澁澤邸のアストロラーベ(3)2019年04月29日 07時10分34秒

澁澤がアストロラーベを購入したイスパハン(エスファハーン)
この地はまさにアストロラーベのフェイク作りの本場であり、彼が目にしたのは、観光客目当てのスーヴェニア的アストロラーベが並ぶ、観光地にありがちな光景だったのではないか…というのが、私の現時点での想像です。

(エスファハーンのバザールでアストロラーベを商う老人。MiladMasoodi 氏撮影)

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Sreeramula Rajeswara Sarma 氏の「A Descriptive Catalogue of Indian Astronomical Instruments – Abridged Version(インド製天文機器記述目録・要約版)」から引用してみます。

(→リンク)。

 「博物館で見られる、アラビア語ないしペルシャ語を彫り込んだフェイク・アストロラーベの多くは、イラン ― 特にエスファハーンで作られたもので、Abd al-A’imma とその同時代人の様式を模倣している。シカゴのアドラー・プラネタリウムは、そうしたフェイク・アストロラーベを12点も所蔵している。

 インドでアストロラーベと天球儀のフェイク作りが今も続いている中心地のひとつは、ウッタル・プラデーシュ州のモラーダーバード〔…〕で、ここは真鍮工芸で有名な土地だ。かつてはボンベイがそうした中心地だと目されていた。さらにジャイプールでも、同様にフェイク機器の製造が行われていると聞く。」 (
p.4237)

アストロラーベの贋作の中心地はイランであり、それが今はインドに移ったらしいのですが、ここでさらに、David A. King 氏の「The Astrolabe: What it is & what it is not(アストロラーベとは何であり、また何ではないのか)」という論考を参照してみます。

(→ダウンロードページにリンク。「Download full text PDF」をクリック)

この辺の事情について、キング氏は「イスラムのアストロラーベのフェイク製作は、19世紀にイランで始まり、過去40年間でインドへと移った」と、より具体的年代を述べています(p.160)。

キング氏の文章は2018年に発表されたものですから、40年前といえば1970年代の後半。その頃を境に、フェイク作りのメッカはイランからインドへと‘聖遷’したのでしょう。とすれば、澁澤がエスファハーンを訪れた1971年は、その「栄光」の最末期に当たるわけです。

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もちろん、以上のことはエスファハーンという地名を手掛かりとした憶測にすぎず、エスファハーンが19世紀以降、贋作の量産地だったとしても、澁澤の購入したアストロラーベが贋物だという証拠にはなりません。

現に、キング氏の論考の38ページには、エスファハーンが中世(8~13世紀)と近世(16~17世紀)の2度にわたって、正統派アストロラーベの主要産地だったとも書かれています。ここに由緒正しいアストロラーベが残っていても不思議ではないのです。

しかし…と、もう一度話をひっくり返しますが、「金属製の各種のアストロラーブらしきものが、どの店にも飾ってある」光景は、やっぱり不自然です。

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アストロラーベは、ヨーロッパはもちろん、イスラム世界においても、そんなにたくさん作られたわけでも、使われたわけでもない…というのが、キング氏の説くところです。(ちなみに、キング氏は1941年生まれの、イスラム科学史のエキスパートで、あの『望遠鏡の歴史』を著したHenry C. King の息子さんだそうです。斯界の権威として、その意見には耳を傾けねばなりません。)

例えば、「アストロラーベは実際に使われたのか?」という節。

 「デレク・プライスがすでに1970年代に述べているように、アストロラーベは人々が想像するよりも、はるかに使用されることが少なかったらしい。これまで何百もの品を調査した者として、そこに広範に使用された形跡が残るものは、ごく僅かしかないと私は断言できる。このことが意味するのは、アストロラーベとは所有するものであり、贈呈するものであり、その用法を学ぶものであり、そしてごくたまに使用されるものであった…ということである。」 (p.37)

昔のイスラム世界でも、誰も彼もがアストロラーベを持っていたわけではありません。むしろ、当時にあっても多分にシンボリックな存在で、贈答品になるぐらい稀少な品だったのです。そこには、アストロラーベがなくても、一般の人も学者も、さして困らなかったという事情があります。以下、「アストロラーベは重要なのか?」という節より。(文中「」は参考ページへのリンク。)

 「中世天文学史の観点からいえば、アストロラーベは多くの人が考えるよりも、はるかに重要性に乏しい。第一に、宇宙を表現するものとしては、天球儀とアーミラリー・スフィアがあったし、時刻を知ろうと思えば、他の機器――特に日時計やノクターナル、あるいはナヴィキュラ〔〕の名で知られる汎用測時盤(universal horary dial)といった小型の手持ち式測盤(hand-dials)――を使うこともできた。また、太陽・月・肉眼で見える5大惑星の位置を決定するには、〔アストロラーベではなく〕イクアトリウム〔〕という極めて特殊な用具が必要となる。

第二に、太陽と星を使って時刻を知ろうと思えば、少なくともイスラム世界においては、特定の緯度に対応した何千、何万、あるいは何十万という項目を備えた表が存在したし、あらゆる緯度に対応した汎用表もあった。同様に、太陽・月・惑星の位置を計算するための表を、天文学者なら誰でも使うことができ、特定の年の各日におけるそれらの位置を表示した天体位置表が、さまざまな中心都市で毎年編纂されていた。

 実際のところ、可動式の機器が占めるのは、天文学の歴史のほんの一部(たしかに重要な一部ではあるが)に過ぎない。天文学の歴史を記した本の中で、アストロラーベは1つか2つのセンテンスで簡単に片づけられるか、あるいは全く言及されないことすらある。天文学上のパラメータを改良することを目的とした本格的な観測に、アストロラーベが使われたことはごく稀である。」 (pp.14-15)

さらにキング氏はこう書きます。

 「しかし世間は、往時の天文学者が観測と表と計算によって行っていたことには興味を示さない。計算と表はセクシーではないが、アストロラーベは成程たしかにセクシーだ。だから、当時の社会において、アストロラーベが天文学のごく小部分を構成するにすぎないことを人々に納得させることは難しいのだ。」 (p.164)

端的に言って、アストロラーベは、その見場の良さからかなり買いかぶられている、その歴史的実像を離れて後世の人間がいろいろなファンタジーを重ねている部分がある…というのが、キング氏の意見です。だからこそ、そこに需要が生じ、フェイク市場が生まれ、土産物屋の店先を軒並み飾ることになるのです。

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ここで澁澤の書斎に戻って、彼のアストロラーベそのものに目を向けてみます。

(この項さらにつづく)

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