エジプトの星(2)…エジプトとメソポタミア2018年03月17日 16時53分42秒

あまりにも醜悪な政権にプロテストして断筆…というわけではなく、もろもろの事情の然らしむるところにより、やむなく断筆っぽい状態にありました。

そもそも、私が断筆しても、世間的には何の意味もありませんし、プロテストしたところで、後から後からプロテストしたいことがどんどん出て来るので、自分がいったい何にプロテストしていたのか、それすら失念しかねない状況です。まったくマトモな相手ではありません。

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さて、記事のほうは「エジプトの星」と題して、次のようなつぶやきとともに終わっていました。

 「でも、エジプトだって古代天文学が発達した土地で、独自の星座を使っていたわけだよね。それはいったいどうなったの?プトレマイオス朝になって、忽然と消えちゃったの?それに、そもそもメソポタミアって、エジプトのすぐ隣じゃない。ギリシャ経由で黄道12星座のアイデアが入ってくる前に、直接メソポタミアから伝わらなかったの?」

上のように呟いたときは、すぐに答えられそうな気がしたのですが、これはなかなかどうして簡単な問いではありませんでした。つまり事は星座に限らないわけで、エジプトとメソポタミアという、近接した地域で発展した古代文明相互の、文化の影響-被影響関係の実相は…という点にまで遡らないと、この問いには答えられないのでした。

そこで、積ん読本の山から『世界の歴史―古代のオリエント』というのを引っ張り出してきて読んだのですが、この一冊の入門書で、私の歴史感覚がかくも大きく変わるとは、予想だにしなかったことです。

古代オリエントの歴史の一端に触れれば、栄光の古代ギリシャといえど、オリエントの歴史絵巻の終わりの方に、ちょろっと出てくるローカルな話題に過ぎないと感じられるし、カール大帝以降のヨーロッパの歴史などは、まるで「現代史」のようです。

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以下は、素人が1冊の入門書から読み取ったことなので、間違っているかもしれませんが、とりあえずのメモとして書き付けます。

まず、一口に「古代エジプト」と言い、また「古代メソポタミア」と言いますが、両者の実態は大きく異なります。

エジプトの地では、長い年月のうちに多くの王朝の興亡がありましたが、それを担ったのは「エジプト人」という1つの民族であり、エジプトの社会は、多年にわたって相対的に純一な社会でした。

対するメソポタミアは、まさに民族の十字路といってよく、人種的にも言語的にも多様な民族が四方から流入しては、前王朝を滅ぼし、支配し、やはては滅び…ということを、100世代以上にわたって繰り返してきました。したがって「古代メソポタミア」という言葉の内実は、何かひとつの色に染まった世界では全くありません。

ただし、文化という点では、メソポタミアの地にも一定の連続性があった…という点で、やはり、「古代メソポタミア」という言葉は意味を持つのです。メソポタミア文明の創始者である、シュメール人が歴史の表舞台から消え、アッカド帝国が興り、バビロン王朝が栄え、アッシリアが巨大な帝国を築いても、新たな支配者たちは、いずれもシュメール人が生んだ文化を連綿と受け継ぎ、発展させました。

そして、多くの異民族がそこに関わったからこそ、メソポタミアの文化は普遍性を獲得し、文化的支配力・伝播力という点では、エジプトを大きく凌駕するものがありました。エジプトのヒエログリフの影響が、地理的に限定されているのに対し、楔形文字が言語系統の差を超えて、古代オリエント諸国で広く用いられたのは、その一例です。

(古代オリエントの歴史舞台。“イラク”と“クウェート”の文字の間に広がる灰褐色のパッチがメソポタミア。点々と続く疎緑地と耕地によって灰褐色に見えています。)

さらにまた、歴史を俯瞰して強調されねばならないのは、古代オリエント世界を彩ったのは、何もエジプトとメソポタミアだけではないことです。それに匹敵する古代文明のセンターだった「アナトリア」、すなわち今のトルコ地方や、それらの各文明を摂取し、それを地中海世界へと伝える上で重要な役割を果たした「レヴァント」、すなわち今のシリア・パレスチナ地方の諸王国の興亡が、古代オリエントの歴史絵巻を、華麗に、そして血なまぐさく織り上げているのです。(メソポタミアの天文知識がギリシャに伝わったのも、アナトリアやレヴァントという媒介者があったからです。)

