占星の遠き道(前編) ― 2019年02月02日 09時53分48秒
暦と占星の知識を伝えた「スターロード」。
まあ、これは私のいい加減な造語ですが、文化にはそうした水平(地理的)な伝搬に加え、当然垂直(歴史的)な伝搬もあります。むしろ現実のスターロードは、その両者が複雑に絡み合った、組み紐のようなものでしょう。
ところで、この文化の垂直伝搬に関して、その実例をまざまざと目にしたことがあります。
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これも矢野氏の影響と言っていいですが、以前、宿曜経に関心を示した際、さらに密教と星供(「ほしく」または「しょうく」)に関係したモノが気になり、少しキョロキョロしたことがあります。そんな折に、古書店のデータベースで2冊の写本を目にしました。
一冊は『七星九曜十二宮廿八宿等種印言』と題されたもの。
(用紙はタテ横16.5cmのほぼ正方形)
表紙を含め全14丁の和紙を糊付けした薄い冊子体のもので、後述のように、今から370年前、江戸時代前期の慶安2年(1649)に筆写されたものです。筆写したのは、表紙に見える「長怡房(ちょういぼう)祐勢」という僧侶。
(題名の前にある「三宝院簿」の意味が判然としませんが、この写本のオリジナルが、京都の真言寺院、醍醐寺三宝院に由来することを意味するのかな…と想像します。)
その中身はというと、題名のとおり、神格化された北斗七星、九曜(5大惑星+日月+羅睺と計都※)、それに十二宮と二十八宿の各星座について、それぞれに対応した、種子(諸尊をシンボライズした梵字)・印相(手指で結ぶ印の形)・真言(梵語による唱句)を列記したものです。要は、密教の修法の一として、星に祈る際のコンサイスマニュアル。
(※羅睺と計都は、日食・月食を引き起こす原因として想定された仮想天体です。)
(日曜(太陽)はやっぱり大した存在らしく、祈りを捧げるときも、指を盛んにくねくねさせて、ノーマクアーラータンノータラヤー…と、唱え事も長いです。)
(これが十二宮になると、その他大勢的な感じになって、文句もごくあっさり。なお、左から二番目の「男女」は今でいう双児宮、星座を当てればふたご座です)
そして、私が<文化の伝搬>に思いを巡らし、「なるほど、文化とはかつてこんな風に伝えられたのか…」と深く嘆息したのは、この冊子の奥書を見たときのことです。
一見して、「知識のバトンリレー」を生で観戦する感動と迫力があります。
もちろん、私も写本文化の存在を、知識としては知っていましたが、そこに突如としてリアリティが備わった感じです。たびたび言うように、これこそ形あるモノの力でしょう。
一部読み取れない文字もありますが、平安時代に成立したとおぼしい原本を、鎌倉時代の弘長2年(1262)に、真言僧・頼瑜(らいゆ、1226-1304)が書写したのに始まり、以後、文禄3年(1595)、慶長16年(1611)、慶安2年(1649)と書写を繰り返して、現在に至っています。そしてここには、ささやかな水平伝搬もあって、京の都から房州(千葉県)へ、さらに奥州磐城へと、書写を繰り返すたびに知識が下向していく様子が見て取れます。
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「スターロード」の終着駅・日本で、さらに時間を超えて続く旅。
今ひとたび、「なるほど、文化とはかつてこんな風に伝えられたのか…」の思いが深いです。
(もう1冊の写本をめぐって、後編につづく)
占星の遠き道(後編) ― 2019年02月03日 09時02分48秒
暦占の知識が吹き溜まった、「スターロード」の終着駅・日本。
そのことは、昨日の写本と対になる、もう1冊の写本によく表れています。
(体裁は昨日の『七星九曜十二宮廿八宿等種印言』と同じ。ただし丁数は5丁と、一層薄いです。)
こちらは『知星精』と題する冊子で(書名は「ちせいしょう」または「ちしょうせい」と読むのでしょう)、筆者は同じく江戸時代初期の人、長怡房祐勢。
こちらは、九曜と北斗七星の各星を、木火土金水(もっかどこんすい)の「五行」に当てはめる方式と、それぞれの威徳を解説したものです。
当然、木星は木の精を帯びた存在ですし、火星、土星、金星、水星はそれぞれ火・土・金・水に当てれば良いのですが、そうする太陽と月、それに羅睺と計都が余ってしまいます。これらは、その性質から太陽と羅睺は火精に、月と計都は水精に配当します。また、北斗七星の各星も、それぞれ下図のような配当になるのだそうです。
