火の山へ ― 2019年03月21日 06時57分57秒
以前、書斎の写真集をめくっていて、「おや?」と思う光景を目にしました。
(E. Ellis, C. Seebohm & C.S. Sykes、『At HOME with BOOKS』(Clarkson Potter、1995)より。ニューヨーク在住のStubb夫妻の書斎)
よく見ると、中央の額も、足元に無造作に置かれた額も、すべて画題が火山になっていて、「なるほど、世の中には<火山趣味>というのがあるんだな」と、悟りました。
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火山の噴火は、もちろん恐ろしいものです。
昔のポンペイにしろ、浅間山にしろ、近くは木曾御岳にしろ、噴火によって一瞬で命を奪われた人が大勢います。火山はまずもって畏怖の対象。と同時に、その人智を超えた巨大なエネルギーが人の心を捉え、ときに神格化され、またときにこうして絵姿に描かれます。
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火山の絵というと、手元にもなかなかの優品があります。
しかし、それは「火山美」を描いたものではなく、かといって、火山災害の恐ろしさを説くものでもありません。それは火山のジオグラフィーを科学的に描いた、学校教育用の掛図です。
大阪教育社編纂、明治40年(1907)刊行の「噴火山」の図。
ずいぶん前に登場した月面図と同じく、同社の「天文地文空中現象掛図」シリーズ中の一本です。
こうした明治の地学掛図は、かなり珍品の部類に属するので、大いに自慢したいところですが、残念ながら上の画像は自前ではなく、商品写真の流用です(以下同じ。現物は戸棚の奥にしまいこまれ、容易に取り出すことができません。悲しむべきことです)。
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この絵は構図からして、たぶんナポリのヴェスヴィオ火山の写真ないし絵を元にしているのでしょう。
(ヴェスヴィオ火山の絵葉書。20世紀初頭)
それにしても不思議な絵です。
火山が大噴火しているのに、慌てふためいて戸外に走り出る人もなく、町はいたって静かです。煙突からはゆっくりと煙が上り、湾内の船舶もみな錨を下して、おとなしくしています。この町では、こんな噴火が日常茶飯事で、誰も驚かないのでしょうか。
さらに、ここに並ぶ建物群がまた独特で、現実感が希薄というか、なんとも言えないシュールな味わいです(ナポリの町とはまるで違います)。幻燈が暗闇に映し出す外国風景や、昔の文明開化の記憶、それに汽車から一瞥した神戸の街並みといった、断片的イメージを、画工が脳内でつきまぜてこしらえあげた、「この世に決して存在しない西洋風景」のように見えます。
科学的な絵でありながら、やっぱりここには不思議な美が漂っています。
こうした「空想の異国」は、関西の画工の脳内にきざすと同時に、東北に住む賢治の胸裏にも浮かび、彼はそれを「イーハトーヴの世界」として描きました。
ここで賢治を持ち出したのは、もちろん『グスコーブドリの伝記』の連想からです。ブドリがたどり着き、命をかけて救った町は、きっとこんなたたずまいだったに違いありません。さらに火山の断面図が発する科学の香りには、クーボー大博士の咳払いや、ペンネン技師の横顔も重なって感じられます。
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明治40年、賢治は11歳で小学校の高等科の生徒でした。すでに「石っこ賢さん」の異名をとるほどの鉱物好きで、2年後には県立盛岡中学校に入学し、その鉱物趣味や天文趣味にさらに磨きがかかります。
賢治が学校時代に似たような掛図を見せられ、それが記憶に潜在し、後のグスコーブドリの物語が生まれたのだ…となると、話としては面白いのですが、そんな論考がすでにあるのかどうか、寡聞にして知りません。
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