時を我らの手に2019年02月17日 15時56分07秒

手元に一枚刷りの古い暦があります。

(紙面サイズは約30.5×14cm)

幕末の元治2年(1865)のもので、「禁売買」とあるのは、これが官許の暦ではなく、私的に作成されたものだからでしょう。


江戸時代の暦の頒布は、なかなか込み入っています。

まず、幕府の天文方が天体の運行を計算して、それを暦に落とし込む作業(編暦)を行い、それを京都に送って、陰陽道の“家元”たる土御門家や幸徳井家に暦注を付けてもらい、さらに天文方が再度校閲を行った上で原本を作成し、それを各地の暦屋に下げ渡して、最終的に版木で刷った暦が一般に流通する…というのが、大雑把な流れ。そして、暦屋は公の免許を得た者に限定されていたので、要するに当時の暦は、専売制が敷かれていたわけです。

その一方で、海賊版が横行したのも事実で、その取り締まりがたびたび行われました。手元の暦は、たぶん「禁売買」と刷り込むことで、「私は法に触れる暦の売買はしておりません。これは手控えとして作っただけです」という、言い逃れの余地を残したのでしょう。

(作ったのは越後の佐藤幹起という人。「北越高 左産」は「越後高田在住、佐渡出身」の意?「推歩」とは天文計算のことで、この人物は暦学の素養に基づき、自力でこれを作成したらしい)

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暦作りの基礎たる「暦法」はもとより、幕府が年々のカレンダー作りまで独占しようとしたのは、「時を支配するのは為政者の特権である」という意識が強固にあったからでしょう。

近世は出版業の盛行により、科学的知識が身分差を越えて広く行き渡りましたが、暦法書は依然マル秘文書扱いで、公刊自体禁じられており、誓詞を出した門人のみが辛うじて閲覧を許され、細々と写本の形で流布するという状態が、明治になるまで長く続きました。

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いかにも封建的だなあ…と思います。でも、それと似たことは今でもあります。
昨日の朝日新聞を開いたら、元号の話題がトップ記事になっていました。


記事は30年前の新元号制定にかかわった学者の一人である、目加田誠・九大名誉教授(故人)が考案した、複数の元号案のメモが見つかった…というもので、これは「「平成」以外にどんな新元号候補があったのかを示す初めての史料」であり、「平成改元の内幕に迫れる第一級の発見」だと、記事は伝えています。そもそも「政府は依頼した学者、新元号案の内容や数、3案〔引用者注:平成、修文、正化の3案〕に絞った過程などについて、現在も公表していない」のだそうです。

いったいなぜ秘密にする必要があるのか?
新しいダライラマを選ぶような、宗教的な「秘儀」ならばともかく、暦年を区切る記号に過ぎない元号の制定過程を、なぜそれほど秘匿する必要があるのか?

これは、やっぱり「秘儀」にしておきたい人がいる証拠でしょう。
何となく神秘のベールに包んで、いたずらに神格化したい人が。
その秘密に触れることのできる「内側」の人間と、それ以外の「外側」の人間を分断し、前者が妙な特権意識を振りかざすなんていうのは、はなはだ良くない振る舞いだと思います。

元号はパブリックなものなんですから、妙なもったいを付けずに、みんなでオープンに決めればいいんじゃないでしょうか。