昔の買い物から…星のフェーヴ ― 2018年05月19日 16時43分10秒
昨夜の雨が上がり、今日は爽やかな一日になりました。
透明な光の粒が感じ取れるほど日差しは明るいのに、冷涼な風が絶えず吹いて、木々の葉擦れの音がしきりに聞こえます。
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「最近の買い物から」という書き出しは、わりと筆が走りやすいです。
買った時の感興が、まだ鮮明に残っているからです。でも、そればかりだとお蔵入りのモノが堆積してしまうので、ちょっと意識して昔の品も登場させることにします。
たとえば、本棚の隅にこんなものが載っているのを見つけました。
(裏面)
2001年にフランスで売り出された、フェーヴ(ガレット・デ・ロワのページにリンク)のセットです。
ごく他愛ない品ですけれど、フェーヴというモノの性質上、こういうのはあまり整っていては面白くなくて、昔のグリコのおまけ的な、駄菓子っぽい「雑な華麗さ」こそが身上でしょう。濃紺の空に、金色の星がやけにまぶしく光っています。
ともあれ、甘いパイ菓子の中から、こんなのがひょっこり顔を出したら、子どもならずとも嬉しいし、かりそめの王様役を演じるのでも、まさに天界の王になったような気分では。
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上でリンクしたガレット・デ・ロワの解説によれば、このお菓子にまつわる慣習は、古代ローマのサトゥルヌス神のお祭りにルーツがある由。サトゥルヌス神は、すなわち英語のサターンですから、この土星のフェーヴなんかは、まさに筋目正しい神への捧げものです。
なお、このセットのうち彗星のフェーヴは、前にも登場したことがあります。
■タルホの匣…第8夜、彗星と土星
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▼閑語(ブログ内ブログ)
成立年不詳の史書、『続増鏡』 より。
「さるほどに彼の者の驕慢いよいよまさりて、果ては其の威を借る数なき者ども、「天皇はサヨク」「天皇はハンニチ」などと雑言をおめき叫ぶに至れば、あまりのことに主上も今はとて位を皇子にゆづらせたまひ、身を世より隠させたまふ。されど彼の者の暴虐猶もやまず、世の乱るることかぎりもなければ、心ある人みなみな紅涙を流し、誠を尽くして訴へければ、主上もげにもとや思はれけむ、つひに平家追討の院宣を下させたまひぬ…」
平家ではないですが、「彼の者」は平家みたいなものです。
ただし、平家ほどの革新性はありません。
尊王の士を以て自ら任じる者ならば、まことに堪えがたい惨状だと思うのですが、今の世に尊王は流行らないみたいで、そういう声はついぞ聞こえません。
まあ、こんなふうに安易に権威にたよったり、水戸黄門的解決を期待したりする心根は、結局「彼の者」を喝采する輩と同根なので、よっぽど用心しなければなりません。
が、それにしても、今の世に高山彦九郎はおらぬもの哉。
ゲームになったペーター坊や ― 2018年05月22日 06時48分05秒
『ペーター坊や月への旅』は、ドイツの子どもたちにたいそう人気がありました。
それを裏付けるのは、本の出版(1915年)から半世紀あまり経っても、依然こんなゲームが販売されていたという事実です。
(外箱の大きさは27.5×38.5cm)
このゲームは、ニュルンベルクの老舗メーカー、J.W. Spear & Söhne社(1984年廃業)が、1967年に売り出したもの。
箱の中身は、二つ折りのゲームボードと…
ルーレットやら、駒やら、カードやらのセットから成ります。
要はルーレット式の双六ゲームなんですが、途中でカードを引いたり、チップをやり取りしたり…という要素が加わっているのは、日本の「人生ゲーム」なんかと共通しています。当時、この種のボードゲームが、世界中の子ども文化を席巻していたのでしょう。
とはいえ、ゲームの主人公が、他でもない『ペーター坊や』であるという事実。それこそが、これが日本やアメリカではなく、ドイツのゲームであることを何よりも雄弁に物語っています。
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このゲームを前にすれば、ひょうきんなスームズマン氏や、
心優しいサンドマン、
美しい夜の精のことが、まるで昔なじみの友達のように思い出されます。