で、ここに展開されているような、すべての現象は「陰陽五行」の相互作用に因るとする説や、北斗に対する信仰は、純正インド仏教ではなしに、中国起源の思想ですから、これらを仏僧がごっちゃに兼学しているところが、まさに吹き溜まりの吹き溜まりたる所以。(ちなみに、「長怡房祐勢」という名前には、何となくピュアな仏僧ならぬ「修験者」っぽい響きがあって、昨日の写本の大元らしい醍醐寺三宝院が「修験道当山派」の本山であることを考え合わせると、こうした宗教儀式の背景が、いろいろ想像されます。)
北斗の柄杓の口先、おおぐま座α星は別名「貪狼星(たんろうせい)」。
「貪狼星は日天子の精なり」とあって、五行の「火」に当たります。解説の方は「日輪は閻浮提一切草木聚林を行き、その性分に随いて増長するを得。経に曰く、日輪はあまねく光明を放ち、大いに饒益をなすと云々。然らばすなわち煩悩の黒雲を払い、法身の慧眼を開く。」…と続きます。
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いずれにしても、この小さな冊子の向こうには、中国、インドへと通じる道があり、さらにその先は、遠くギリシャやメソポタミアまでつながっています。そして、「ふむ、日曜日の午前中からこんなことをノンビリ考えるのも悪くないね」と呟いたそばから、その「日曜」にしろ、「午前」にしろ、やっぱり数千年に及ぶ人類と星のかかわりの中から生まれた言葉だと気づくと、だんだん頭がぼんやりしてきます。
我々は皆すべからく歴史を生きる存在です。
中国星座のはなし(前編) ― 2019年02月09日 17時26分45秒
今週は立春を迎えましたが、東日本は雪模様で、なかなか寒いです。
ここで正月から持ち越しの課題を取り上げます。
それは中国星座の「奎(けい)」の別名が、今年の干支と縁のある「天豕」「封豕」だと知って、そこに何か面白おかしい星座神話があるのか調べようというものでした。具体的には、大崎正次氏の著書、『中国の星座の歴史』(雄山閣、1987)に目星を付けて、その中に答を探そう…というのが、宿題の中身。
結論から言うと、大崎氏の大著をもってしても、その答は依然不明です。
同書で「奎」に関する説明は、「『説文』に「両髀之間」とある。すなわちまたぐら、ももとももの間をいう。ひとまたぎの長さをさすこともある。周代の3尺にあたる。『初学記』文字に引用する『孝経援神契』の注に、屈曲した星座全体の形が文字の形に似ているところから、学問の神として信仰されたとある」云々というのみで(p.150)、豚との関係を示す記述はさっぱりでした。
しかし、私はこの機会に、奎と豚の関係よりも、いっそう本質的なことを学んだ気がするので、当初の予定とはまるで異なりますが、そのことをメモ書きしておこうと思います。
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「乙女カリストは、ゼウスに見そめられて、息子アルカスを産むが、嫉妬深いゼウスの妃ヘラによって熊の姿に変えられ、森をさまよう運命となった。その後、成長した息子と森で出会ったカリストは、嬉しさのあまり息子を抱きしめようとするが、そうとは知らぬアルカスは、母に向かって弓矢をキリキリと引き絞る。あわや…というところで、二人の運命を哀れんだゼウスにより、母子は天に上り、ともに熊の姿をしたおおぐま座、こぐま座となって、仲良く空をめぐることとなった。」
…「星座神話」と聞くと、真っ先に思い浮かぶのはこんなエピソードです(上の話には異説も多いです)。あるいは、「働き者の3人兄弟が、怠け者の7人姉妹を追いかけているうちに、神様によってオリオンの三ツ星とプレアデスに姿を変えられた」というアイヌの物語とか。
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で、私は中国の星座も、何となく似たようなものだろうと勝手に思い込んでいました。
つまり、ギリシャやアイヌの神話とパラレルな、星空を舞台とした豊かな中国神話の世界が、そこあるような気がしていたのです。(天の川のほとりにたたずむ牽牛・織女の昔話は、親しく耳にするところでしたから、他にもいろいろエピソードがあって当然という思いがありました。)
でも、実際の中国の星座世界は、ギリシャやアイヌのそれとは少なからず異質なものです。そもそも、中国では星と星を結んで、それを何かの形に見立てるということが、ほとんどなかった…というのが第一の発見です。さらに星座がその身にまとう物語性が希薄だった…というのが第二の発見。
前者について、大崎氏はこう述べています。
