「ヘンリ・ライクロフトの植物記」(2)2018年06月15日 06時52分12秒


(1921年に出たアメリカ版 『ヘンリ・ライクロフトの私記』 扉)

(同 「春」の冒頭)

 「このところ一週間以上も私はペンを放りっばなしにしていた。まる七日間というもの、私はなにも、それこそ手紙一本書かなかったのだ。一、二回病気にやられたときはともかく、それ以外にはこんなことは自分の生涯では今までにまだ一度もなかったことである。生涯では、といったが、まさしくそれは汗水垂らして必死に生きてゆかなければならなかった生涯であった。」

…というのが、『ヘンリ・ライクロフトの私記』の書き出しです。これは、資力を得て悠々自適の生活に入ったライクロフト氏の、少なからず余裕のにじむ述懐です。

私の方もブログの更新がちょっと滞っていましたが、こちらは眼鏡が壊れて、いっとき視力を失ったという、いささかわびしい理由によるものです。何せ眼鏡なしには何にもできないのですから、本当に困ります。人間はやはり視覚的動物です。

   ★

さて、本書は「春」「夏」「秋」「冬」の4部構成で、それぞれがさらに多くの章に分かれています。そこには純粋な日録もあれば、社会批判の章もあり、過去の回想録もあり、そして全体として、四季折々のライクロフト氏の心模様を文字にしたものとなっている…というのは前回も書いたとおりです。

その中におりおり登場する植物趣味の片鱗を、岩波文庫版から書き抜いてみます。
(以下、太字は引用者。ルビは原則として省略)。

<春 第3章>

 私は植物学者ではない。しかし植物採集には昔から興味を覚えている。未知の植物にぶっつかり、参考書の助けをかりて名前を確かめ、次ぎの機会に道端でひょっこり咲いているのをみつけて名前をあげて呼びかける、などということは嬉しい限りである。もしもその植物が珍しいものであれば、その発見の喜びは大したものだ。偉大な芸術家である自然は、ありふれた花はありふれた、だれの目にもとまる所で作っている。いわゆる雑草でさえ、そこに示される驚異と美しさはとうてい筆舌のよくなしうるところではない。が、要するにいわば行きずりの人の目の前で作られているのである。珍しい花は、人里離れた奥まった所で、この芸術家の幽玄な気分のまにまに作られている。珍しい花を見つけることは、一段と厳粛な聖域に入るの思いを味わうことを意味する。嬉しさの中にも私は粛然とするものを感じるのである。

 今日は遠くまで散歩した。行ったさきで、小さな白い花をつけた「くるまばそう」を見つけた。それは若い「とねりこ」の林の中に生えていた。その白い花を長い間見ていたが、そのうちに私はそのまわりにたっているきゃしゃな樹木の美しさに心をうたれた。その輝くばかりの滑らかさ、オリーヴ色の肌合いの美しさはたとえようもなかった。すぐその傍には「にれ」の茂みが生い茂っていた。そのかさかさした幹は、まるでどこか聞いたこともないような異国の文字が刻まれているような感じで、若々しい「とねりこ」はそのためいっそう美しく見えた。

 いつまで散歩していようと私は少しも構わないのである。家に戻らなければならない用事もない。どんなに遅くまでぶらついていても、心配したり気をもむ人もいない。春はいたるところの小道や牧場の上に輝いている。道すがら、足もとから岐〔わか〕れてゆくあらゆる曲折した小道に踏みいってゆかなければ申し訳ないような気がする。

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抜き書きだけでは意義が薄いので、文中に登場する植物名について、実物を当てておきます。邦訳の後の英名は、『私記』の原文からとったもので(原文の複数形は単数形で表記)、リンク先は英語版Wikipediaの該当ページ、図版も同じです。

ただ、日本語でも英語でも、植物名というのはややこしくて、それが種名なのか、属名なのか、科名なのか…といった指示対象の広狭の問題もありますし、同名異物も存在するので、以下はあくまでも参考情報です。より正確な情報があれば、ご教示いただければと思います。

「くるまばそう」 Woodruff

(Galium odoratum)

「とねりこ」 Ash

(Fraxinus ornus)

「にれ」 Wych-elm

(Wych-elm)

  ★

ライクロフト氏の伸びやかな描写が、「春」の冒頭近くにさっそく登場しています。
人間社会に対する、氏のうがった見方と対比するとき、この手放しの自然礼賛は、いっそ無邪気であり、微笑ましくもあります。ここで氏の関心が、もっぱら植物に向き、動物やほかの自然物に向かなかったのは、彼の資質も当然あるでしょうが、100年前には植物趣味(ホビーとしてのbotany)が、今よりも世間に認知されていた…という事情もありそうです。

氏は「ありふれた花はありふれた、だれの目にもとまる所で作」られている…と書きますが、現代の日本においては、植物は「ほとんど誰の目にもとまらない存在」であり、「それがありふれているかどうかすら分からない」のが実態ではないでしょうか。

植物はまことに偉大です。都市のど真ん中でも、公園の片隅に、街路樹の根元に、さらにはアスファルト舗装のひび割れにさえ、苔や微細な植物が生い茂り、いかに多様な群落が形成されていることか。それに気付くとき、私はまさに「厳粛な聖域」を前にし、「粛然とするもの」を感じます。そして、それらの名前をぜひ知りたいと思います。


(この項つづく)

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