そして、不安と希望を胸に、月へと向けて飛び立った、あの晩のことや、
月の男との恐ろしい戦いのシーンも、ありありと浮かびます。
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先日、星の世界を旅する子どもたちの物語として、『ペーター坊や月への旅』を『銀河鉄道の夜』に類するもの…と書きました。しかし、こうしてゲームにまでなっているところを見ると、日本における『銀河鉄道の夜』よりも、ドイツにおける『ペーター坊や』は、いっそうポピュラーな存在だった…と言えるかもしれません。
(ただし、前者は松本零士氏の想像力を刺激し、新たに『銀河鉄道999』という作品を生み、そこから新たな展開がいろいろあったことにも言及する必要があります。)
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まあ、こんなふうに、オーソドックスな天文趣味からフラフラ彷撞い出て、ゲームまで収集フィールドに加えては、財布も心的エネルギーも、あっという間に枯渇してしまいます。しかも、アンティークでも何でもない、戦後の品にまで滅多矢鱈と手を出すにおいておや。
とはいえ、天文モチーフのゲームはとても気になるアイテムです。
そもそも「天文古玩」を名乗るぐらいですから、「古い玩具」はその中心的テーマと言ってもいいぐらいだ…とまでは言いませんが、愛すべき天文ゲームの世界について、少し書いてみることにします。
(記事を替えて、以下つづく)
アストロノミア(前編) ― 2018年05月25日 06時50分31秒
近頃の報道に接して、驚きつつ心を曇らせている方も多いでしょう。
まさに、ニュース目に見ゆ泣けとごとくに…といった有様です。
それにしても、なんと薄汚い国になってしまったことか。
しかし、辛いときでも<日常>を守ることは大事ですから、記事を続けます。
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ゲームに寄せる関心は、このブログを始める前からありました。
当時、この分野の情報が非常に乏しい中、「天文アンティークとは、こういうものか!」と教えられた、NYのジョージ・グレイザー・ギャラリーのサイトで、『ASTRONOMIA』と題する美しいカードゲームを見て、ウットリとなったのが、そもそものきっかけです。
そんなわけで、天文趣味の世界から遠かろうが近かろうが、もはや私の中でゲームは「天文古玩的なもの」の一部となっていて、そこから足を洗うことはできません。
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ところで、この美しい「アストロノミア」。
リンク先のデータによれば、このカードゲームは、1829~31年にかけて、ロンドンのF. G. Moon という版元が出したもので(版元の名前がまたいいですね)、絵師はHenry Corbould、彫師はPerkins & Bacon だと書かれています。
この絵師と彫師についてさらに検索したら、この顔ぶれは、世界最初の切手として有名な、「ペニー・ブラック」(1840年)の原画と彫版を担当した面々と同じでした。その意味で、このゲームはとびきり美しいばかりでなく、英国らしいゆかしさも兼ね備えた逸品です。(なお、Perkins & Bacon というのは、個人名というよりも、この両者が興した「Perkins, Bacon & Co,」という会社名のようです。)
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思う念力岩をも通すと言いますが、その後、尋常ならざる努力をして、私はこのゲームを手に入れました。今から2年前のことです。そのときの自分は、きっと何か書いているだろうと思って探したら、果たして下のようなバカバカしい文章を書いていました。よほど嬉しかったのでしょう。
■戦国乱世を生きる
ここに出てくる「オークション」は、いつものeBayではなくて、イギリスのオークションハウスが主催する、本物のライブ・オークションです。そんなものに参加するのも初めてだったし、参加に当たっては、事前にパスポートのコピーを提出させられたり何だりで、いろいろ面倒な手続きがあったのですが、面倒くささも何のその、とにかく万難を排してその場に臨み、そして「You Won!」の文字を目にしたのです。これは嬉しくて当然で、バカな文章を書いた自分を、あえて許してやりたいです。