「ギリシャ星座に親しんでいるものにとっては、星座といえばそれぞれある形象をもっているという先入観がある。しかし中国の星座にとっては、星座と形象という結びつきは、ほとんどないといってもさしつかえない。〔…〕中国の星座は、そもそもの成立の初めから、星で形象をつくることに関心がうすかったのではないかと思われる。ひとくちにいえば、中国の星座は、形象とは関係のない観念とか概念とかが先に立った星座である。」(pp.131-132)
「ギリシャ星座が「初めに形ありき」とすれば、中国の星座は「初めにコトバありき」である。」(p.124)
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後者に関しては、もう少し説明が必要でしょう。
大崎氏の本には、「中国星座名義考」と題された章があります。これについて大崎氏は、
「西洋の星座については、多くの解説書が備わり、ひとつひとつの星名についてさえ、R.H.Allenの名著“Star Names and Their Meanings”(1899、reprint 1963、Dover Publications)があって、大きな恩恵を受けているが、中国の星座については、かつても今もこのような書物は現れなかった。天文暦学は古くから研究されていたが、星座についてはまったくといっていいほどに無視されたまま今日に至った。Allenにならってというと、いささかおこがましいが、中国星座名の理解に、特に日本の星好きの方に、多少ともお役にたてば私の喜びはこのうえない」
と述べておられます(p.142)。
大崎氏の労を多とすると同時に、中国版・星座神話の本が、これまでろくすっぽ編まれていなかったという事実を、ここで第三の発見に加えてもいいかもしれません。これは裏返せば、編むに値する素材がそもそも乏しかったせいもあるのでしょう。中国では、いわば「星名あれども、星談なし」という状況が続いていたわけです。(まあ、この点では日本もあまり大きな顔はできないと思います。)
ここで大崎氏の業績に全面的に依拠しつつ、さらに思ったことを書きつけてみようと思います。
(この項つづく)
中国星座のはなし(後編) ― 2019年02月10日 08時53分16秒
昨日触れた、大崎氏の『中国の星座の歴史』の第三部「中国星座名義考」。
ここには、全部で300個余りの星座名が挙がっています。そして、大崎氏はその一つひとつについて、名義解説をされています。
300個というのは相当な数で、いわば中国は星座大国と言っていいと思いますが、ただ、その背後にある星座ロマンの部分に関しては、必ずしもそうではありません。
中国の星座世界は、地上の王朝の似姿として、天帝(北極星)を中心とする「星の王宮」として造形されている…というのはよく言われるところです。星の世界には、天帝に使える諸官がいて、車馬や兵が控え、建物が並んでいる――。
まあ、その総体を星座神話と呼んでも間違いではないのでしょうけれど、ただ感じるのは、そこにストーリーを伴った<物語らしい物語>が乏しいということです。大崎氏の解説も、多くは「語釈」に割かれており、例えば角宿(おとめ座の一部)にある「庫楼」という星座は、「屋根のついている二層の倉庫。武器や戦車の置場として多く利用された。」といった具合。他の星座も多くは大同小異で、そこに何か<お話>が伴っているわけではありません。これは中国の文芸の伝統を考えると、少なからず意外な点です。
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とはいえ、中国の星座神話がまったく無味乾燥というわけでもなくて、東洋の星座ロマンにあふれる話もいくつかあります。
たとえば、シリウスの漢名である天狼(テンロウ、井宿)について、「狼星は漢水の水源地である嶓塚山の精が、天に昇って星になったもの」だとか、文昌(ブンショウ、紫微垣)の前身は、「黄帝の子で揮という。死後星と化して、天帝によって文昌府の長官を命ぜられ、功名、禄位をつかさどった」とか、あるいは王良(オウリョウ、奎宿)について、「戦国時代の名御者。〔…〕王良が名御者であったので、天に上って星となり、天馬をつかさどったという話もある〔…〕。この天馬とは「天駟」とよばれる王良5星の内の4星である」とし、さらに同じ奎宿中の策(サク)は、「王良の使った馬を打つむち」である…とするなどは、星座伝承として首尾の整ったもので、ちょっとギリシャの星座神話っぽい味わいがあります。
(北斗の柄杓の口から、やまねこ座に寄った位置にある「文昌」。伊世同(編)『中西対照恒星図表』(北京・科学出版社、1981)より。以下同)
(「王良」はカシオペヤ座のWの右半分。その脇に「策」も見えます。)
あるいは、古代神話を天に投影した次のような星座たち。いずれも悠遠の思いに誘われる雄大な話です。
〇咸池(カンチ、畢宿)
