エントロピーは不可逆的に増大する2019年02月16日 11時54分12秒

人はよく「私もすっかり齢でねえ」とか、「この頃はてんでダメですよ」とかこぼします。
これは正味の述懐の場合もありますが、意外にそうでない場合も多いです。

たとえば、単に相手の同情を引きたいだけの場合もあるし、そもそも本人はちっともそんなふうに思ってなくて、「いやあ、○○さんはまだ全然若いですよ」と相手に言ってもらいたいだけ…という場合もあります。(そんなとき、うっかり「大変ですねえ」と同情したりすると、変にむくれて、なかなか難儀です。)

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ふとそんなことを思ったのは、これまで私はさんざん「もうモノを置く場所がない」と愚痴をこぼしてきましたが、以前の愚痴は、どこかまだ余裕のある贅言だったことに気づいたからです。つまり空間の制約ということに関して、昔の私は認識が甘かったのです。

先日、1枚の紙モノを買いました。
それをいつものように本棚の上部、天井との隙間にしまおうとしたら、その1枚の紙がどうしても入らなかった…その事実を知って、「もうだめだ」と思いました。それ以前から、私の部屋はモノを収容する力をとうに失っており、最近では買った本はすべて床に平積みになっています。それでも紙きれ1枚ぐらいなら…と思って買ったものが、現に入らなかった。「ああ、もうだめだ」と観念しました。

と言って、まだあきらめたわけではありません。少しずつ少しずつモノの配置をずらして、余剰スペースを作る努力はしていますが、所詮は焼け石に水であり、そんな努力をしている時点で、「もうだめ」なわけです。

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ここで私はどう振る舞うべきか?

もちろん「正しい答」は分かっています。
今あるモノを整理して、不要なものは処分ればよいのです。
手元にあるモノたちが、どれも同等の価値があるわけではありませんから、この際価値の乏しいものは、思い切って引退してもらってはどうか。実際、先日新しいアーミラリースフィアが来たときはそうしたわけだし、それをもっと大々的にやってはどうか…?

でも、現実を考えると、これは決してうまく行かない、机上の空論です。
いや、うまく行かないというよりも、タイミング的に手遅れです。

何となれば、「モノを整理するには、それを実行するためのスペースが絶対不可欠」だからで、人はこの事実を軽んずるべきではありません。たとえていうならば、昔、ハードディスクのデフラグというのをしばしばやりましたが、あれもキャパが乏しい状況だとマシンが青息吐息で鬱滞して、見ている方もしんどかったです。部屋の整理も同じことで、ワーキングスペースが一定以下になると、片付けという物理的作業は、実行困難になります。

質量が一定の範囲に一定以上集中すると不可逆的にブラックホールとなるように、モノも一定の空間に一定以上詰め込まれると、カタストロフを迎えて、不可逆的な変化を生じるのです。(以上のメカニズムは、いわゆるゴミ屋敷が出現する仕組みと重なります。)

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再び問う。ここで私はどう振る舞うべきか?

この死せる空間を放棄し、新たなる空間の再創造に励むというのが一つ。
あるいは、宇宙の真理を悟ったことで満足し、深い諦念とともに静かにほほ笑むというのがもう一つ。

まあ、実際には深い諦念とともに、さらなる変化――あまり望ましからぬ変化――に否応なく巻き込まれていくことになるのでしょう。たとえ敗北主義と言われようと、人生にはどうしようもないことが多々あるものです。

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