あれから2年、大河ドラマも「真田丸」から「西郷どん」になり、時代の様相も変わりましたが、遅ればせながら<逸品>を登場させます。
(この項つづく)
アストロノミア(後編) ― 2018年05月26日 13時19分48秒
ずっと欲しかった「アストロノミア」。
空に浮かぶ星のように、遠くから憧れることしかできなかった存在―。
それが今、こうして手元にあるのですから、こんなふうに顔を赤くして、いかにも自慢たらしく語るのも、世人これを許せ…といったところです。
アストロノミアは、ふつうのトランプと同じように、1スートが13枚、それが4スートの計52枚のカードから構成されています。各スート、すなわちトランプのクラブ、ハート…に相当するのは、春(青)・夏(赤)・秋(黄)・冬(白)。そして、各スートを構成する13枚には、全スートに共通する11枚と、スートごとに異なる、2枚のスペシャルカード(leading card)が含まれます。
(夏の木星と土星)
共通カードには、当時知られていた7つの惑星(水・金・地・火・木・土・天)と、
(秋のセレス)
セレス、パラス、ジュノー、ヴェスタの小惑星が当てられています。
(秋の彗星と星座)
また、スペシャルカードには、各季節の黄道十二星座と、月(春)、太陽(夏)、彗星〔1680年のキルヒ彗星〕(秋)、太陽系天体の軌道図(冬)が描かれています。
(冬の軌道図(中央))
果たして、これでどうやって遊んだのかは、ルールブックが手元にないので不明ですが、おそらく共通カードをそろえて「役」を作りながら、スペシャルカードで点数アップを狙ったり、あるいは他のプレイヤーから手札を巻き上げたりして遊んだんじゃないでしょうか。想像するだに雅です。
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残念ながら、手元のセットは、全52枚中46枚(6枚欠け)しかない不完全なものですが、その美しい仕上がりを堪能するには十分です。
(春の月。左側はカードの裏面。裏面は白紙になっています)
例えば、この月カードの繊細さはどうでしょう。
月の輝きと本体をとりまく光のローブが見事に版画で表現されています。
(冬の地球。欄外の「Tellus」は、ラテン語で「Earth」と同義)
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宇宙を美しく描こうとする試みは、もちろん18世紀以前にもありました。
例えば、華麗な星座絵を、これでもかというほどカラフルに彩色したり、グラフィカルな天球表現で見る者の目を楽しませたり…。
でも、星のかなたに広がる漆黒の闇の深さ、広大な宇宙が醸し出す静謐な詩情、あるいは宇宙を貫く望遠鏡のクリアな視界――こうした現代に通じる「天文趣味」が誕生したのは、やはり19世紀になってからだと思います。それは、観測技術の向上によって、新天体の発見が相次いだことや、恒星までの距離測定が可能となり、宇宙の大きさが実感されてきたことと無縁ではないでしょう。
この1830年頃作られたカードは、そうした新時代の宇宙美を端正に表現した、初期の名品と呼ぶにふさわしい品です。この延長線上に、あのエドウィン・ダンキンの傑作、『真夜中の空』も位置付けることができるように思います。
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▼閑語(ブログ内ブログ)
「あれ?おかしいなあ。安倍さん、なんでまだ総理大臣やってるんだろう?」
「すぐにも辞めるはずだったのに、なんで?」
…と、狐につままれたような気分の方も多いんじゃないでしょうか。
事情通の人に「それこそが、すでに独裁の完成した証拠さ」と耳打ちされ、「あ、そうか」と今更ながら気づきました。比喩とか揶揄とかでなしに、正真正銘の独裁というのは、こういうことを言うのかと、得心がいきました。
まことに恐ろしいことです。
私の中では、どこかまだ「話せばわかる」的な思いもあったのですが、「問答無用!」とバッサリやられた無念さを覚えます。もう無茶無茶です。まあ、「独裁」イコール「無敵」ではないし、独裁が続いたためしはありませんから、私は今後もよこしまな相手には非を鳴らし続けます。