「古代神話によると、太陽は毎日東の方暘谷から出て、西方扶桑の野をすぎるまでの間に、日に一度水浴するという。その池を咸池という(『淮南子』天文訓)。」
〇天鶏(テンケイ、斗宿)
「中国の古代神話に、東南の地方に桃都山という山があり、その山上に桃都という大樹があった。枝と枝との間が三千里も隔たり、樹上に天鶏という鶏がいて、日が出て樹上に日が当たると鳴いて時を告げた。すると下界の鶏どもがいっせいに鳴き出したという(『述異記』)。」
〇天柱(テンチュウ、紫微垣)
「天を支える四本の柱。中国の古伝説によると、むかし四極(東西南北の四方に立って天を支える4本の柱)がこわれ、九州(地上世界)がばらばらになってしまい、天は地をあまねく覆えず、大地は万物を載せきれぬようになった。火は炎々と燃えて消えず、水は満々と溢れてとどまらなくなった。猛獣は人を喰らい、猛禽は老人小供など弱者をおそった。その時、女媧という女神が現れ、五色の石を練り上げて青空の穴をふさぎ、大亀の脚をきりとって、こわれた4本柱を補修し、水の精である黒竜を殺して洪水をとどめ、ようやくおだやかな天と地を回復させた(『列子』湯問篇、『淮南子』覧冥訓)。」
(北極星の周囲、天の特等席である「紫微垣(しびえん)」の一角で天を支える「天柱」)
ただ、これらはいずれも大崎氏が述べられたように、「星座と形象の結びつきがほとんどない」例で、そこにちょっと物足りないものがあります。その意味で、私が中国星座の傑作と思ったのは、鬼宿の「輿鬼(ヨキ)」です。
「輿鬼とは両手でもつコシに乗せられた死骸をいう。二十八宿の第23宿。輿鬼5星はよこしまな謀略を観察する天の目である。東北の星は馬をたくわえた者を、東南の星は兵をたくわえた者を、西南の星は布帛をたくわえた者を、西北の星は金銭、宝玉をたくわえた者をつかさどる。中央の星は積み重なった死骸であり、葬式や神々の祭祀をつかさどる。」
そして、ここに出てくる「中央に積み重なった死骸」。これには積尸気(セキシキ)という別名があります。
「積尸気とは、積み重ねられた屍体から立ち上るうす気味悪いあやしげな妖気。『観象玩占』に、「鬼中ニ白色ニシテ粉絮ノ如キ者アリ。コレヲ積尸トイウ、一ニ天尸トイウ。雲ノ如クニシテ雲ニアラズ。カクノ如クニシテ星ニアラズ、気ヲ見ルノミ」とあるのは、鬼宿の中央にもやもやと淡くみえる数個のかたまり(プレセペ星団)をさすのである。」
(大崎氏上掲書より。西洋では蟹に見立てられた天上の輿と、その中央に積まれた不気味な屍の山)
どうでしょう、その形を星図上に眺め、上の説明を読むと、その星座と形象の緊密な結びつきに驚き、中国風の(諸星大二郎風と言ってもいいですが)怪異な幻想味に心を奪われます。
(左下が積尸気(プレセペ星団、M44)。その脇に浮かぶ妖星はニート彗星(C/2001 Q4)。英語版wikipediaより[ LINK ] )
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ここまで書いてきて、最後に話をひっくり返します。
中国星座に<物語らしい物語>が乏しいというのは、確かにその通りなのでしょうが、でも、それは誰にとっても分かりやすい<お話>が乏しいというだけのことで、そこにもやっぱり物語はあります。そして、この物語の全体を読み解き、味わうには、史書・経書をはじめとする数多の古典に通じてないといけないのでしょう。
どうも中国の夜空は、なかなか一筋縄ではいかない相手のようです。
銀の雪 ― 2019年02月11日 10時36分53秒
今日も広く雪模様。
でも、私の町では雪はさっぱりで、薄雲を通して日の光さえ射しています。
今は結露した窓越しに見る、白くぼんやりした景色に、わずかに雪を思うのみです。
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人は明るい雪景色を「一面の銀世界」と呼び、「白銀が招くよ」とつぶやきながら、いそいそと山に向かったりします。
「銀雪」というのは、もちろん中国生まれの言葉でしょうが、9世紀に編まれた空海の詩文集『性霊集』(しょうりょうしゅう)にも、「銀雪地に敷き、金華枝に発す。池鏡私無し」云々の句があって、日本でもこの語はずいぶん古くから用いられているようです。(大地を覆う純白の雪、日光に煌めく樹上の氷、すべての景色を無心に映して静まりかえる池の面…。こういう芯から澄み切った冬景色を好ましく思うのは、平安時代の高僧も、21世紀の俗人も変わりません。)
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ふと、ほんものの「銀の雪」が欲しいと思いました。
