見えない頃合いの空です。透明な青と透明な黄緑をまぜたような色合いの空が一面に底光りして、「これは…」と思っているうちに、空は徐々に光を失い、そこに二番星、三番星が輝き出しました。

こんな風に毎日毎時、空を観察しつづけたら、いつか素敵な『空色図鑑』が編めるかもしれませんね。

   ★

空の色といえば、素敵な星座の絵葉書を見つけました。


黄道12星座を、星の並びとモダンな表現の星座絵で表したものです。特筆すべきは、その夜空の青のグラデーションと、そこに散った銀の星のコントラストの美しさ。


そして、ここが重要ですが、これらは機械印刷ではなくて、1枚1枚手刷りされたシルクスクリーンのアート作品だということです。


何と繊細な作品だろうと思います。
次回は、1940年代に遡るらしい、この絵葉書に秘められたストーリーについて述べます。

(この項つづく)


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▼閑語(ブログ内ブログ)

“佐川さんて、人を喰った男だね。”

――そう聞いて、もう一人の佐川さんを思い起こす人は、それなりに年の行った方でしょう(佐川一政氏のことです)。事の性質に照らして、こんな軽口を叩くのは、あまり褒められたことじゃありませんが、国会での佐川氏の応答は、同様に寒心に堪えぬものでした。

とはいえ、ここで重要なことは、トカゲのしっぽは派手で目立つほど、その陽動効果を発揮するわけですから、しっぽの動きは視界の隅に入れながらも、本体がどちらに向って動いているかに注意の焦点を置くことでしょう。