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ときに、上の文章を書くついでに、昭和の暗い時代を象徴する「五・一五事件」と、凶弾に散った首相・犬養毅のことをウィキペディアで読み返していました。
そこに出てくる「犬養の演説は理路整然としていて無駄がなく、聞く者の背筋が寒くなるような迫力があった」…とか、「政界で隠然たる影響力を誇っていた山縣有朋が『朝野の政治家の中で、自分の許を訪れないのは頭山満と犬養毅だけ』と語った」…とか、「宮崎滔天ら革命派の大陸浪人を援助し、宮崎に頼まれて中国から亡命してきた孫文や蒋介石、インドから亡命してきたラス・ビハリ・ボースらをかくまった」…とかの記述を読むと、毀誉褒貶はありながらも、犬養が非常にスケール感のある人物であったことは否めません。
振り返るに、今の宰相はどうか。何だかため息しか出ませんが、戦前回帰するなら、せめてこういう性根の部分で回帰してほしいなあと思います。それにしても、安倍さんの場合、仮にその場になっても「話せばわかる」とは、お義理にも口にできないでしょうね。
星の玩具のこと ― 2018年05月27日 18時29分49秒
何度も書いていますが、私はコレクター気質に欠けるので、何かを意識して蒐集するということはしていません。
でも、これはひょっとしたら蒐集と呼んでいいんじゃないか…と思える対象もいくつかあります。例えば、天文台の絵葉書もそうですし、最近話題の、星をモチーフにした古い玩具もそうです。
この「玩具」や「おもちゃ」というのは、英語の「Toy」よりも広い言い方で、Toy も Game も Puzzle も全部ひっくるめた、「もてあそびの具」、「消閑の具」という意味です。(あと「教育の具」というのもありますね。教育玩具というやつです。)
(これまでに登場した星の玩具の例)
ここで、「星をモチーフにした」というのが、ちょっと弱い言い方に感じられますが、これは真っ当な天文学に関連する品以外にも、占星ゲームとか、単なるデザインとして星を用いているだけの品も、収集対象に含めているからです。
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ただ、そこまで手を広げても、古い星の玩具というのは存外少ないです。
収集という観点から言うと、収集対象が最初から限定的なほうが、精神衛生的にも、経済的にも助かるので、それはそれで良いのですが、「なぜ少ないか」を考えると、これは昔の人がどれだけ空に憧れたか――むしろ憧れが少なかったか――を裏付けるものかもしれません。
例えば、19世紀の天文趣味の隆盛を、数多の天文古書に探ることは容易ですが、それもやはり一部の奇特なマニアや、教育熱心な家庭の周囲のみで起きていたことかもしれず、面的広がりについては、一定の留保が必要かもしれないなあ…と、星のおもちゃを前に、ふと考えます。
当時の美しいデザインに惹かれて、私はややもすると19世紀を「天文趣味の黄金郷」のように考える癖がありますが、それは「そうあって欲しい」という、私の願望の投影に他なりません。
反対に、世間が宇宙ブームに沸き、宇宙ヒーローに子供たちが熱狂した1950年代~70年代にかけては、宇宙モノの玩具がそれこそ雨後のたけのこのように現れ、飛ぶように売れました。テレビという新たなメディアの出現も大きかったでしょう。あれこそ面的広がりと呼べるもので、それに比べれば、やはり戦前の天文趣味(ないし宇宙趣味)は、おとなしいものでした。
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そんなこんなで、私の収集対象は、マスプロ製品化する前の、1950年代以前の玩具に力点が置かれることになりますが、これもそう厳密なものではなくて、気になる品なら、70年代あたりのものでも、パッと手が伸びるというフィールドのゆるさがあるので、鉄板コレクターには、到底なれそうにないです。
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さて、事前の講釈はこれぐらいで切り上げて、星の玩具の風情をさらに眺めてみます。
続・愛しの天文玩具 ― 2018年05月28日 20時17分02秒
恨み言めきますが(実際、恨み言です)、星の玩具と聞いて、真っ先に思い出す品があります。それについて、今から4年前の自分は、「オークションの敗北がジワジワ効いてきて、一時は憤死せんばかりでした」と、かなり大げさなことを書いています。
一体、何がそんなに悔しかったのか?