実際探してみると、もちろんスノーフレークをモチーフにした銀製アクセサリーはいろいろあるのですが、結晶の表現がマンガチックというか、ちょっとリアリティに欠けるものが多いようです。
そんな中、この差し渡し2センチほどの小さな結晶たちは、なかなかよくできていると思いました。
1831年、ロードアイランドで創業したアメリカの老舗銀器メーカー、ゴーハム社(Gorham Manufacturing Company)。この銀のチャームは、同社が1970年代にシリーズで発売したもので、手元の品はそれらをチェーンでつないで、ブレスレットに仕立ててあります。
結晶の片面には1970から1976まで、各結晶の制作年が鋳込まれています。
7年間の歳月をかけて、この世界に降り積もった雪のかけら。
磨いてやれば、すぐに元の輝きを取り戻すはずですが、当分はこのくすんだ銀色に時の流れを重ねて愛でることにします。
銀は金と並んで柔らかい金属なので、チャーム同士が触れ合う時も、なんとなく優しい音がします。
銀河の教会 ― 2019年02月13日 20時24分16秒
最近、こんな絵葉書を目にして驚きました。
巨大な渦巻銀河をモチーフにしたステンドグラスです。
上の絵葉書は絵柄が鮮やかに浮かび上がるよう、黒白のコントラストが強調されていますが、実際の光景はこんな感じだそうです。
(究極のソース不明ながら、Flickrで見かけた画像)
このステンドグラスは、イングランド南西部のドーセット州に立つセント・ニコラス教会を飾る作品。当然、古い時代のものではなくて、1984年に設置されたもので、作者は、詩人にしてガラス彫刻家のローレンス・ウィスラー(Sir Laurence Whistler、1912-2000)。
(St Nicholas' Church。英語版Wikipediaより[ LINK ])
同教会は、大戦中に甚大な空襲被害を受け、戦後修復・再建されました。
その目玉ともいえるのが、1955年以降、順次設置された一連のウィスラー作品で、この銀河のステンドグラスは、その掉尾を飾るものです(もう一点、ウィスラーの死後に設置された曰くつきの作品がありますが、ここでは割愛)。
教会のステンドグラスというと、光と色の洪水でむせ返るような作品が多いですが、これらは透明なガラスを、ルーターやサンドブラストで加工したもので、むしろキリッとさわやかな印象。でも、壮麗な<光の芸術>であることにかけては、色鮮やかなステンドグラスに劣らず魅力的です。
銀河の造形は、伝統的な教会建築として一寸異質な感じもしますが、おそらく広大な宇宙を描くことで、宇宙を統(す)べる神の御稜威(みいつ)を高らかに示そうという意図があるのでしょう。
この教会で、重厚なパイプオルガンの音や、美しい聖歌を耳にしたら、なかなか気分が高揚するでしょうね。と同時に、暗黒卿や、男勝りの姫君が登場する、スペースオペラの一場面を連想するかもしれません。
“A long time ago in a galaxy far far away…”
エントロピーは不可逆的に増大する ― 2019年02月16日 11時54分12秒
人はよく「私もすっかり齢でねえ」とか、「この頃はてんでダメですよ」とかこぼします。
これは正味の述懐の場合もありますが、意外にそうでない場合も多いです。
たとえば、単に相手の同情を引きたいだけの場合もあるし、そもそも本人はちっともそんなふうに思ってなくて、「いやあ、○○さんはまだ全然若いですよ」と相手に言ってもらいたいだけ…という場合もあります。(そんなとき、うっかり「大変ですねえ」と同情したりすると、変にむくれて、なかなか難儀です。)
★
ふとそんなことを思ったのは、これまで私はさんざん「もうモノを置く場所がない」と愚痴をこぼしてきましたが、以前の愚痴は、どこかまだ余裕のある贅言だったことに気づいたからです。つまり空間の制約ということに関して、昔の私は認識が甘かったのです。
先日、1枚の紙モノを買いました。
それをいつものように本棚の上部、天井との隙間にしまおうとしたら、その1枚の紙がどうしても入らなかった…その事実を知って、「もうだめだ」と思いました。それ以前から、私の部屋はモノを収容する力をとうに失っており、最近では買った本はすべて床に平積みになっています。それでも紙きれ1枚ぐらいなら…と思って買ったものが、現に入らなかった。「ああ、もうだめだ」と観念しました。
と言って、まだあきらめたわけではありません。少しずつ少しずつモノの配置をずらして、余剰スペースを作る努力はしていますが、所詮は焼け石に水であり、そんな努力をしている時点で、「もうだめ」なわけです。
★
ここで私はどう振る舞うべきか?
