「ヘンリ・ライクロフトの植物記」(3)2018年06月16日 06時22分03秒

そもそも、ライクロフト氏と植物の「なれそめ」は何か?
それを物語るエピソードが以下です。(冒頭1字下げになっていないのは、引用者による改段落)

<春 第9章>

 しかし私は初めてロンドンから脱出した年のことを考えていたのだ。自分でもどうしようもない衝動にかられ、私はインクランドのまだ見ぬ一角デヴォンへゆく決意を突如としてきめた。三月の終わりに、私は陰欝な下宿から逃げだした。そして、さてこれからどうしたものかと思案する暇もあらばこそ、気がつけば、現在私が居を構えている所のごく近くに、日光を浴びて坐っていたという次第であった。――私の眼前には河幅が次第に広くなっているエクス河の緑の流域と松林の茂ったホールドンの山陵がひろがっていた。私は生涯において内からこみあげてくる喜びをいくどか味わったが、その瞬間もその一つであった。

私の心理状態は誠に不思議なものであった。若い時分から私は田舎に親しみ、イングランドの美しい光景にも数多く接してきていたのだったが、そのとき、初めて自然の風景の前に立ったような錯覚におそわれたのだった。ロンドンでの長い年月が、若い頃の私の生活のすべてをいつのまにかぼかしてしまっていたのだ。私は都会に生まれ、都会に育ち、街路の眺望のほか、望んどなにも知らない人間のようであった。日光も、空気も、なにか超自然的なものを漂わせているように私には感じられた。そして後年イタリアの雰囲気からうけた衝撃ほどでないにしろほとんどそれにつぐ強烈な衝撃をうけた。

〔…中略…〕

 私は新しい生活へはいっていたのだ。それまでの私と、その生まれ変わった私との間にははっきりした相違があった。わずか一日のうちに、驚くほど私は成熟していた。いわば、知らないうちに徐々に私の内に生長していたカや感受性を、私は突然はっきりと知るにいたったのである。その一例をあげるならば、それまで私は植物や花のことはほとんど気にもとめていなかったが、今やあらゆる花に、あらゆる路傍の草木に、深く心をひかれる私であった。歩きながら多くの草木を摘んだが、明日にも参考書を買って、その名前を確かめようと考え、独りで悦にいっている私であった。事実またそれは一時の気紛れではなかった。そのとき以来、野の草花に対する私の愛情と、それらを皆知りつくしたいという欲望を失ったことはないからである。

当時の私の無知ぶりは今から考えると誠に恥ずかしいものだったが、要するに、都会に住んでいようが田舎に住んでいようが、とにかく当り前の人間のごたぶんにもれなかっただけの話である。春になって、垣根の下から手当たり次第に摘んできた五、六種の草の俗名を、はたして幾人があげることができようか。私にとっては、花は偉大な解放の象徴であり、驚くべき覚醒の象徴であった。私の目が全く突如として開かれたのである。それまで真っ暗闇の中を私は歩いていたのだ、しかもその
ことに気がつかなかったのである。

   ★

話はライクロフト氏がロンドンで売文稼業にあくせく追われていた頃にさかのぼります。ある日、衝動的にロンドンを後にしたライクロフト氏の前に広がっていた田園の光景。それは、『超自然的な自然』と感じられるほど、圧倒的な迫力で、氏の心を揺さぶりました。

イギリスの人にとって、「田園」という存在がいかに大きな意味を持つかは、折々耳にします。平均的日本人にとっては、「都市と田園」の対比よりも、「他郷と故郷」の対比の方が、はるかに重要な意味を帯びている(いた)でしょうが(“せめて骨だけは故郷に埋めてくれ…”というのが、臨終の際の決まり文句だったのは、そう遠い昔のことではありません)、そこから逆に類推すれば、英国における田園の意義もおのずと分かる気がします。

ともあれ、ライクロフト氏は田園にあって突如、路傍の植物に目を見開いたのです。

――でも、本当は突然ではなかったのかもしれません。氏の「植物愛」が、端的に「図鑑を片手にした分類・収集癖」という形をとったことから、そう感じられるのです。逆算すると、ライクロフト氏は1840年代末の生まれで、1850~60年代に少年時代を送ったはずです。当時、英国全土を覆った博物学ブームはすさまじいものでしたから、ライクロフト少年も、きっと植物採集や昆虫採集の洗礼を受けたことでしょう。それが長い潜伏期を経て、成人期に突如よみがえった…というのが、上のシーンのようにも読めます。首都における人間臭い生活の只中にあって、自分と自然のつながりを、天啓のように再認識した…と言い換えてもよいでしょう。

これは私の個人史に重ねても共感できるし、例えば中年期に昔の天文熱が再燃した多くの天文ファンも、その瞬間を覚えているはずです。さらに言えば、これはライクロフト氏の個人的経験を超えて、当時の英国の時代精神が、こうした「回心」を一方で必要としていた…ということかもしれません。(そして、この頃からイギリスの博物趣味は、採集一辺倒から、自然保護熱へと重心を移していくことになります。)

(この項つづく)