『ペーター坊や月への旅』(3) ― 2018年05月13日 07時42分31秒
二人と一匹――めんどくさいので、以下「三人」とします――が降り立った「星の原っぱ(Star Meadow)」は、星の子どもたちの学校であり、彼女ら(星の子どもはすべて少女の姿をとっています)が、ピカピカの光を取り戻す大切な場所です。
そして、星の子どもたちの世話一切を引き受けているのが、昔の天文学者のような風体をした「サンドマン」。その名は、地上の子供たちに安眠をもたらす銀色の砂を、夜ごと空一面にまく仕事も負っていることに由来します。
(サンドマンと星の子どもたち)
最初は三人に疑いの目を向けたサンドマンですが、兄妹が真に優しい子どもだと知って、喜んで三人に協力することを申し出ます。
そして、サンドマンは、「夜の精」が今宵、その壮麗な宮殿で、自然界の諸力を司る存在――雷のサンダーマン、雲のクラウドレディ、雨のレインフレッド、嵐のストームジャイアント、氷の三兄弟、水のウォーターマン、銀河を預かるミルキーウェイマン、等々――を招いてパーティーを開くことを思い出し、そこで三人を夜の精に引き合わせることにします。
(宮殿に到着した昼の女王を迎える夜の精)
一癖ある客人たちが集うパーティーの席でも、いろいろすったもんだがありましたが、最後に到着した三人を、夜の精は大いに歓迎し、月への長旅の伴として、天界のビッグベアー(おおぐま座のことでしょう)を貸し与え、さらにサンダーマン、ストームジャイアント、ウォーターマンに、三人を守護するよう依頼します。
ビッグベアーにまたがった一行四人(三人+サンドマン)は、途中、彗星の邪魔をものともせず、無事月へとやってきます。
そこでクリスマスの準備に余念のないサンタクロースに出会い、復活祭に向けてイースターエッグを生み落とす牝鶏たちの脇を通り、ついに月一番の高峰のふもとまでたどり着きます。目指すズームズマン氏の失われた六番目の脚は、その頂上にあるのです。
月の山の頂上には、ふもとに据え付けられた巨大な大砲を使って、その身を発射する以外に行く方法がありません。サンドマンが狙いすまして、三人を次々に発射。三人は大きく弧を描いて、月の山の頂上に到達しました。
(ズームズマン氏の発射を見守るペーターとアンネリ)
木の枝に引っかかったズームズマン氏の脚は、やがて見つかりました。
しかし、月の山には、かつて夜の精によって地上から放逐された森盗人が、恐ろしい「月の男(Man-on-the-Moon)」に身を変えて潜んでいました。
三人に襲いかかる月の男を前に、ペーターは果敢におもちゃの木剣を構えます。
その勇気に感応したのか、サンダーマン、ストームジャイアント、ウォーターマンが次々と現れ、月の男に攻撃を加えます。それでも月の男はひるまず向かってきます。
(月の男を打ち倒すストームジャイアント)
絶体絶命のピンチの中、アンネリが星の子どもに救いを求めると、二人の星の子どもが天から下りてきて、月の男に向けて光線を放ちます。にわかに視力を失った月の男は、見当違いの方向によろよろと歩み去り、三人はようやく危機を脱したのでした。
(光を放つ星の子どもたち)
こうして手に入れた六番目の脚は、ズームズマン氏の胴体にピタリとはまり、まずはメデタシ、メデタシ。
ズームズマン氏の呪文で、月から我が家に帰った兄妹は、朝の光の中で目覚めます。
部屋の隅にいた六本脚のコガネムシを窓から逃がしてやり、その後姿を見送る二人。
そのとき、お母さんが部屋に入ってきて、「サンタさんからよ」とジンジャーブレッドを手渡します。月で出会ったサンタクロースを思い出して、二人は喜びでいっぱいになり、優しいお母さんに抱き着くのでした…。
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うーむ、なかなかキャラが立ってますね。
その点では、『不思議の国のアリス』にも似た味わいがあります。