もちろん「正しい答」は分かっています。
今あるモノを整理して、不要なものは処分ればよいのです。
手元にあるモノたちが、どれも同等の価値があるわけではありませんから、この際価値の乏しいものは、思い切って引退してもらってはどうか。実際、先日新しいアーミラリースフィアが来たときはそうしたわけだし、それをもっと大々的にやってはどうか…?
でも、現実を考えると、これは決してうまく行かない、机上の空論です。
いや、うまく行かないというよりも、タイミング的に手遅れです。
何となれば、「モノを整理するには、それを実行するためのスペースが絶対不可欠」だからで、人はこの事実を軽んずるべきではありません。たとえていうならば、昔、ハードディスクのデフラグというのをしばしばやりましたが、あれもキャパが乏しい状況だとマシンが青息吐息で鬱滞して、見ている方もしんどかったです。部屋の整理も同じことで、ワーキングスペースが一定以下になると、片付けという物理的作業は、実行困難になります。
質量が一定の範囲に一定以上集中すると不可逆的にブラックホールとなるように、モノも一定の空間に一定以上詰め込まれると、カタストロフを迎えて、不可逆的な変化を生じるのです。(以上のメカニズムは、いわゆるゴミ屋敷が出現する仕組みと重なります。)
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再び問う。ここで私はどう振る舞うべきか?
この死せる空間を放棄し、新たなる空間の再創造に励むというのが一つ。
あるいは、宇宙の真理を悟ったことで満足し、深い諦念とともに静かにほほ笑むというのがもう一つ。
まあ、実際には深い諦念とともに、さらなる変化――あまり望ましからぬ変化――に否応なく巻き込まれていくことになるのでしょう。たとえ敗北主義と言われようと、人生にはどうしようもないことが多々あるものです。
時を我らの手に ― 2019年02月17日 15時56分07秒
手元に一枚刷りの古い暦があります。
(紙面サイズは約30.5×14cm)
幕末の元治2年(1865)のもので、「禁売買」とあるのは、これが官許の暦ではなく、私的に作成されたものだからでしょう。
江戸時代の暦の頒布は、なかなか込み入っています。
まず、幕府の天文方が天体の運行を計算して、それを暦に落とし込む作業(編暦)を行い、それを京都に送って、陰陽道の“家元”たる土御門家や幸徳井家に暦注を付けてもらい、さらに天文方が再度校閲を行った上で原本を作成し、それを各地の暦屋に下げ渡して、最終的に版木で刷った暦が一般に流通する…というのが、大雑把な流れ。そして、暦屋は公の免許を得た者に限定されていたので、要するに当時の暦は、専売制が敷かれていたわけです。
その一方で、海賊版が横行したのも事実で、その取り締まりがたびたび行われました。手元の暦は、たぶん「禁売買」と刷り込むことで、「私は法に触れる暦の売買はしておりません。これは手控えとして作っただけです」という、言い逃れの余地を残したのでしょう。
(作ったのは越後の佐藤幹起という人。「北越高 左産」は「越後高田在住、佐渡出身」の意?「推歩」とは天文計算のことで、この人物は暦学の素養に基づき、自力でこれを作成したらしい)
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暦作りの基礎たる「暦法」はもとより、幕府が年々のカレンダー作りまで独占しようとしたのは、「時を支配するのは為政者の特権である」という意識が強固にあったからでしょう。
近世は出版業の盛行により、科学的知識が身分差を越えて広く行き渡りましたが、暦法書は依然マル秘文書扱いで、公刊自体禁じられており、誓詞を出した門人のみが辛うじて閲覧を許され、細々と写本の形で流布するという状態が、明治になるまで長く続きました。
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いかにも封建的だなあ…と思います。でも、それと似たことは今でもあります。
昨日の朝日新聞を開いたら、元号の話題がトップ記事になっていました。
記事は30年前の新元号制定にかかわった学者の一人である、目加田誠・九大名誉教授(故人)が考案した、複数の元号案のメモが見つかった…というもので、これは「「平成」以外にどんな新元号候補があったのかを示す初めての史料」であり、「平成改元の内幕に迫れる第一級の発見」だと、記事は伝えています。そもそも「政府は依頼した学者、新元号案の内容や数、3案〔引用者注:平成、修文、正化の3案〕に絞った過程などについて、現在も公表していない」のだそうです。
いったいなぜ秘密にする必要があるのか?