そうした中で、エジプトとメソポタミアの両文明は、当然古くから直接・間接に接触を続けてきたのですが、エジプトの側からすると、他国の文化を自国に採り入れるモチベーションが甚だ低かった――これが、メソポタミア由来の黄道12星座が、エジプトでは長いこと用いられなかった根本的な理由ではないでしょうか。古代エジプトは、純一な社会であったがゆえに、強固な自国中心主義、一種の「エジプト中華思想」をはぐくんでいたように思います。

エジプトのこうした自国中心主義は、あのデンデラ天文図が作成された、古代エジプトの最末期、プトレマイオス朝時代にあっても健在で、あの図にはメソポタミア由来の星座以外に、カバや牛の前脚など、エジプト固有の星座も数多く描かれています。(そして、エジプト中心主義の崩壊とともに、エジプトの星座は消えていったのです。)

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ときに、メソポタミア時代の星空を偲んで、こんな品を見つけました。

(背景は近藤二郎氏の『星座神話の起源―古代メソポタミアの星座』)

紀元前700~800年頃、アッシリア帝国時代の円筒印章の印影レプリカ。
円筒形の印章に陰刻された図柄を、粘土板上で転がして転写したものです。


中央は古代メソポタミアで愛と豊饒の神として崇敬された女神イシュタル
彼女は金星によってシンボライズされる存在で、後のヴィーナスのルーツでもあります。その冠の頂部で金星が光を放ち、その身の周囲を多くの星が取り囲んでいます。

そして、イシュタルと向き合う人物の頭上に浮かぶ六連星は、プレアデス
さらにその右手には、奇怪な「さそり男」の姿が見えます。彼は太陽神シャマシュが出入りする、昼と夜の境の門を開閉する役目を負っており、その頭上に浮かぶのが「有翼の太陽」です。


古代エジプトでは、野生の動物を神として崇める動物崇拝が盛んでした。
一方メソポタミアでは、天空の星を神々と崇め、エジプト人よりも一層熱心に夜空を観察しました。メソポタミアで天文学と占星術が生まれたのは、その意味では必然だったのでしょう。


(あまり話が深まりませんでしたが、この項一応おわり)

コメント

_ t ― 2018年03月19日 01時32分42秒

この問題の露見を恐れてA氏が国会解散権を乱用したがために選挙となり,事実の公表が一層遅れたという犯罪的な行為について,マスコミが語らないのはなぜでしょうか?

_ S.U ― 2018年03月19日 20時52分24秒

エジプトの天文学と言えば、野尻抱影翁の本で読んだナイルの星、ソティス=シリウスを思い出します。それからピラミッドの穴から見えたトゥバーン、きっとそれなりの豊かな知識があったのだと思うのですが、他にはあまり普遍的な利用法がなく、タコツボ化していたというこかもしれないと思います。
 それとも、どこの国であっても、長らく鎖国状態にあって、豊かな国内文化が熟しても、その後それが放棄され伝承する者がいなくなるとその価値が永遠に理解されなくなるということかもしれません。エジプト神話は現在でも詳細が知られていますが、その神髄を理解している神職はもうきっといないですよね。(理解していると主張しても証明できない?)

 日本の江戸時代は、幸いに今の日本人に気質や庶民の娯楽の重要な部分が受け継がれていて現代にまで生きています。でも、もはや、朱子学や心学で学問の広い分野を体系的に学ぶことは難しいでしょう。エジプトでも、江戸時代でも、中南米文化でも、せめて文献からたどれる部分は、そのような精神性が個人の脳内で再現できるところまで、どっぷりつかって研究してほしいものだと思います。

_ 玉青 ― 2018年03月20日 22時52分27秒

○tさま

まあ、お天道様は見ていますからね。
やがて全てが白日の下にさらされることを期待します。

○S.Uさま

一国一時代の<文化>とは、個々の文化事象が網の目のように広がり且つ絡まって織り成す総体ですから、文字通り1枚の織物のようなものですよね。そして、現実の布地のように、文化にも丈夫なものや脆いものがあって、でも布はやっぱり布ですから、一部の強固な織り筋は残っても、全体としての布地はやっぱりエフェメラルなものと感じます。でも、一方にはそれが消え去るのを惜しむ人がいて、刺し子をしたり、端切れでパッチワークしたりして、長く持ち伝える伝えるので、後世の我々も往時の様子を、ボンヤリ想像できるのでしょう。

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