たしかに、『ペーター坊や月への旅』は、正当な天文学の知識とは程遠い、荒唐無稽なお話に過ぎません。でも、それを言ったら『銀河鉄道の夜』だって似たようなものです。ここで大事なのは、子供時代に『ペーター坊や』や『銀河鉄道』を読んだ人は、その後の人生において、(半ば無意識裡に)星の世界に対して、ある種の詩情を重ねるだろうということです。
客観的存在である宇宙に対して、変に擬人化された色を付けるのは、よろしくないかもしれません。弊害もないとは言えません。ただ、詩情はすなわち魅力でもあって、おそらく人間は一切詩情を感じない相手には、探求心も抱かないと思います。
宇宙への夢と憧れを掻き立てるような、幼い日の読書体験は、子どもたちがその後どのようなライフコースを歩むにせよ、その人生を大いに豊かにするでしょう。それは決して悪いことじゃありません。
(この項おわり)
思い内にあれば色外に現る ― 2018年05月13日 08時02分30秒
▼閑語(ブログ内ブログ)
いまいましい事柄を、可憐なペーター坊やの話とごっちゃに語るのは気が進まないので、今日は別立てにします。
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毎日新聞の一面コラム、朝日新聞なら「天声人語」に当たるのが、「余録」欄です。
加計問題をめぐって参考人招致された、柳瀬元首相秘書官の答弁について、5月11日の余録欄が、「人を小ばかにしたような記憶のつじつまあわせはほどほどにした方がいい。」と断じましたが、「人を小ばかにしたような」というのは、まさに今の時代を覆う「厭な感じ」の核心を突いた表現だと感じ入りました。
政府関係者の国会答弁や、記者会見での発言を思い起こすと、「人を小ばかにしたような」態度が、どれほどあふれかえっていたことでしょう。
ウィットにとんだシニシズムは、私は別に嫌いじゃありません。むしろ積極的に面白がる方です。でも、あんなふうに人を馬鹿にすること自体を目的にしたような、知性や品性のかけらもない物言いには、「馬鹿に馬鹿にされるいわれはない」と、腹の底から怒りを覚えます。小ばかにされて喜ぶ人はいませんから、おそらく多くの人も同じ気分でいるんじゃないでしょうか。
「誠実さ」は、別に高邁な理想でもなんでもなくて、世間一般では今もふつうに尊重されているし、それを旨とする人も多いのですから、それを政治家や官僚に求め難いとしたら、それは永田町や霞が関の方がおかしいのです。「小ばか政治」はいい加減やめて、早くまともな会話のできる政治と行政を回復してほしいと、心底願います。
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…というようなことを書くと、「天文古玩も、畑違いの政治のことなんてほっときゃいいのに」と思われる方もいるでしょうね。
しかし、『ペーター坊や月への旅』の英訳本の裏表紙を見たら、挿絵を描いたハンス・バルシェック(Hans Baluschek、1870-1935)について、こんなふうに紹介されていました。
「画家・グラフィックアーティスト。マックス・リーバーマンやケーテ・コルヴィッツとともに、ベルリン分離派運動〔旧来の伝統美術からの脱却を唱えた芸術革新運動〕の一員。名声のある画家であると同時に、社会主義者として、多くのポスターや絵葉書のデザインも手掛けた。ナチスによって『退廃芸術家』の烙印を押され、1935年に没した。」
戦後になって、共産党政権下の東ドイツでは大いに英雄視され、盛んに作品展が行われたとも聞きます。まあ、芸術家の政治利用という点では、これはナチスの振る舞いとネガとポジの関係にあるもので、泉下のバルシェックがそれを喜んだかどうかは疑問です。
いずれにしても、『ペーター坊や』の世界と、現実世界とは、やっぱりどこかでつながっていて、両者を切り離すことはできません。僭越ながら「天文古玩」もまた同じです。
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