新しいダライラマを選ぶような、宗教的な「秘儀」ならばともかく、暦年を区切る記号に過ぎない元号の制定過程を、なぜそれほど秘匿する必要があるのか?
これは、やっぱり「秘儀」にしておきたい人がいる証拠でしょう。
何となく神秘のベールに包んで、いたずらに神格化したい人が。
その秘密に触れることのできる「内側」の人間と、それ以外の「外側」の人間を分断し、前者が妙な特権意識を振りかざすなんていうのは、はなはだ良くない振る舞いだと思います。
元号はパブリックなものなんですから、妙なもったいを付けずに、みんなでオープンに決めればいいんじゃないでしょうか。
「やってみなはれ」…モデルT望遠鏡の誕生 ― 2019年02月23日 15時57分53秒
2019年2月22日、はやぶさ2が小惑星リュウグウへのタッチダウンに成功。そして試料採取のミッションも滞りなく終えたようです。それを可能にした人間の智慧と技術は大したものです。さすがは21世紀。
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同じころ、アンティーク望遠鏡マニアのメーリングリストで、「モデルT望遠鏡(Model T scope)」というタイトルのスレッドが伸びていました。
「おや、何のことだろう?」と思って読みに行ったら、一連のメールは昔の望遠鏡自作マニアの創意工夫の一端をしのばせる内容で、それを見ながら、この100年で何が変わり、何が変わらないのか、人間と技術の歩みについてしばし思いをはせました。
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「モデルT」とは、本来望遠鏡とは無縁のものです。
すなわち、20世紀第1四半期に大売れした、世界初の大衆車、T型フォードのこと。
(T型フォードにもいろいろなボディデザインがありますが、上は「1920 Touring」タイプ。出典:Wikipedia[ LINK ])
そして件のスレッドは、アメリカで1920年代に勃興した、アマチュアによる反射望遠鏡自作ブームの中、T型フォードのスクラップ部品を使って、望遠鏡を載せる架台作りに挑戦したアマチュアがいたことを話題にしていました。
この「T型フォードで作った望遠鏡」は、海の向こうの古手マニアの耳には親しい話題らしいのですが、その実物らしきものがeBayに出品されているよ…というのが、話の出発点。
で、肝心のモノの方は、最初の投稿以前にeBayから削除されてしまったらしく、リストメンバーは誰も見ることができなかったのですが、「この話の大元は何だろう?」という興味から出典探しをした人がいて、それは望遠鏡製作のバイブル、アルバート・インガルス編『Amateur Telescope Making(ATM)』だと、すぐ明らかになりました。ただし、それが載っているのは、1926年から1980年まで増補と改版を繰り返した、このベストセラーの初期の版(1928年の第2版まで?)に限られる…ということも話題になりました。
幸い手元に第2版があったので、さっそくページを開いてみたら、ありました、ありました。
(『ATM』第2版、p.165)
愛機とともに写っているのは、当該記事の筆者、Ions Clarendon氏。(この「スクラップ自動車部品から作る実用的な望遠鏡架台(A Serviceable Telescope Mounting from Discarded Automobile Parts)」と題した『ATM』の章節は、「ポピュラー・アストロノミー」誌1925年2月号からの転載記事です。)
(同p.161)
その架台の拡大がこちら。
主要部分は、T型フォードの後輪車軸を加工して作られています。
(モデルTの後車軸回り。出典:Wikipedia [ LINK ])
クラレンドン氏曰く、当時は反射望遠鏡の鏡面製作に関する情報は、徐々に出回りつつあったものの、まだ実用的な架台作りの情報はないに等しい状況だったので、手に入れやすいT型フォードの廃部品を使って挑戦してみた…というのが、その製作動機のようです。
まあ、文字の説明を読んでも、具体的に何をどうやって作ったのか、素人にはピンときませんが、クラレンドン氏は「この架台の主要な利点は、まず安価であること、部品を入手しやすいこと、必要なバランスウェイトを正確でスムーズに動かせること、そしてブレーキ部品を使った完璧なクランプと目盛環だ」と、「我が子」を大いに自慢しています。
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話の冒頭に戻って、この100年で変わったものは何で、変わらないものは何か?