「今回落札し損ねたのは、19世紀前半に遡る、天文モチーフのボードゲームという大珍品でした。保存状態も良く、12星座、彗星、月、星、太陽が手彩色と金彩で美しく描かれた逸品で…と書いていると、また悔しさがこみ上げてきます。」
うーむ、何せ本人ですから、その気持ちは大変よく分かります。
■愛しの天文玩具
改めて読み返すと、この記事でも「アストロノミア」のことを物欲しげに書いています。アストロノミアの現物を手にしたのは、これから2年後のことですから、この時にはそれを知る由もありません。その事実を4年前の自分に教えてやれば、恨みも多少やわらいだかもしれませんね。
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さて、このとき落札しそこねた天文ゲームは、画像だけしっかりと保存してあります。
そして、それを眺めて、臥薪嘗胆の思いを日々新たにしているのです。
いくぶん常軌を逸したものを感じますが、この機会に、世の中にはこういう逸品もあることを知らしめるべく、その折の商品画像を、ここにそっと上げておきます。(画像の著作権は、もちろんアメリカの売り手にありますが、売り手氏も既に件の品のことは忘れているでしょう。)
これがその逸品。
(以下、見やすいように画像の細部を少しいじりました)
左側の箱の中に、四つ折りになったゲーム盤が入っています。
ゲーム盤は紙製で、リネン布で裏打ちされているようです。
ゲーム盤を拡大したところ。
いかにも愛らしいデザインです。そして古風な優美さにあふれています。さらに天文趣味の香気にも富んでいます。
盤面を注視すると、太陽を中心とした同心円上に「マス目」が配置され、そこに番号が振られています。おそらくプレーヤーは最外周の1番からスタートし、順番に駒を進め、最後に太陽で「上がり」となるのでしょう。要は天文双六ゲームです。
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思うに、ここに登場するのが12星座だけだったら(あるいはギリシャ・ローマ神話になぞらえた惑星だけだったら)、これほど天文趣味を感じることはないでしょう。それは星座神話という、閉じられた世界の旅にとどまるからです。
しかし、このゲームには、天の川が登場し、彗星が尾を引き、プレアデスが群れを成しています。そうした天体の登場に、私は何とも言えない「天文情緒」を感じるのです。想像ですが、これを作った人は、同時代の天文入門書を参考にしたんじゃないでしょうか。何となく、そうした入門書で解説されている事項と、ゲームの「キャラ」がかぶって感じられます。
箱の表記から、このゲームはドイツ製と分かります。
時代から言って、この玩具は当時の穏やかで整った市民文化、いわゆる「ビーダーマイヤー」スタイルの中で生まれたものでしょう。箱絵を見ても、これが教育的効果を狙った――少なくとも教育を重んじる家庭にアピールすることを狙った――品であることが伺えます。
美しい彩色と金彩、古雅なデザインの向こうに、市民階級の宇宙への関心の高まりも感じ取れる、素敵な逸品です。
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岩をも通す念力で、私が「アストロノミア」に続いて、このゲームも見事入手していたらスゴイのですが、そういう事実はありません。しかし、念力の作用とは恐ろしいもので、私の願望は、その後ちょっと別の形で実現することになったので、そのことを書きます。
(この話題、さらにつづく)
時空を超えた天文玩具 ― 2018年05月29日 21時35分29秒
(昨日のつづき)
たとえ岩が強固で念力が通じなくても、そこは窮すれば通ず、です。
昨日のゲームと全く同じものは見つからなかったものの、その後の探求過程で、その「そっくりさん」を見つけました。
手元にあるのはボードだけで、外箱や付属品はありません。