もちろん、技術的な前提は大きく変わりました。一方、アマチュアの工夫の才は、当然変わらないものの1つです。そして、多くのアマチュアは資力が乏しい…というのも不変でしょう。
古人は「足るを知る」ことを力説しましたが、これは時として、安易な現状肯定に堕すおそれがあります。人は往々にして、「足るを知らざる」ところから、創意と工夫を始め、新たな発明を生み出すものです。とはいえ、これも「足らぬ足らぬは工夫が足らぬ」と、もっぱら他人の尻を叩くのに使われると、むしろ弊害の方が大きく、そのバランスが難しいです。
南の空を想う ― 2019年02月27日 09時56分47秒
時代が平成に替わった1989年、沖縄の地元出版社である「むぎ社」から、沖縄用の星座早見盤が発行されています。
(狩野哲郎(著)『沖縄県版学習星座早見セット』)
これは、私が持っている星座早見盤の中でも、その夜空の範域が非常にローカルで、ピンポイントであるという点で、かなり特徴的なものです。著者の狩野氏は、当時、本島北部にある国頭(くにがみ)村立辺士名(へんとな)小学校の先生をされていた方だそうで、その辺もローカルな香りに満ちています。
那覇の緯度は北緯26度。
東京の北緯35度から遠いのはもちろん、鹿児島の北緯31度と比べても、さらに5度南に寄った土地ですから、本土の早見盤はそのままでは通用しがたく、こうした教育目的の早見盤が必要となるわけです。(ちなみに、この本は「定価800円」となっていますが、奥付には「学納価500円」とあって、学校で共同購入することを念頭に置いた出版物のようでもあります。)
肝心の早見盤は、この本文12ページの薄い冊子体の本の裏表紙に付属しています。
使い方は当然ふつうの早見盤と同じですが、違うのはそこを彩る星空です。
(10月1日午前0時、11月15日午後9時頃の空)
南国沖縄の海辺に立って、さらに南に目をやれば、北辺に住むヨーロッパ人の視界には入らなかった、「つる座」や「ほうおう座」が悠然と羽ばたいているのが見えます(いずれも星座として設定されたのは16世紀末)。その脇には、海と空を結ぶようにエリダヌスが悠然と流れ、さらにその先端には、アラビア語で「河の果て」を意味するアケルナルがぼうっと輝いています。
そして、7月の宵ともなれば、北十字(はくちょう座)から南十字までを一望に収め、銀河鉄道の旅を追体験することができるのです。
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アームチェアー・アストロノマーよろしく安楽椅子に腰かけて、こんな風に想像するのは、実に甘美なひとときです。しかし、その美しい空の下で現に行われていることは、甘美さとはおよそ程遠い醜悪なものです。
訳知り顔に日米と東アジアの政治力学を振り回す人もいますが、仄聞するところ、辺野古の工事に関しては、政治力学の問題だけでなしに、大きな利権が渦巻き、例によってその渦中には安倍氏とその取り巻きが蟠踞しているんだ…などと聞くと、人間の業の深さを嘆くほかありません。
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こうしている間にも、空の上でジョバンニは「たったひとりのほんとうの神さま」について思いを凝らし、「ほんとうのさいわいは一体何だろう」と親友に問いかけています。もちろん、ここに唯一絶対の正解はないでしょう。問われたカムパネルラにしても、「僕わからない。」とぼんやり答えるのみです。
そして、分からないことにかけては、私もカムパネルラと同様ですが、でも、こんな地上の醜状は、「ほんとうの神さま」とも、「ほんとうのさいわい」とも、はなはだ遠いものであることだけは確かに分かります。
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