ご覧のとおり、デザインはオリジナルとまったく同じです。しかし、金彩や手彩色、リネンの裏打ちといった優雅さはありません。こちらは平板な印刷物を、二つ折りの厚紙ボードに貼り付けてあります。
(スクリーントーンのような網点が見えますが、オフセットではなく石版印刷です)
いささか安手な仕上がりになっているのは、時代がオリジナルを下ることおよそ半世紀、1890年の製品だからでしょう。(年代については、ゲームマニア向けのサイトに記載がありました。)
(ボードを二つ折りにしたところ)
オリジナルは、「Sonne Mond und Sterne(太陽・月・星)」という、わりと素っ気ない名前でしたが、そっくりさんの方は、その名も「アフェリオン」と改め、海を越えたイギリスで売り出されました。発売元のF.H. Ayers は、ボードゲームやロッキング・ホースで知られた、イギリスの老舗玩具メーカーです。
この素朴な天文ゲームが、時と空間を超えて人々に愛されたことに、ちょっとした驚きを感じます。でも、素朴とはいえ、「アフェリオン」とは天文用語の「遠日点」(惑星等がその軌道上、太陽から最も遠ざかる位置)の意ですから、名前だけはいっそう天文づいています。
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時空を超えたそっくりさんの存在も驚きですが、そのそっくりさんを手繰り寄せた、我が念力もまた恐るべきものではないか…と、恨み言で始まった記事を、自画自賛で締めくくるのは、まあ目出度くも罪のない話です。
清濁のはなし ― 2018年05月30日 07時15分25秒
本編のおもちゃの話は一休み。
私は清酒も濁り酒も好きで、しょっちゅう清濁併せ呑んでるんですが、それに関連して、昨日ぼんやり考えたことを書きます。
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閑語(ブログ内ブログ)
世間には、「何を甘っちょろいことを言ってるんだ。世の中、建前やきれいごとで動いていると思ったら大間違いだぞ。汚れ仕事をする人がいるから、世の中回ってるんだ。」…という「本音万歳」の人もいるでしょう。現政権支持者の中にも、そういう意見が少なくないのかなあ…と想像します。
たしかに、「世の中には汚れ仕事もある」ことは、私も否定しません。
齢を重ねれば、社会のいろいろな裏表を目にするものです。
そもそもヒトの行動の少なからぬ部分が、攻撃性や支配欲に発しており、それが往々良くない形で表現されるのは、避けがたいことです。
でも、だからこそ人間は「きれいごと」を必要とするのです。
建前がまず厳然とあって、なおかつ「まあ、建前はそうだけど…」と小声で呟きながら、何やかんやすることで、世の中は微妙なバランスを保っているわけです。…と書くと、結局、私が言っていることは、上の本音万歳氏と、あまり変わらないことになります。
現在、国内の分断が進んでいて、政権支持者と政権批判者の間で、「ああいう連中とはまるで話にならん」と、互いに息巻く場面が多いですが、上のように考えると、共通言語が全くないわけでもありません。本音万歳氏だって、「じゃあ、お前さんは建前の一切ない、本音だけの世界があったら、一家で引っ越したいかい?」と問われたら、大いに悩むんじゃないでしょうか。
その上できっぱりと言いたいです。
社会をまとめあげている建前を破壊したことこそ、安倍政権の最大の罪であると。
「モラルと建前は根本的に違うよ」と思われるかもしれませんが、現在「モラルハザード」という言葉で行われている政権批判を、私なりに下世話にくだけば、上のような言い方になります。
まあ何にせよ、トップがウソをつき放題、ウソがばれても平気の平左…なんていうのは、本音と建前以前の話で、すでに人間社会の体を成していません。
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